金田一耕助ファイル15    悪魔の寵児 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  第一章   |日《にち》|月《げつ》|堂《どう》の客  第二章   |酒《バ》|場《ア》カステロ  第三章   |挨拶心中《あいさつしんじゅう》  第四章   帯締めと注射器  第五章   死体消失  第六章   |望月蝋人形館《もちづきろうにんぎょうかん》  第七章   悪婆の射撃  第八章   雨男  第九章   |欣《きん》|吾《ご》の不安  第十章   現代|歓《かん》|喜《ぎ》|天《てん》|像《ぞう》  第十一章  悪魔の女狩り  第十二章  瓶と栓  第十三章  短銃と注射器  第十四章  女狩り第二号  第十五章  |覗《のぞ》かれた愛戯  第十六章  奇妙な取り合わせ  第十七章  狂ったバランス  第十八章  恐ろしき魔像  第十九章  オート・ミール  第二十章  狙撃手  第二十一章 女狩り第三号  第二十二章 |卍《まんじ》  第二十三章 |罠《わな》  第二十四章 嵐の後     第一章 |日《にち》|月《げつ》|堂《どう》の客  この恐ろしい物語は一枚のハガキからはじまる。 「名刺、ハガキ、印刷引き受けます」  そういう軒看板のあがった日月堂という本屋へ、その薄気味わるい男がはいってきたのは、昭和三十三年六月十八日の午後四時ごろのことである。  この日月堂というのは中央沿線の|吉祥寺《きちじょうじ》にあり、すぐ近所に|成《せい》|蹊《けい》学園という、幼稚園から大学まで包含している一大学園をひかえているので、午後四時ごろといえば、いつも学校がえりのお客さんたちで、かなりひろい店内もいっぱいになる。  ましてや時候が|梅《つ》|雨《ゆ》のさなかとて、外には、じとじとと陰気な雨が降っていたので、店内のごったがえしたかんじは、またひとしおだった。  こういうときが危険なのである。万引きを警戒しなければならないのである。ましてやさいきん計画的な集団万引きのために、てひどい打撃をうけた経験をもつ日月堂のおかみは、カウンターの奥からそれとなく、鋭い目を八方にくばっていた。  ちかごろ店を改装したばかりの日月堂は、蛍光灯の照明もよくいきとどき、グリーンの事務服をきたわかい女店員が三人、いつでもお客さんのもとめにおうじられるようにと、要所要所に立っている。むろん彼女たちが同時に万引きの監視もかねていることはいうまでもないが、あるいはこのほうが重要な役目なのかもしれない。  おかみさんのすぐ頭上にある電気時計が、きっちり四時を示したときである、その薄気味悪い人物がはいってきたのは……  その男は防水したながいレーン・コートをきて、脚にはゴムの長靴をはいていた。したがってその男が、どのような地の洋服をきていたか、だれの目にもわからなかった。  しかも、かれのきているレーン・コートには、おなじ防水地のフードがついていて、その男はそれをすっぽりかぶっているうえに、そのフードにはまるで防寒用のように、鼻から下をかくす幅のひろいマスクのようなものがついていて、それをきっちりかけているので、その男の顔のなかで露出している部分といったら目だけであった。ところが、その目には大きな|煤《すす》|色《いろ》のふちなし眼鏡をかけているという寸法だから、したがってその男は、だれの疑惑をも招くことなしに、しかもたくみに顔をかくしていたということになるらしい。  いずれにしてもそういう客が、店内へはいってくるということは、おかみとしてはあんまりありがたくないのである。なぜならばその男はこうもり傘をもっておらず、したがって、レーン・コートの裾からポタポタとしずくがたれるので、そうでなくともじめじめしている土間が、いっそうじめじめすると思ったからである。  もっともその男は店内へはいってくるまえに、軒下に立ってそうとうしずくを切っていたようだけれど……  その男は店内へはいってくると、ちょっとあたりを見まわしたのち、すぐつかつかとカウンターのまえへやってきた。|上《うわ》|背《ぜい》は五尺六寸もあろうか、がっちりと肩幅のひろい男で、わずかに露出している部分の肌は、浅黒く健康そうであった。  のちになってこの男のことが重大な問題になってきたとき、警察官のまえでおかみが証言できたのは、以上のべたような、しごくとりとめのない事実だけだった。おかみはその男の年齢の見当さえもつかなかったのである。  それはさておき、カウンターのまえに立ったその男は、うえからおかみの顔をのぞきこむようにしながら、 「ハガキ刷ってもらえるかね」  と、ひくいボソボソした声でつぶやいた。  なにしろマスクのようなものをかけているので、声の質はまるでわからなかったが、調子はそうとう|横《おう》|柄《へい》だったのである。 「はあ、どういうおハガキでございましょうか」  日月堂のおかみは|愛嬌《あいきょう》ものでとおっている。それにひやかしの客でないとわかってみれば、おかみも糸切り歯にかぶせた金冠を、ちらりとのぞかせずにはいられなかった。  さっそく見本帳を取り出すと、みずからページをめくりながら、 「どういう紙がよろしゅうございますかしら。なにかご|挨拶状《あいさつじょう》でも……」 「ああ、そう、ちょっと旅に出る挨拶なんだがね。男と女の連名だから、あんまりいかついかんじの紙質じゃ困るんだ」  おかみは、はっきりおぼえているのだが、そのとき男が、ことばのさいごに、うっふっふっと薄気味わるいふくみわらいをもらしたので、おもわずはっと、あいてを見なおしたのである。しかし、男は両手をレーン・コートのポケットにつっこんだまま、見本帳のうえにかがみこんでいたので、顔はぜんぜん見えなかった。 「ああ、それがいいね、そのBの6号というやつが……」 「Bの6号でございますね。承知いたしました」  と、おかみは注文伝票をとりだして、 「お名前とお所をどうぞ」 「いや、ところはいい。できたじぶんに取りにくるから。名前は|石川宏《いしかわひろし》」 「はあ、石川ヒロシさんでいらっしゃいますね。ヒロシというのは……?」 「ウ|冠《かんむり》に片仮名のナという字に、おなじく片仮名のムという字だ」  と、男はあいかわらずポケットに両手をつっこんだままである。 「はあ、それではこれへ文章を……」  と、おかみが伝票に万年筆をそえて差し出すと、 「いや、ついでに君、書いてくれたまえ。ぼくがここでいうからね」  おかみはちょっとあいての顔を見なおしたが、すぐに伝票と万年筆をひきよせると、 「それでは、どうぞ」 「ええ……と、拝啓、時下新緑の候みなさまにはお元気のことと存じます。|扨《さて》、長らくお世話になりましたが、それではいってまいります。みなさまには末永くお栄えあそばしますよう、かげながらお祈り申し上げます。敬白。昭和三十三年六月……と日付はいらない。名前は|風《かざ》|間《ま》|美《み》|樹《き》|子《こ》……美樹子はうつくしい樹、樹は樹木の樹だ。ああ、そうそう、それからおれの名前の石川宏と、おなじ大きさの活字でならべて刷ってほしいんだが……」 「はあ……」  と、おかみはじぶんの書いた原稿をよみなおすと、 「これでよろしゅうございましょうか」  差し出された注文伝票を男はうえからのぞきこんでいたが、仮名にすべきところ、漢字に改めるべき文字、さらに|句《く》|読《とう》|点《てん》など、いちいち口で指図をして訂正させると、 「それで百枚刷ってほしいんだが、いくらあずけとけばいいかね。千円じゃたりないかね」 「いえ、千円おあずかりすれば十分でございます」 「ああ、そう」  と、男はあらかじめ用意してきたらしく、レーン・コートのポケットからつかみだした千円札を一枚、カウンターのうえにほうりだしたが、この時候にもかかわらず、男がくろい手袋をはめているのをみて、おかみは思わずはっとした。 「それで、いつごろくればいいかね。一週間もあれば十分だろう」 「はあ、それはもう……」 「それじゃ二十四、五日ごろにやってくる。いや、受取りはいらん」  そういいすてるとその男は、くるりとおかみに背をむけて、ごったがえす店内の客をかきわけると、そのまますたすたと降りしきる雨のなかへ出ていった。あいかわらず両手をポケットにつっこんだまま。  |茫《ぼう》|然《ぜん》としてそのうしろ姿を見送っているうちに、おかみはふっと怪しい胸騒ぎをおぼえて、もういちど原稿のうえに目をおとしたが、べつにおかしいと思われる文句も見あたらない。たぶん外遊でもする男女が、知人にくばる挨拶状だろうと思った。  ただ、ちょっと、男と女の|苗字《みょうじ》がちがっているのが気になりはしたのだけれど。     第二章 |酒《バ》|場《ア》カステロ      一 「やあ、よく降るねえ」  と西銀座にある高級酒場カステロのドアを|排《お》してはいってきたのは、東都日報の文化部記者|水《みず》|上《かみ》|三《さん》|太《た》。このカステロのご常連である。  それはあの薄気味わるいレーン・コートの男が、吉祥寺の日月堂でハガキの印刷を注文をしていった日からかぞえてちょうど十日目、すなわち六月二十八日の夜の十時ごろのことである。  朝刊の記事をデスクへまわした水上三太は、やっとその日の仕事から解放されたが、そのまま有楽町から電車にのって、目黒にあるアパートへかえる気にはなれなかった。雨が降ろうが槍が降ろうが、しぜんとカステロへ足がむくのが、ちかごろのかれの習慣になってしまった。  べつにこれというお目当てがあるわけではない。しいていえば去年の秋からこのカステロへ参加した|早《さ》|苗《なえ》だが、しかし、かれのカステロがよいはそれ以前からである。  さる私立大学に在学中、郷里のおやじが死亡して、三男である三太も新憲法のおかげで遺産のわけまえにあずかった。三太のおやじは北九州でもそうとう有名な炭鉱主だったから、三太のわけまえも少なくなかった。ぜいたくさえしなければ、利息で生涯食っていけるくらいは十分ある。  在学中からジャーナリストが志望で、昭和二十八年の秋、東都日報の入社試験をうけたらパスした。二十九年の春に入社して、ことしでちょうど五年目、仕事にもなれていまがいちばんはたらきよい|年《とし》|頃《ごろ》である。  郷里にいるおふくろからは、はやく嫁をもらえとしきりにせっついてくるし、東京にある|親《しん》|戚《せき》や知人からもいろいろ話をもってくるが、三十までは独身ときめている。在学中世話になっていた親戚のうちも、学校を出ると同時にひきはらって、目黒にあるげんざいのアパートへうつった。うかうかしているとそこの娘をおしつけられそうだったからである。  かくべつ好男子というのではないが、いやみのない男っ振りである。在学中バレー・ボールの選手をしていたというだけあって、五尺七寸のからだは均斉がとれているうえに柔軟性をもっている。九州男児だけあって色はくろいが、お坊っちゃんそだちだから、こせこせしたところがみじんもない。どこへいっても三ちゃん、三ちゃんともてるゆえんであろう。カステロではもう三年ごしの常連である。 「どうしたんだい? みんな、いやにぼんやりしてるじゃないか」  六月二十八日の夜。——  ああ、その晩こそ、のちに悪魔の|寵児《ちょうじ》と命名されたあの恐るべき怪物が、活動を開始したさいしょの晩だったのだが、その夜も陰気な梅雨の雨が、骨のずいまでくさらせてしまいそうに、じとじとと銀座の舗道をぬらしていた。  そのせいかカステロには、そのときひとりの客もなく、四人いる女の子がすみっこのほうで、ひとかたまりになって、なにやらひそひそささやさかわしていた。  はいってくる三太のすがたをみても、 「あら、三ちゃん!」  と、いっせいに声をあげはしたものの、その調子にはどこか日頃の生気と弾力がかけていた。ことに三太がいちばん目をつけている石川早苗のごときは、|頬《ほお》があおじろく硬直していて、三太をふりかえった目のいろは、するどくとがってうわずっていた。 「どうしたんだい、早苗ちゃん、なにかかわったことでもあったのかい?」  それにたいして返事をしたのは早苗ではなく、カウンターのおくで夕刊を読んでいたバーテンの|酒《さか》|井《い》だった。 「やあ、三ちゃん、いらっしゃい。外はやっぱり降ってますか」 「ああ、あいかわらず降りつづけてるよ。まったくいやんなっちまう」 「まったくねえ。この夕刊にも来月の天気予報が出てますが、ことしの梅雨はながびくもようだってさ。これじゃ、からだにカビが|生《は》えてしまいますぜ。ときになににしますか」 「いつものとおりのカクテルだ」 「オーケー」  酒井はさっそくシェーカーを振りはじめる。女たちがあいてにならないので、三太はしかたなしにそのまえへいって、たかい腰掛けに腰をおろすと、 「バーテン、あの連中、どうかしたのかい」 「やあ、それがね、ちょっと妙なことがありまして……」 「妙なことって?」 「いや、それがね、ちょっと他聞をはばかることなんでね。ことに三ちゃんみたいなブン屋さんにはね」 「バーテン、よけいなことをいうもんじゃないわよ。三ちゃんがいかに文化部だって……三ちゃん」  と、そばへよってきてとなりの腰かけへ腰をおろしたのは、このカステロでもいちばん古参のお京である。 「あたしもカクテルご|馳《ち》|走《そう》してよ」 「ああ、いいよ、みんなこっちへきてのまないか」  言下に夏子に|由《ゆ》|紀《き》|子《こ》がそばへきたが、早苗だけはすみっこの席をうごかなかった。バーテンのうしろの鏡にうつっているすがたが、妙にさむざむとした印象である。 「どうしたんだい。お京。早苗ちゃん、なにをあんなに考えこんでるんだい?」 「なんでもいいの。そんなことより、こんやはじゃんじゃん飲みましょうよ」 「そうよ、そうよ、三ちゃん、あんまりしょうばい気だしちゃだめよ」 「しょうばい気か、あっはっは」  と、三太はバーテンの差し出すグラスをなめながら、 「ときにマダムは……?」 「マダムはお客さま」 「お客さまってパパさんなの」 「ううん、|渋《しぶ》|谷《や》のマダムと池袋のマダムよ」 「なんだって?」  と、三太はおもわずカクテルにむせそうになり、目をみはって由紀子の顔をふりかえった。 「渋谷のマダムと池袋のマダムって、パパさんの……なにかい?」 「ええ、そう、重大事件が起こったのよう」  と、お京が鼻歌を唄うように調子をつけてささやいたとき、 「早苗ちゃん、ちょっと……」  と、おくから顔を出したのはマダムの|城妙子《じょうたえこ》である。妙子は三太に気がつくと、 「あら、三ちゃん、いらしってたのう?」  と、愛想わらいをうかべたが、その微笑はかたく頬にこおりついて、なにかしら複雑なかげをやどしていた。      二  いったいカステロというのはイタリア語で、城という意味だそうである。だからここのマダムの城妙子は、じぶんの苗字をイタリア語にして、店の名前としたのであろうが、それは同時に愛欲の城という意味もふくまれているのかもしれない。  三太も、もう三年ごしの常連だから、一同からパパさんという愛称をもってよばれているマダムのパトロンもしっている。そのパトロンは|風《かざ》|間《ま》|欣《きん》|吾《ご》といって戦後の新興実業家である。もとは職業軍人だった男だが、かれの名前が世間にひろくしられるにいたったのは、実業家としてよりもスキャンダルによってであった。  中学時代かれは旧領主|五《ご》|藤《とう》|伯爵家《はくしゃくけ》の書生をしていたが、その五藤伯爵のひとり娘|美《み》|樹《き》|子《こ》というのが、同族の|有《あり》|島《しま》|子爵家《ししゃくけ》へとついでいた。風間より十六も年下なのだから、書生時代、風間もお守りをしたことがあるそうだ。  娘時代から美樹子は評判の美人だったが、昭和十八年二十歳で有島子爵のひとり息子|忠《ただ》|弘《ひろ》と結婚した。当時のことだから、むろんかぞえどしである。そのころ忠弘は宮内省へつとめていて、二十七歳であった。からだが強壮でなかったので、軍隊へはとられなかったのである。  結婚当時ふたりはお雛様のような夫婦とうわさされていたが、戦後はおさだまりの斜陽族である。忠弘は美樹子と結婚した翌年、父をうしない爵位をついだが、貴族の|御《おん》|曹《ぞう》|子《し》とうまれ育った忠弘には、戦後の|苛《か》|烈《れつ》な世相をのりきっていく腕と度胸が皆無だった。貴族の標準としてではなく、ふつう一般人としてもかれは生活無能力者だった。  昭和二十二年、すなわちインフレが絶頂に達したころには、夫婦は食べるものにもことかくしまつであった。しかも美樹子のさとの五藤家にしてからがおなじ状態だったから、どこへも救援をもとむべきすべはなかった。むしろ芝公園のそばにある有島家の邸宅はさいわい戦災をまぬがれたので、かれら夫婦は一族のなかでも|羨《せん》|望《ぼう》の的になっていたくらいである。  そういう窮状のさなかに出現したのが風間欣吾であった。  かれが、いったいなにをもって産をなしたのか、詳しいことをしっているものはひとりもない。終戦時のどさくさまぎれに軍の物資を横領したのであろうとか、砂糖の密輸で|儲《もう》けたのだとか、いろいろ説をなすものがあるが、とにかく昭和二十二年ごろ、かれはすでに巨富をつんでいた。  欣吾はまず旧主五藤家へ接触し、それから有島家へ手をのばしていった。|落《らく》|魄《はく》して生活のメドさえ見失っていた旧貴族たちは、この生活力の|旺《おう》|盛《せい》な男を歓迎するのあまり、かれの野心を見おとしていた。  欣吾がいつごろから美樹子に目をつけていたのかわからないが、有島家と接触が生じたころ、とつぜんかれは先妻の|種《たね》|子《こ》を離婚している。そして、昭和二十三年、芝公園のそばにある有島邸を手に入れてそこへ移り住んだとき、その邸宅には美樹子がそのまま主婦としていのこった。そのときかぞえどしで欣吾は四十一歳、美樹子は二十五歳。  当然、そこにはごうごうたるスキャンダルがつたえられた。  忠弘は妻もつけるという条件で、時価よりもはるかに高価にその邸宅を、欣吾に売りつけたのだという。また、忠弘の無能力者ぶりに愛想をつかした美樹子のほうから、欣吾の腕のなかへとびこんでいったのだというものもあった。さらにうがったことをいうひとは、一夜欣吾が美樹子に酒を強い、その酔い|痴《し》れているところを犯したのだと説をなすものもあった。そして、それらの説は、いずれも少しずつ|肯《こう》|綮《けい》をついているのではあるまいか。  欣吾の事業はますます発展していった。かれはいろんな事業に手を出し、かれの手を出して、いまだかつて当たらざる事業はないといわれている。つぶれかけたボロ会社でも、ひとたび欣吾が手を染めると、かならず息をふきかえすとさえつたえられている。  このように欣吾は事業においても|貪《どん》|婪《らん》だったが、漁色においてもそれに劣らなかった。  旧貴族の娘である美樹子は血統においても、すぐれたその容姿においても宿の妻、すなわち床の間の飾り物としてはかっこうだったが、欣吾の旺盛な性の対象としてはたぶんに物足りないものがあったらしい。当然かれは、ほかの女にそれをもとめた。  いま欣吾の世話になっている女として、ひろく世間にしられているのが三人ある。そのひとりがカステロの城妙子で、あとのふたりがカステロの女たちから、渋谷のマダムとか池袋のマダムとかよばれている|保《ほ》|坂《さか》|君《きみ》|代《よ》と|宮《みや》|武《たけ》|益《ます》|枝《え》である。保坂君代は渋谷で美容院を経営しており、宮武益枝は池袋で洋裁店を出している。  いったい欣吾は、じぶんが仕事ずきであるだけに、女も昔ふうに|舟《ふな》|板《いた》|塀《べい》に見越しの松式な、おかこいもの生活をのぞむようなタイプはすかなかったらしい。じぶんじしんもなにか仕事をしてみようというような女、そして、それがやっていけるような生活力の旺盛な女にしか食指がうごかないらしい。  欣吾は妙な趣味をもっていて、公然と世話をする女は芝の邸宅へつれていって、美樹子に挨拶をさせるばかりか、ときどきご機嫌伺いに|伺《し》|候《こう》させるのである。だから、いま公然と芝の邸宅へ伺候する資格のあるのは、以上あげた三人だけだが、まだそのほかにも、かくれたのがいろいろあるらしいという|噂《うわさ》もある。  それはさておき、いまその三人の愛人がカステロのおくにあつまって、なにやら密議をこらしているらしいとあっては、尋常のこととは思えない。  たとえ文化部に席をおくとも、水上三太も新聞記者である。妙子によばれて、おどおどとおくへはいっていく早苗のうしろすがたを見送って、かれの神経は針金のようにピーンと緊張していた。  カステロのおくのマダムの私室は|長《なが》四畳のたたみじきで、そこに金庫だの整理戸棚だの机だの、さては化粧ダンスや三面鏡だのがごたごたとならんでいるのだから、三人のマダムが足を投げだしてすわっていると、早苗のわりこむすきもないくらいの狭っくるしさである。 「なにかご用でございましょうか」  入り口のドアのところで早苗が腰をかがめると、 「まあ、こっちへはいんなさいよ。それからドアをぴったりしめて頂戴」  と、妙子は命令するような調子である。  妙子と君代と益枝の三人マダム、ともに年齢は二十八から三十くらいまでだろうか、それぞれちがった個性をもっていることはいうまでもないが、この三人に共通していることは、いずれもその容姿にボリュームをかんじさせる点である。  ところで欣吾の正妻の美樹子というのは、|楚《そ》|々《そ》たる麗人ということばが、いかにもぴったり当てはまりそうな貴族的|風《ふう》|ぼう[#「ぼう」は、「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode="#4e30"]《ぼう》のもちぬしである。おそらく欣吾は床の間の飾り物としては、そういう|臈《ろう》たけた女を欲したのであろうが、じっさいに胸に抱いて|賞翫《しょうがん》するには、こういうボリュームのある女がよいのであろう。 「結局ねえ、早苗さん」  と、妙子はするどく早苗の顔色を読みながら、 「ここで|小田原評定《おだわらひょうじょう》しててもしかたがないから、これからみんなでお宅へいってみようということに話が一決したの。あなたまさか、いなやはないでしょうねえ」 「いいえ、べつに……」 「そう、それじゃさっそくあなたも支度をして頂戴。ああ、そうそう、それからお店に三ちゃんがきてるようだけど、あなたまさか、このことをしゃべりゃしなかったでしょうねえ」 「まさか……」  と、早苗はこじわをよせてよわよわしく微笑する。  早苗はことし二十五歳。すらりと姿のよい娘で、どちらかというと楚々たる美人の部類に属するほうだろう。いまだかつて大声をあげてはしゃいだことのない女で、うれしいときでもにっこり微笑するだけで、どこか|妖《よう》|精《せい》のようなかんじのする娘である。 「三ちゃんて、いったいだあれ?」  と、早苗が出ていくと、保坂君代が立ちあがって靴下をたぐりあげながら|訊《たず》ねる。 「ううん、新聞記者なの。東都日報の……」 「いやあねえ、新聞記者にこんなことがしれちゃ……」  いちばんわかい宮武益枝が溜め息ついた。 「だって、いずれはしれるわよ。こんな挨拶状をほうぼうにバラまかれちゃ……」  と、君代がハンドバッグからとりだしたのは、なんと、十日以前にあの薄気味わるい男が、吉祥寺の日月堂で注文していったあの挨拶状ではないか。しかも、その挨拶状には墨くろぐろと黒枠がついている。      三  三人のマダムがいま大恐慌をきたしているのは、そのハガキのせいである。きょう午後の便で三人のところへ、次のようなハガキが舞いこんだ。  この挨拶状のうち文句はむろん活字だが、黒枠だけはあとから墨でぬったものである、おそらくこのような挨拶状を黒枠でかこうように注文したら、怪しまれると思ったのであろう。そのまがまがしい黒枠だけは挨拶状[#電子書籍版では挨拶状画像]が刷りあがってから、差出人が塗ったのである。 [#ここから1字下げ] 拝啓 時下新緑の候みなさまにはお元気のことと存じます。|扨《さて》、長らくお世話になりましたが、それではいってまいります。みなさまには末永くお栄えあそばしますよう、かげながらお祈り中し上げます。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]敬白 [#ここから4字下げ] 昭和三十三年六月 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]風間美樹子 [#地から2字上げ]石川 宏  思いもよらぬこの挨拶状をうけとって、いちばん大恐慌をかんじたのは城妙子である。なぜならば石川宏というのは、じぶんの店ではたらいている早苗の兄で、しかも美樹子に宏を紹介したのは妙子なのである。  宏はまずしい無名の画家で、妹のはたらきによってえた収入で生活をたてながら、画業に専念している。妙子は去年の秋早苗がカステロではたらくようになってから宏をしった。絵のことはぜんぜんわからない妙子だったが、ものしずかでまじめな宏の人柄に好意をかんじた。頼まれるままにじぶんの肖像を一枚かかせてみたら、出来がよいように思えたので美樹子に話した。  美樹子がその絵をみせてほしいというのでみせたら、じぶんもこのひとに肖像をかいてもらいたいから紹介してほしいとの希望であった。そこでこの春、宏を芝の邸宅へつれていって紹介したら、美樹子にもかれの人柄が気にいって、肖像をかかせることになった。  宏は四月から五月へかけてふた月あまり、三日にいちどくらいのわりで芝の邸宅へかよって、美樹子の肖像を一枚かいた。それはかなりの大作でモデルの美樹子は和服であった。美樹子はその絵が気にいって、こんどは洋装のところをかいてほしいという希望で、いまも三日にいちどくらいのわりあいで宏が芝へかよっていることは、妙子も早苗からきいてしっていた。  そこへもってきて、きょうのこのまがまがしい黒枠の挨拶状である。  その内容をよみ黒枠に目をやったとき、すぐ妙子の頭にきたのは情死ということである。そしていかにも情死をしそうなふたりであることに、いまさらのように気がついて、妙子は後悔のほぞをかむのである。  妙子はいまも野望にもえている。彼女は現在ていどの小っぽけなバアでは満足できなかった。場所も有楽町あたりの足場のよいところと|狙《ねら》いをつけていた。どうやらその希望が実現されそうになり、欣吾もだいたい了解していた。  そこへもってきてこの一件である。昭和二十三年当時とちがい、風間産業といえばそうとうひとにしられ、それだけに欣吾もスキャンダルを気にするようになっている。そのスキャンダルの種を|播《ま》いたじぶんにたいして、欣吾の怒りが爆発しはしないかと、妙子が心配するのは美樹子や宏のことよりも、おのれじしんのことなのである。  しかも、その挨拶状はどういうわけか妙子の自宅へはこず、銀座の店が宛名になっていたので、妙子がお店へ出るまでに、女の子たちに見られてしまった。  早苗は妙子よりひと足おくれて、五時ごろ店へやってきた。彼女はマダムからそのハガキを見せられると、|茫《ぼう》|然《ぜん》として目を見張った。 「あなた、このハガキをどう思って?」  妙子からするどい|詰《きつ》|問《もん》を浴びせられたとき、 「そんな、そんな、マダム……」  と、早苗は、いまにも泣きだしそうな顔色で、 「だって、あたしきょう美容院へいこうと思って、いつもよりはやめにお昼御飯食べるとすぐに|赤堤《あかつつみ》の家を出たんですけれど、そのときの兄のようすには、ちっともふだんとかわったところはなかったんですもの」 「あら、そう、それじゃあお兄さん、きょうもおうちにいらしたのね」  妙子は、いくらかほっとしたようだったが、あとから思えばそのときすぐに手をうっておけば、ああいう間違いは起こらなかったのではないか。それがそうはいかなかったのは、あいにく欣吾が関西方面へ旅行中で留守だったのと、それに妙子としてはなるべくならば、ことをあらだてたくなかったせいもあった。 「それにしても早苗さん、いっしょに住んでる妹として、このことどうお思いになって?」 「このことって?」 「いいえ、奥さまとお兄さんとのこと、なんかへんな関係でもあるんじゃないかというようなけはいは……?」  早苗は唇をかむようにして考えていたが、 「あたし、そんなこと絶対に信じられません。兄は無口なひとですし、必要以外なことはしゃべらないひとです。でも、そんなことがあったら、なにかかんじられそうに思うんです。兄は口数こそ少ないんですけれど、わりに顔色に出るひとですから……」 「そうねえ、そうすると、これだれかの|悪《いた》|戯《ずら》なのね。悪戯としてもずいぶんたちのわるい悪戯ねえ」  宛名の字をみるとわざと筆跡をかえたとしか思えない、へたくそな|金釘流《かなくぎりゅう》だった。  それでも念のために芝の宅へ電話をかけてみると、奥様は歌舞伎座の踊りの会へおいでになると、二時ごろうちをお出かけになったという返事で、このほうもべつにかわりはなさそうだった。美樹子は外出するときいつも自家用車だから、いくさきをごまかすわけにはいかないのである。  六時すぎ君代と益枝から電話がかかってきた。彼女たちも黒枠の挨拶状をうけとったひとりで、電話だけでは胸の不安が解消しなかったとみえて、それぞれカステロへかけつけてきたのである。  九時ごろ妙子はもういちど芝のうちへ電話をかけてみた。芝の返事はこうであった。八時にくるまで迎えにくるようにとのことだったので、|白《しら》|崎《さき》(運転手の名である)が七時半ごろ出かけたが、まだおかえりではないというのである。しかも、その返事にはべつに狼狽しているふうもないので、芝の家ではそういう怪しげな挨拶状がくばられていることを、まだしらないらしいのである。  このことがかえって三人のマダムをいっそう不安にした。三人のマダムのところへ挨拶状が配達されたのはだいたい午後四時ごろのことだった。だから、当然、その時刻には美樹子の親戚のうちへも、黒枠の挨拶状がとどいていなければならぬはずである。と、すればいまごろはもう芝のほうへも耳にはいり、大騒ぎをしていなければならぬはずなのだ。それにもかかわらずそういう気配がないというのは……?  そこで結局、ここで小田原評定をしていてもはじまらないから、とにかく宏のようすをみにいこうということになり、三人のマダムが早苗の案内で、西銀座から自動車を走らせることになったのが九時半ごろのこと。  はらわたの底までくさってしまいそうな雨は、依然としてじとじとと東京の|巷《ちまた》ちまたに降りそそいでいた。     第三章 |挨拶心中《あいさつしんじゅう》      一  早苗は兄といっしょに小田急沿線の|経堂赤堤《きょうどうあかつつみ》に住んでいる。むろん一軒占有しているわけではなく、加藤重吉というもとさる大会社の重役で、戦後パージから脳溢血を起こして、いまだに病床に|臥《ふ》しているひとの邸宅の、|別《べつ》|棟《むね》の離れをこの春から借りて住んでいるのである。紹介者は美樹子夫人で、それまでふたりは六畳ひとまのアパートに住んでいた。  三人のマダムはそれぞれ自家用車を走らせてきたのだが、この時刻に三台の自動車をのりつけて、近所の不審をかってはならぬというところから、経堂の駅付近で自動車をのりすてると、そこから雨のなかをあるいて十五分。  早苗たち兄妹の借りている離れは、|母《おも》|屋《や》とはかなりはなれており、武蔵野の原始林をおもわせるような木立ちのなかにちんまりと建っている。形ばかりの玄関のほかに六畳と四畳半のふたまきり。台所も湯殿もなかったのを、早苗たち兄妹が借りることになったとき、美樹子夫人から借金をして、バラックのようなものを建てましたのである。  加藤家では表門から出入りするのは気がねだろうからと、離れのすぐそばの垣根をこわして小さな門をつくってくれた。だから狭いことさえがまんすれば、独立家屋に住んでいるのもおんなじである。  一同がその門からはいっていくと、離れはひっそりと|暗《くら》|闇《やみ》のなかにしずんでいて、うっそうと|繁《しげ》った木立ちの葉末を、こまかな雨がひそやかにたたいていた。むせっかえるような青葉の匂いである。 「真っ暗だけど、兄さんやっぱり留守じゃない?」  暗闇のなかでささやく妙子の声はふるえている。 「いいえ、きっと寝てるんですわ。兄はよく夜中に起きて勉強しますの。兄さん、いて?」  新しくつくられた門からはいっていくと、玄関はかえってぎゃくの方角にある。早苗は懐中電灯の光で足もとを照らしながら四畳半の雨戸の外から声をかけたが返事はなかった。 「やっぱりよく寝ているようです。玄関のほうへまわってみましょう」  玄関へまわると格子には、かけがねがかかっておらず、さりとて鍵もかけてなかった。 「ほら、やっぱりうちにいるんですわ」  早苗はさすがにうれしそうに声をはずませて、 「兄さん、起きて……お客さんがいらしてよ」  と、玄関へあがると、つぎが六畳、|襖《ふすま》をひらいて壁のスイッチをひねったとたん、早苗はそこに立ちすくんでしまった。  その六畳が宏の書斎兼アトリエ兼寝室になっているのだけれど、いまそこには宏の夜具がしかれてある。掛け|布《ぶ》|団《とん》ははんぶん裾のほうへ折りかえされていて、その下に仰向けによこたわっているのは、なんと長襦袢一枚の美樹子夫人ではないか。美樹子の顔はいくらか苦痛にゆがんでいるが、しかし、なお臈たけきうつくしさはくずれていなかった。黒髪がみだれて頬にまつわりついているのが、一種異様ななまめかしさである。  美樹子は長襦袢の胸を大きくはだけ、ふたつの乳房がむきだしになっている。その左の乳房に顔を埋めるようにして、|俯《うつ》|臥《ぶ》せにたおれているのはゆかたすがたの宏である。かれの右手は美樹子の右の乳房のうえにおかれ、美樹子の右手は宏の首をかかえこんでいる。裾のほうは掛け布団のためにみえなかったけれど、おそらく俯臥せになった宏の右脚は、仰臥した美樹子夫人の右脚にからみついているのであろう。  早苗の背後で三人のマダムも凝結したように立ちすくんで、このなまめかしくもまがまがしい、男女の抱擁図を見まもっている。四人とも呼吸をすることさえ忘れているようである。  とつぜん、妙子がすすり泣くような溜め息を吐きだすと、 「ああ、やっぱりあの挨拶状はうそじゃなかったのね。いったい、これはなんのざま!」  と、きたないものでも吐きだすような、にくにくしげな調子である。 「二度あることは三度あるっていうけど、昔良人ある身でパパに通じたようなひとですもの、やっぱりねえ」  と、このどくどくしいことばは、保坂君代である。 「ほんとに虫も殺さぬような顔をしていながら、なんということでしょう」  益枝のことばにも、みじんも同情のひびきはなかった。  みんなこのスキャンダルが欣吾の心情にどのような影響をもたらし、それがおのれの身に、どのような結果となってはねかえってくるかということを、それぞれ心中で計算しているのである。  とつぜん、早苗がするどい金切り声をはりあげた。 「うそです! うそです! こんなことうそです! 兄さん、兄さん!」  早苗は兄にすがりついたが、すぐぎょっとしたように身をひいた。それから、あわてて美樹子の乳房のうえにおかれた宏の脈をとっていたが、 「ああ、兄さんは生きている……。奥さまは……?」  早苗は宏の首をまいた美樹子の脈をみていたが、やがてそれをつっぱなすと、両手でひしと顔をおおうた。 「早苗さん、どうなの、奥さまは……」  妙子は依然としてつめたく立ったままである。 「兄さんは生きています。でも、奥さまはだめ……」  早苗が両手で顔をおおうて、はげしく泣きむせんでいるとき、とつぜん男の声で、 「やあ、こいつはたいへんだな」  場合が場合だけに、四人の女がふるえあがってふりかえると、いつやってきたのか水上三太が、三人のマダムの背後に立って、食いいるようにこのなまめかしい男女抱擁図を見つめていた。      二 「あら、三ちゃん、あんた、どうしてこんなところへ……?」  妙子のことばは強くきびしく鋭かったが、それでもどこか、ほっとしたようなひびきもうかがわれる。  こんなばあい、なんといってもたよりになるのは男の力だ。それにこの男は早苗に惚れているらしい。このいまわしいスキャンダルを|弥《び》|縫《ほう》するのに、なんとか利用できるのではないか。……このような危急なさいでも、いやいや、このような危急なばあいであればあるだけに、妙子の頭脳はするどく回転するのである。  しかし、三太はそれにこたえようとはせず、三人のマダムをおしのけてまえへ出ると、まるでその場の情景を網膜というフィルムに、やきつけておこうとでもするかのように|眼《ま》じろぎもせずに見つめていたが、やがて妙子のほうをふりかえると、 「マダム、あなたがた、なにかお困りのようすときいて、あとをつけてきたんですよ。なにかお役に立てばと思ってね」  と、|皓《しろ》い歯をだしてわらったが、すぐまたひきしまった表情にもどると、 「早苗ちゃん、泣いてるばあいじゃないよ。そのひと、君の兄さん?」 「ええ……」 「いつかいってた絵を勉強してるってひとだね」 「ええ」 「それで、その奥さんというのは、だれなの?」 「早苗さん、いっちゃだめだよ」  と、とつぜんうしろから鋭い声をかけたのは保坂君代である。  君代は、やおら一歩まえへ出ると、 「失礼ですけれど、あなた新聞社のかたでいらっしゃいますわね」 「はあ、ぼく、東都日報の文化部にいる水上三太というものです。どうぞよろしく」  三太はおどけてペコリとお辞儀をひとつしたが、あいてはにこりともせず、 「失礼ですけれど、いくら差し上げたらこの事件から手をひいていただけるでしょうか」 「えっ?」 「いいえ、いくら差し上げたらこの事件を内済にしていただけるかと、おうかがいしているのでございますよ、なんならここで小切手を差し上げてもよろしいのですけれど……」  と、ハンドバッグの口をひらきそうにする保坂君代の顔色を、三太はあきれかえったようにまじまじ見ている。  渋谷のマダムでとおっているこの女は、ブーケ・ダムール(愛の花束)という気取った名まえの美容院の経営に成功しており、将来は東京の各所にブーケ美容院のチェーンをもちたいという野心をもっている。げんにちかく丸の内に進出する計画で、その開店もまぢかに迫っているようだということを、三太もいつかカステロの女からきいたことがある。 「さあ、ご遠慮なくいっていただけません? いくらでもご希望の額を……」  君代はハンドバッグから小切手帳と万年筆をとりだして、こんどはぎゃくに三太の顔をまじまじとみる。 「あっはっは!」  とつぜん三太はふきだした。それから、いかにもうれしそうに揉み手をしながら、三人のマダムを見くらべて、 「ああ、そうですか、そうですか。そいつは恐縮ですな。それじゃ、マダム、あなた、この三人の代表になって、ひとつそこへご記入ください」 「いくら要求なさいますか」 「はあ、三億円頂戴いたしましょう」 「え?」 「あっはっは、おやすいものじゃございませんか。こうもり安のせりふじゃありませんが、年がら年中おかいこぐるみ、重いものといったら箸かきせる……じゃあなかった、小切手帳か万年筆、風間のだんなの枕のしたに手をいれて、あなたアとかなんとか鼻声をだせば、言う目がお出になるあなたがた、おひとり一億円ずつ奮発してください。そうすれば水上三太、新聞社をクビになる覚悟で、あっさりこのままひきさがりますよ。あっはっは」  あっけにとられて三太のせりふをきいていた三人のマダムの顔に、そのときさっと怒りと屈辱の色がもえあがって、万年筆をにぎりしめた保坂君代の手がふるえた。 「いや、どうも失礼いたしました。マダム、どうぞその小切手帳はおしまいください」 「水上さん……水上三太さんとおっしゃいましたわねえ」  と、そばから猫なで声を出したのは宮武益枝で、いわゆる池袋のマダムでとおっている女だが、このほうは「からたち」というしおらしい名の洋裁店を経営しており、これまたほかのふたりのマダムにおとらぬ才女だという評判である。 「はあ、ぼく水上三太です」 「あなた、まさか、われわれを脅迫なさるおつもりじゃないんでしょうねえ」 「脅迫……? とんでもない、マダム、そりゃあべこべじゃありませんか。もっとも三億円頂戴できるようだったら、ぼくもブラックメール(恐喝)をやってのけてもよござんすがね。三億円・オア・ナッシングといきましょう、早苗ちゃん」 「はい……」 「ブン屋をおこらせるとあとがうるさいよ。さあ、いってくれたまえ。その奥さん、どこの奥さん?」 「はあ、あの、それが……」  と、三人のマダムの視線に射すくめられた早苗は、身もよもあらぬように肩をすくめて、 「パパさんの……」 「なんだって!」  三太はまるで下からアッパー・カットでもくらったように、ぎくっといったん体をおこしたが、すぐまた身をかがめて早苗の肩に両手をかけると、 「早苗ちゃん、それ、ほんとうなの、泣いてるばあいじゃないよ。それじゃ、この奥さん、風間産業の風間欣吾……氏の奥さんなの?」 「はい……」  三太は早苗の肩から手をはなした。それから深呼吸をするようにひといき入れて、三人のマダムのほうへふりかえった。|瞳《ひとみ》がギラギラ光っている。 「失礼ですけれど、あなたがたは、ここでこういうことが起こってるって、どうしておしりになったんですか」  三人のマダムはこたえない。しかし、口では答えなかったものの、彼女たちのおびえたような視線が、三太にそれをおしえたのもおなじ結果になってしまった。  三太は三人のマダムの視線をおって、机のうえのハトロン紙の包みに目をやった。ハトロン紙がすこしほぐれて、なかから印刷したハガキのはしがのぞいている。  三太は寝床のすそをまわって机のそばへいくと、ハトロン紙の包みのなかからハガキを一枚とりあげてみて、おもわず|眉《まゆ》をつりあげた。いうまでもなくそれは、風間美樹子と石川宏連名の挨拶状である。 「それではいってまいります……か。なるほどねえ、心中の挨拶状とは恐れ入った。いっそのこと黒枠ででもかこっておけばよかったのに……」 「いいえ、マダムたちのところへきたのは、三枚とも|墨《す》|汁《み》で黒枠がかいてあったんです」 「ああ、そう、それでマダムたちはしったんだね。しかし……」  三太がふしぎそうに眉をひそめたのもむりはない。  都下武蔵野市吉祥寺、日月堂書店とゴム判がおしてあるハトロン紙のなかには、まだずいぶん挨拶状がのこっていて、三太がかぞえてみると九十五枚あった。もし、百枚印刷されたのだとしたら、使用されたのはたった五枚ということになる。しかもハガキをつつんだハトロン紙の折れめからして、日月堂書店からわたされたのは、どうやら百枚であったらしい。 「マダム、あなたがたは三人とも、それぞれこういう挨拶状を……?」  だが、そういう三太のことばのとちゅうで、門の外へ自動車がきてとまった。だれかが降りてくるようすである。 「あら、だれか、きたわ」  と、妙子は唇の色までまっさおになり、 「三ちゃん、なんとかして……」  だが、そういううちにも砂利をふむ足音は容赦なくちかづいてきて、だれかが格子の外に立ちどまった。三人のマダムは、かくれようにもかくれようのないせまい家なのである。  妙子のたのみで三太が玄関へ出ると、格子の外に立った男はライターの灯で表札をよんでいたが、やがて外から三太のすがたを見つけると格子をひらいて、 「夜分おしかけてきてすまんが、石川宏君はいるかね」  いかにも肺活量の強そうな、ふかいひびきのある声をききつけて、となりの六畳にかくれていた三人のマダムが、いっせいに金切り声をあげた。 「あら、パパじゃあない!」      三  噂にはきき、新聞や雑誌でちょくちょく写真も見ていたけれど、この戦後派の怪物といわれる新興実業家と、めんとむかうのは、水上三太もはじめてである。  風間欣吾はかぞえどしでことし五十一歳になるはずである。しかし、くろぐろとした頭髪はからすのぬれ羽色という古風な形容詞をつかいたいくらいで、身長は五尺七寸もあろうか。さすがに職業軍人の出身だけあって姿勢のいい男で、浅黒い肌の色がちょっとスペイン人を連想させる。と、いうことはきびしい規律にきたえられた、たくましい肉体に、たぶんにセンジュアルな雰囲気をかんじさせるということである。男っぷりも悪くない。  水上三太は、いつか同僚からきいたことがある。 「とにかく、その方面でもすごいやつで、ひと晩に五人の女を|駆《く》して、なおかつ|神色自若《しんしょくじじゃく》だったという伝説があるくらいだからな」  欣吾は食いいるような眼差しで、|姦《かん》|夫《ぷ》|姦《かん》|婦《ぷ》のあられもない姿態を見ていたが、いっしゅんその目に殺気にも似た炎がもえあがったのを、三太は見のがさなかった。  しかし、それにしても三太がそのときふしぎに思ったのは、妻のこの不貞行為にたいして、欣吾がたいして怒りをかんじていないらしいことである。いや、欣吾はむしろこの情景を目撃したとき、いかにもふしぎそうに|眉《まゆ》をひそめた。だから、かれの瞳にいっしゅんもえあがった殺気というのも、妻にたいする怒りというより、なにかもっとべつのものにたいするファイトが、そのとき体内で燃焼したらしい。  欣吾は、やっと抱きあったふたりから目をあげると、三太のほうへ|顎《あご》をしゃくって、 「妙子、このかたは……? |母《おも》|屋《や》のかた?」 「いえ、あのパパ……」  と、妙子はいかにも切なそうに、 「こちらカステロのお客さまなんですの、水上三太さんとおっしゃって東都日報の文化部のかた」 「東都日報?」  いっしゅん欣吾のおもてに嫌悪の色が走った。とがめるようなきびしい目で、三人のマダムを見まわすと、 「おまえたちはなんだって、こんなひとをおつれしたんだ」 「いやあ、風間さん、それはぼくから釈明しましょう。ぼくはいまマダムがおっしゃったようにカステロの常連なんです。こんやもカステロでとぐろをまいていると、三人のマダムが集合しているという。そこになにやら風雲ただならぬものをかんじたものですから、こっそりこのひとたちを尾行したところがこのていたらく、犬も歩けば棒にあたるというわけですかね」  欣吾はあいてを分析するように、頭のてっぺんから足の爪先まで、見あげ見おろしていたが、やがてにやっとわらうと、 「買おう、いくらで売るんだ」 「買おうとおっしゃると……?」 「君の書こうとする記事を買おうというんだ。ほしいだけいいたまえ」 「あっはっは、なるほどねえ」 「いくらだ。はやくいいたまえ」 「ああ、そう、それじゃ風間産業ならびに風間欣吾氏の全財産でもちょうだいいたしましょうかねえ」 「なにを!」 「いえね、風間さん、さっきもマダムたちから、おなじような申し出でがあったんです。そこで、おひとり一億円とみて、三億円というおねだんをつけたんです。それくらいですから、あいてが、いまをときめく風間欣吾氏とあらば……」 「つまり買収にはおうじないというんだね」  と、欣吾の声はひややかだった。 「はあ、幸か不幸かわが社はいたって、社員の待遇がよろしいものですからね」 「そうしますと、水上さん」  と、そばから口を出したのは城妙子だ。妙子の声も欣吾におとらずひややかである。 「あなたは、この事件をすっぱぬくとおっしゃるんですね」 「すっぱぬくとはえげつないことばですが、事実を正確迅速に報道するのがわれわれブン屋の義務でもあり、正義でもありますからね」 「ほっほっほっ、あなた正義派をお気取りになるのもけっこうですけれど、それでは早苗さんを不幸にしてもいいとおっしゃるんですの。いいえ、早苗さんのお兄さんを|牢《ろう》にぶちこんでもよろしいんですの」 「早苗さんのお兄さんを牢にぶちこむ……?」 「ええ、そう、あたし女ですから法律のことはよくわからないんですけれど、たしか心中のかたわれが生きてたばあい、自殺なんとか罪に問われるんじゃなかったでしょうか」 「な、な、なんだって?」 「早苗さんのお兄さんは生きていらっしゃるそうよ。奥さまはだめだそうですけれど……」 「さ、早苗ちゃん!」  三太はひと声怒鳴ってから、あわてて宏のそばへいって脈をにぎった。なるほど微弱ながらも宏の脈はうっている。 「早苗ちゃん、君はなぜ医者を呼ぼうとしないんだ」 「だって、だって、いまマダムのおっしゃったことが……」 「あっはっは、医者を呼ぶには、どうやらわたしの家内が邪魔になるようだな」 「畜生ッ!」 「いや、失敬失敬、君の弱味につけこむわけじゃないが、武士はあいみたがいということもある。家内はわたしが自動車でつれてかえろう。じぶんで運転してきたくるまだから、だれも家内がここから出ていったとはしるまい。どうやらふたりとも薬をのんでいるようだが、家内はうちで薬をまちがえたとか、呑みすぎたとかいいこしらえよう。君はせっかく命をとりとめているこのひとの兄さんを、救うべく努力してあげてくれたまえ」      四  三太は完全に敗けたと思った。  目にいっぱい涙をためてじぶんを見ている早苗をみると、新聞記者の正義も|空《から》念仏におわりそうである。 「風間さん、敗けましたよ。あなたの愛人たちはみんな才女でいらっしゃる」 「ありがとう」 「しかし……」 「しかし……? なに……?」 「ただひとつ条件をつけさせてください」 「どういう条件?」 「ぼくは明朝おたくを訪問します。そのとき記事をください」 「どういう記事?」 「風間産業社長、風間欣吾氏夫人美樹子さんは、今暁死体となって発見された。いまのところ過失死か自殺か不明であるが、|云《うん》|々《ぬん》……」 「そんなことにニュース・バリューがあるかね」 「ご|謙《けん》|遜《そん》ですね。いまをときめく風間産業の社長夫人じゃありませんか。それに十年まえの事件を記憶しているひとも、まだそうとういるでしょうからね」 「なにを!」  欣吾の瞳にさっと怒りのほのおがもえあがって、からみあった四つの瞳から強烈な火花がとび散った。三人のマダムもあなやとばかり|呼《い》|吸《き》をのむ。 「あっはっは!」  とつぜん、欣吾はかわいたわらい声を立てると、 「やるね、なかなか……よし、それじゃそこらで手をうとう。あした訪ねてきたまえ。しかし、まあなんだな、お手柔かにたのむよ」 「うちは赤新聞じゃありませんからね」 「ああ、なるほど、それを聞いて安心したよ。妙子も君代も益枝もいま聞いたとおりだ。水上君が承知してくれたから、さっそく美樹子をつれてかえる。支度をしてやってくれないか」 「はあ、それではちょっと座をお|外《はず》しになって、早苗さん、お隣の部屋空いてないの」  妙子のことばに、 「はあ、あの、まことにきたないところですけれど、どうぞ……」  隣の部屋へいくまえに欣吾は、つかつかと机のまえへいった。おそらくさっきから気になっていたのであろう。例の挨拶状のひと束をハトロン紙ごとわしづかみにすると、そのまま上衣のポケットへねじこんだ。  隣はせまい四畳半で、おそらく早苗の寝室になっているのだろう。|長押《な げ し》や壁にわかい娘らしい飾りつけがみえている。  早苗は無言のままうすい座布団を二枚出してすすめると、そのままだまってむこうへいこうとしたが、 「ああ、ちょっと……」  と、そのうしろから欣吾が呼びとめた。 「はあ……」  と、早苗はうつむきがちにもじもじする。 「君にちょっと訊きたいんだがね、こんやのこと、なにが君にそういう予感があった?」 「はあ、あの、そのことなんですけれど……」  と、早苗は必死の眼差しを欣吾にむけて、 「さっき、マダムからもそういうご質問がございましたの。そのときもはっきりお答え申し上げたんですけれど、ぜんぜんそんな気配はかんじられなかったんですの。けさだって兄の態度には少しもかわったところはございませんでしたし、なんだかあたし、悪い夢でもみているような気がしてなりません」 「ああ、そう、そうするといっしょに住んでいる妹の君にも、こんどのことはぜんぜん予期できなかったというんだね」 「はあ、奥さまとなにかへんな関係でもできていたとしたら、そのときは気づかなくとも、こうなってみればなにか思いあたることがありそうに思うんでございますけれど、それもぜんぜん、……なんだか狐につままれたようで……」 「いや、ありがとう、それじゃ、むこうへいって手つだってやってくれたまえ」 「はあ」  早苗はふかくこうべを垂れると、しおしおとつぎの間へ消えていった。 「風間さん、奥さんと早苗君の兄さんとは、どういう知りあいだったんですか」 「いや、家内が肖像をかかせていたんだね。さいしょ早苗の紹介で、妙子がまあお義理でかかせたところが、それをみて家内も気にいったんだな。それでこの春ごろから三日にいちどくらいのわりあいで、早苗のあにきのほうからうちへ通ってきていたんだが……こんなことになろうとは、いま早苗もいうように、こっちのほうにも、ぜんぜん心当たりがないんでね」  さすが戦後派のモンスターといわれるこの男にも、この出来事ばかりはよほど大きなショックだったらしく、その話しぶりにも、どこか放心したようなところがあった。  しかし、しらぬは亭主ばかりなりというのは昔からのいいならわしだから、そのときはまだ水上三太も、欣吾の疑惑にそれほど重きはおかず、それよりもかれがどうしてここへやってきたのか、そのほうが気になって、 「ちょっとお訊ねいたしますが、あなたどうしてここへ来られたのですか。やっぱりいまポケットにもってらっしゃる挨拶状をうけとられたんですか」 「挨拶状……?」  なにかほかのことを考えこんでいた欣吾は、三太のことばにぎくっとしたようにポケットをおさえて、 「ああ、君もこれを見たんだね」 「はあ、どうもいささかとっぴのようで、新聞種にはもってこいなんですがね。あっはっは、いや、冗談はさておいて、あなたはどこでハガキをうけとられたんですか。たしか関西方面をご旅行中だときいてましたが……」 「だから、大阪のホテルで受け取ったんだ」 「いつ」 「けさ」 「それで大急ぎでかえってこられたんですね」 「ああ、そう」 「おたくのほうへはよられましたか」 「いや、うちへは電話をかけただけだ」 「このうちは、まえからご存じだったんですか」 「いや、そうじゃなく、あっちにいる連中……」  と、欣吾は隣の部屋へ|顎《あご》をしゃくって、 「が、しっているかと思って電話をかけたところが、みんなカステロへいってるという。そこでカステロへ電話をすると、早苗といっしょに三人そろって出かけたという返事だから、それではここだろうとうちへ電話をかけて、家内の交友名簿を調べさせたんだ。さいわい、女中のひとりが以前家内の使いでここへきたことがあったので、それでだいたいの地理もわかったというわけだ」 「あなたはそのハガキを読まれたとき、すぐに情死ということを連想しましたか」 「ああ、墨汁で黒枠がつけてあったからね。しかしねえ、水上君」 「はあ」 「おれはすぐに情死だと思った。しかし、それと同時に、もうひとつピンときたのは、これはたんなる情死ではない。その裏に、もうひとつなにか複雑な事情が伏在しているのではないかということだった」 「複雑な事情とおっしゃいますと……」 「いや、それは早苗のあにきが|覚《かく》|醒《せい》したら、もう少しはっきりするだろうが、おれのそういう気持ちは、さっき早苗という娘の話をきいていよいよ強くならざるをえないんだ。早苗もいってたろう、狐につままれたような気がするって。情死を決行した男の妹と女の亭主に、ぜんぜん思いあたるふしがないというのは、いったいどういうんだ!」  語気をあらくしていう欣吾の瞳は、まるで西洋皿のようなかたさをもっているが、その底からはげしい|憤《ふん》|怒《ぬ》のかたまりが、いまにも噴きだしそうになっているのをみて、三太はおもわず呼吸をのんだ。 「風間さん!」  と、大きく叫んで、あわてて声をおとすと、 「それじゃ、あなたのお考えでは、これ、|偽装心中《ぎそうしんじゅう》ではないかと……?」  だが、それにたいして欣吾がこたえようとするまえに、襖の外から妙子の声で、 「お待たせいたしました。パパ、お支度ができましたけれど……」     第四章 帯締めと注射器      一  妙子の声に隣の部屋へはいっていった水上三太は、おそらく生涯、そのときの一種異様な戦慄を忘れることができないであろう。  せまいごたごたとした六畳の|片《かた》|隅《すみ》に、新しく寝床がひとつしかれて、そこに石川宏の|昏《こん》|々《こん》と眠りほうけた体が、いかにも邪魔者のように押しやられている。その枕もとに早苗が小さく坐って、目にハンケチを押しあてていた。  いっぽう、部屋の中央にのべられた敷き布団のうえには正装した美樹子のからだが、つめたく、ひっそりとよこたわっている。美樹子は薄色のグリーンの|平《ひら》|絽《ろ》の裾と肩に、近代的な感覚のサラサ模様をちらせた訪問着をきて、つづれ帯をしめている。  美樹子はじっさい美しかった。ちょっと繊細な美術品という美しさで、グレーシャスであると同時に、どこかあどけなさをおびた顔が、三十五歳とは見えぬわかわかしさである。三人のマダムが死化粧をしたとみえて、皮膚にうかんでいた醜い斑点も消えていた。  この美しい心中(?)の片割れのかたわらに、これまたひっそりとした群像をかたちづくっている、これまたそろいもそろって美しい三人の葬儀執行人というのが、死者の良人の愛情を、何パーセントずつかうばっていた愛人たちであることを思うと、水上三太はなんとなく、総毛立つような戦慄を感じずにはいられなかった。それはいま風間欣吾から、偽装心中にたいする疑惑を、うちあけられたせいもあるかもしれないけれど。  欣吾は仏の枕もとに立ったまましばらく|黙《もく》|祷《とう》をしていたが、やがて三太をふりかえると、 「水上君、手つだってもらえるかね、自動車まではこんでいきたいんだが……」 「承知しました」  三太が死者の脚のほうをもちあげようとして、身をかがめたときである。 「ああ、ちょっと、パパ」  と、さえぎったのは、いちばんわかい宮武益枝。 「どうしたの、益枝?」 「ちょっと妙なことがございますのよ」 「妙なことって?」 「ほら、あそこ……」  と、益枝が指さすのは美樹子の帯のあたりだが、欣吾や三太の目には、べつにかわったところも見あたらなかった。 「益枝、美樹子の帯がどうしたというのか」 「はあ、帯締めがございませんのよ。どこを探しても……」 「なに、帯締めがない?」 「ほんとにへんでございますわねえ」  と、保坂君代も眉をひそめて、 「さんざん探したんですけれど、どこにも帯締めがございませんの。まさか奥さま、帯締めをしめ忘れて外出なすったんじゃ……」 「|嘘《うそ》よ! 嘘よ! そんなばかなことってないわ!」  そのとき、とつぜん|隅《すみ》っこのほうから金切り声をあげたのは早苗である。彼女はまるで感情の|堰《せき》をきっておとしたように、頬をまっかに紅潮させて、 「女が帯締めをしめ忘れて外出するなんて、そんなばかなことってありっこないわ!」 「じゃ、どうしてここに帯締めがないの」  と、これは妙子の質問である。 「だから、奥さま、どこかほかでいちど帯をお解きになったのよ。そして、そこで殺されてからここへ運んでこられたのよ。きっと、きっと、そうよ」 「早苗さん!」  と、妙子がするどくたしなめようとするのを、そばから欣吾がさえぎって、 「いいからいわせておおき。だけど早苗、もう少ししずかにお話し。ふむ。ふむ、それで……」 「パパさん、すみません。大きな声を出して……でも、あたしとてもこんなこと信じられませんの。兄が奥さまと心中するなんて……だから、これ、みんな作りごとだと思うんですの。兄が目ざめたらわかることですけれど、だれか奥さまを邪魔にしてるひとが、奥さまを殺すために、デッチあげたことだと思うんですの。兄はきっとその道具に使われたんです。その証拠に……」 「ふむ。ふむ、その証拠に……?」 「あたし、さっき気がついたんですけれど……マダムたちが奥さまにお召し物を着せていらっしゃるあいだに気がついたんですけれど、……水上さん、これ、注射の跡じゃございません?」  早苗がめくってみせた宏の左の腕に、ポッツリ紅い斑点ができていて、いかさま、注射の跡らしい。 「兄はちょくちょく睡眠剤を服用しますけれど、注射は大きらいでした。注射針を見てさえ寒気がするほうですの。それに、この部屋には、どこにも注射器なんかございませんわ」 「それじゃ、早苗ちゃん」  と、三太は歯ぎしりが出るような興奮をかみころしながら、 「だれかが兄さんにむりやりに、注射して眠らせておいて、そこへほかで殺した奥さんの死体をはこんできて、ここで心中をよそおわせておいたというの」 「そ、そんなばかな……」  と、保坂君代が吐きだすように|呟《つぶや》くのを聞きとがめて、早苗は満面に朱をそそいだ顔をそちらのほうにふりむけた。 「それじゃ、マダム、帯締めのないことをどう説明なさいます。この注射の跡をなんと解釈なさいます。兄は犠牲になったのよ。奥さまを邪魔にしているひとたちの……」 「水上君」  とつぜん、欣吾が三太をふりかえって、 「いまの早苗のことばをよくおぼえときたまえ。しかし、それはまたのちほど検討するとして、いまはともかくこの死体をはこび出そう。おまえたちも手つだっておくれ」 「はい」  欣吾が頭のほうをもち、三太が脚をかかえあげると、美樹子の裾が乱れぬように宮武益枝が気をくばる。  城妙子がひとあしさきに外へ出て、だれも見ているもののないことをたしかめてくる。外にはびしょびしょ雨が降っていて、むろんあたりはまっくらである。保坂君代がライターの|灯《ひ》をかばいながら、|繁《しげ》みのしたを案内する。その繁みのしたをとおるとき、葉末をつたう|滴《しずく》がいってき、みごと首筋へすべりおちてきて、三太は思わず肝をひやした。  この雨の夜の暗がりに、つめたい美人の死体をひとしれず運んだということが、じぶんの運命にどのような大きな影響をもたらしてくるか、むろん三太はしらないのである。      二  三太はいま、しいんと骨の髄までこおりつくような想いで、宏の枕もとに坐っている。  腕時計をみると、時刻は一時になんなんとしているが、外にはあいかわらずびしょびしょと、いんきな雨が降りつづいている。 「それじゃ、明朝」  と、あしたの会見を約して風間欣吾が、つめたくなった妻の死体をのせた自動車を、みずから運転して、くらい雨のなかに消えていったとき、水上三太は、なにかしらひやりとしたものを感じずにはいられなかった。  風間は有名なしたたかもの[#「したたかもの」に傍点]なのである。なにかしら、まんまと一杯くわされたのではないかという気が、ふっとかれを不安にする。風間が去ると同時に三人のマダムたちも、それぞれ待たせてあった自動車のほうへ立ち去った。  三太もいっしょにかえってもよかったのだけれど、|瀕《ひん》|死《し》の兄のそばへ早苗ひとりを残すわけにはいかなかったし、それに新聞記者の好奇心がそれを許さなかった。  一同が引き取るとすぐに早苗が医者を呼びにいった。母屋に電話があるのだけれど、もう十二時も過ぎていたし、それに電話では、はたして医者がきてくれるかどうか心もとなかったのである。  早苗が出ていってからもう三十分もたつというのに、まだ医者はやってこない。おそらく早苗が|哀《あい》|訴《そ》|嘆《たん》|願《がん》しているのであろうと思うといじらしくて、なんとかしてこの男の命をとりとめてやりたいと思うのである。  宏はときどきカステロへも顔をみせるのだけれど、客としてではないから三太もこんやがはじめてである。痩せぎすで|華《きゃ》|奢《しゃ》なからだつきで、身長は五尺四寸くらい。長髪というのではないけれど、オールバックの髪をうしろへなでつけた特異なヘア・スタイルがよく似合って、目もとなど早苗によく似て好男子である。としはじぶんとおなじくらいであろうと三太は踏んだ。  一時五分まえ。  やっと自動車の音がして早苗が医者をつれてきた。  早苗がだいたいの事情を話してあったのだろう、医者はことば少なにテキパキと診察したが、すぐに入院しなければ危険だという。 「早苗ちゃん、先生がああおっしゃるから入院させたまえ。費用のことは心配しないで」 「すみません、水上さん、それであなた、こんやどうなさいます」 「君はどうするの」 「あたしはもちろん、兄に付き添っています」 「ああ、そう、それじゃぼくはここに泊めてもらおう。あしたの朝見舞いにいくにも便利だから……」 「すみません。それじゃそうして……あたしなんだか心細くって……」  と、涙ぐんだ早苗の、いかにも心細そうな顔色をみると、三太は強く抱きしめてやりたい衝動をおぼえた。  医者に手つだってもらって宏の体を自動車にはこびこむとき、こんやはなんど、こうして人間の体を、自動車にはこびこむことだろうと、三太は総毛立つような気持ちであった。 「それじゃ、水上さん、あとをよろしくお願いします」 「ああ、いいよ、あしたの朝、母屋のひとにもよろしくいっとく」  自動車が立ち去っていくと、三太は玄関の戸締まりをして、早苗が出しておいてくれた夜具を六畳へひろげた。兄が寝ていた夜具では気持ちが悪かろうと、早苗はじぶんの夜具を出しておいてくれたのだが、上衣だけぬいだすがたで身をよこたえてみたものの、女臭いのには閉口である。  九州男子の三太はそれほど神経が細いほうではない。いや、どちらかというと、のぶといほうだが、さすがにこんやは眠れそうになかった。かれの腹の底には、なにかしら大きなしこりができていて、それがかれに不快な刺激をあたえるのである。  そのしこりの原因をあれやこれやとつきとめていくと、それはどうやら風間欣吾という男の人柄からくるらしい。おのれの欲望を達成するためには、いかなるものも踏みにじって前進せずにおかぬという、戦後派の怪物風間欣吾に、まんまと一杯乗せられたのではないかという|懸《け》|念《ねん》が、かくも三太を不快にするのだ。  とつぜん、三太は寝床のうえに起きなおった。  さっき風間は大阪のホテルで挨拶状を受け取ったといったが、それならそれは、おとついあたり投函されていなければならぬはずである。と、すれば三人のマダムはそれをきのう受け取っていなければならないし、きのう受け取ったのなら、騒ぎはきのうのうちに持ちあがって、この情死事件は食いとめられたはずである。  風間欣吾は嘘をついている。少なくともけさ大阪のホテルで挨拶状を受け取ったというのは嘘だったにちがいない。  しかし、それではなぜかれはここへやってきたか。かれもまた挨拶状をみてやってきたことだけはたしかなようだ。机のうえの挨拶状にはじめから気がついていたようだし、それに墨汁でくろぐろと黒枠がかいてあったともいったではないか。それではかれは、どこでそういうハガキを見たのか。  挨拶状は五通出されている。いや、これをいいかえれば五通しか出されていない。しかも、その五通のうち三通までが風間の愛人のところへいっている。と、すればあとの二通も愛人のところへ発送されたのではないか。  風間には三人の公認妾のほかにも、いろいろかくれたのがいるらしいということは、水上三太もきいている。風間は関西旅行をいちにちはやく切りあげて、かくれた陰の愛人のところへ出向いていって、そこで黒枠づきのハガキを見たのではないか。しかし、さすがに三人の公認妾のまえではそれをいい出しかねたのではなかったか……。  そこまで考えおよんだとき、三太は急にくつろぎをおぼえた。かれは風間に嘘をつかれていることを本能的にしっていたのだ。そして、それが不快なしこりとなっていたのだが、いまその嘘の実体がわかったような気がしたので、いくらかしこりも解消して、そのままかれはぐっすり朝まで寝こんでしまった。そして、六月二十九日の朝十時、約束どおり、かれは芝公園のそばにある風間邸の豪勢な応接室で、風間欣吾とむかいあっていた。 「どうだね、早苗のあにきのほうは……?」  欣吾はけさもひげを|剃《そ》っていない。しかも、じいっと三太を見つめる目つきにも、なにかしらものに|憑《つ》かれたように無気味な光がギラギラしていて、ひとえにへこ帯をまきつけたたくましい体も、妙にぎくしゃくこわばっている。 「どうだね、早苗のあにきのほうは……?」  と、応接室へはいってくるなり浴びせかけた声も、のどのおくにひっかかってしゃがれていた。 「いや、ゆうべ入院したんですが、そうとうの重体で、いわばいまが生死の境目というところなんです。しかし、こちらの奥さんは……」 「家内か?」  と欣吾はかみつきそうな目をギラギラさせて、 「家内はおらんよ」 「おらんとおっしゃると……?」 「消えてしまったのだ。煙のように……ゆうべのうちにな。わっはっは」  三太は思わず椅子からとびあがった。てっきり気が狂ったのだと思ったからである。     第五章 死体消失      一 「いや、すまん、すまん、だしぬけに驚かせてすまなかった。まあ、もういちどそこへかけたまえ。ゆっくり話をしよう」  上と下と、しばらくにらみあったままの姿勢でいたのちに、きゅうに欣吾がくつろいだ声になってまえの椅子を指さした。しかし、その目はあいかわらず、ものに|憑《つ》かれたように無気味である。  三太は欣吾の心をおしはかろうと、あいての顔から目もはなさず、もういちどもとの席へもどると、 「どうしたんです。奥さんが煙のように消えてしまったなんて……おどかしっこなしにしましょう」 「いや、その話はゆっくりするがね。そのまえに早苗のあにきのほうを話してくれたまえ。生死の境目とかいったね」 「はあ、いや、生命のほうはどうやら大丈夫らしいんです。しかし、そのあとが危険だというんですね」 「あとが危険だというと……?」 「あの男……早苗のあにきですね、あの男、睡眠剤をのんでることものんでるんです。しかし、それはそれほど危険な量じゃないんですね。それより注射のほうがきいてるんですね」 「やっぱり注射してるのかね」 「はあ、なにかモヒ系の強い薬らしいんです。まだはっきりと薬の名まえまではわからないんですが、瞳孔やなんかを検査した結果、そういう線が出たんですね。で、まあ、生命のほうは大丈夫だろうが、覚醒しても当分のあいだ、ほんとの意味での、つまり、もともとどおりの正常な意識は回復できないかもしれない、つまり、そういう危険性がなきにしもあらずだと医者はいってるんです」 「と、いうことは、気が狂うということかね」 「はあ、まあはっきりいってそうですね。むろんそうなるにきまってるとは医者もいわないんですがね。そういう危険性がかなり多分にあるというわけです。もっとも、もしそうなっても養生しだいでは、しだいに回復することはするだろうというんです。なにしろ早苗ちゃんのまえですから、医者もそうはっきりとはいわないんですがね」 「それで、注射器や家内の帯締めは出てきたかね」 「いや、それがないんですよ。じつはぼく、けさ、もういちどあの部屋をくまなく調べてみたんですがね」 「ああ、君はゆうべあそこへ泊まったのかね」 「はあ」 「早苗もいっしょ?」 「まさか……早苗ちゃんは、あにきの付き添いで病院へ泊まったんです。だから、まあ、ぼくが留守番がわりに泊まったわけですね」 「ああ、そう、それでけさ、もういちど探したが、やっぱり家内の帯締めも、注射器も出てこないというんだね」 「はあ」 「そのことについて君はどういう解釈をくだしてるの。早苗はゆうべ、ああいうことをいってたが……」 「いや、そのことについては、まだ結論をくだすのははやいと思うんです。まあ、たぶんにおかしな点はございますがね。しかし、奥さんのほうはどうなんです。奥さんのお|嚥《の》みになった薬は……」 「いや、それだがね、水上君、家内はほんとうに死んでいたんだろうか。われわれは死んでるものときめてかかったが……」  三太はあきれたようにあいての顔を見かえしながら、 「しかし、それは医者がなんとか……」 「ところが、水上君、家内は消えてしまったんだ。ゆうべのうちに……医者にみせるまえにね」  三太は無言のままあいての顔を凝視している。心の底からまた不快なしこりがこみあげてくる。 「いや、水上君、君の疑うのもむりはない。しかし、おれは|嘘《うそ》をついてるのでもなければ、気が狂ったのでもない。そのことについて、あとで君にみてもらいたいものがあるんだが、そのまえにまあ聞きたまえ」  と、欣吾は卓上のシガレット・ボックスからたばこを一本つまみあげると、三太のほうにもすすめながら、 「おれがゆうべこのうちへかえってきたのは、もうかれこれ一時ごろのことだった。奉公人には奥さんは出さきでちょっと、気分がわるくなったんだと取りつくろっといたんだ。そして、ばあやや女中に床をとらせて、おれじしんで家内の体を寝床に寝かせてやった。帯を解き着物をぬがせたのもこのおれなんだ、奉公人には寝床をとらせただけですぐ遠ざけてしまった。こういう配慮は君にもわかってもらえるだろう」 「はあ、それは……」 「さて、長襦袢一枚にして寝床へ寝かせ、そのあとで医者へ電話をしたんだ。うちのかかりつけの医者というのは|郷《ごう》|田《だ》先生といって、家内が娘時分から診てもらってるひとだ。郷田病院の郷田先生……しってる?」 「はあ、お名まえは存じております」 「ところがゆうべあいにく郷田先生お留守だったんだ。二日ほどまえから信州のお金持ちかなんかに頼まれて、往診のために旅行していられて、けさかえってくるという奥さんのご返事なんだ。で、事情が事情だから、ぼくとしては、ほかの医者に診せるのがいやだった。この気持ちもわかってもらえるだろうね」 「はあ、それは……」 「それに、もう一刻を争うというようなケースでもないやね。それに郷田先生の奥さんが、信州からかえりしだいにそちらへさしむけるといってくだすったもんだから、じゃそうしようということになったんだ。そこで、まあ、枕もとへ屏風を立てまわしてやって、おれはおれで寝室へさがって寝てしまった。そして、一夜明けてけさのことだね」 「はあ」 「起きぬけに、おれはいちど家内のねている座敷をのぞいたことはのぞいたんだ。しかし、寝床のそばまではいかなかった。こちらからみると屏風からのぞいている寝床がふくらんでいる。それでそのまま襖をしめてしまったんだ。そうそう、奉公人にはゆうべ、奥さんの寝ている座敷へいっちゃいけないといってあったんだ。ところが九時ごろ郷田先生がやってこられた。そこで先生をご案内して家内の寝床のそばまでいくと……」 「はあ、寝床のそばまでいくと……?」 「それがもぬけの殻なんだ」 「もぬけの殻……」  三太の声の調子に|猜《さい》|疑《ぎ》のひびきがふかかったのも、むりはない。 「ああ、家内の死体が消えてしまったんだ。帯も着物も雨ゴートも、いっさいがっさい消えてしまった。それのみならず、家内の宝石類もかなりなくなっているらしい。水上君、君はいったい、この謎をどう解くね」      二 「風間さん」  よほどしばらくたってから水上三太が切り出した。こういうばあい興奮したほうが負けだとしっているから、三太の声は、気味わるいほど落ち着いている。 「冗談はよしましょう。あなたはそれでスキャンダルを|隠《いん》|蔽《ぺい》なさるおつもりかもしれませんが、それじゃいっそう大きなスキャンダルですぜ。心中の片割れが消失したなんてね。あっはっは。しかし、いまこのお屋敷に奥さんの死体がないとすると、あなたがおかくしになったんですね」 「いいや、おれじゃない」 「しかしねえ、風間さん」  と、三太はにやにや笑いながら、 「奥さんはたしかに死んでらっしゃいましたよ。そりゃぼくは医者じゃないから正確にはいえませんがね。死亡していらしたことはたしかです。その奥さんがまた着物をきて、ここを抜けだすなんて、そんなばかなことは信じられないし、それに死体を盗みだすというのはずいぶん厄介な仕事ですぜ。動機も動機だが、その手段だけでもね。こちらには奉公人も相当おおぜいいると思いますが、それに気づかれずに盗みだすということはね」  とつぜん、欣吾が吸い殻を灰皿のなかに突っこんで、すっくと椅子から立ちあがったので、三太も当然の自衛本能として、おもわずアーム・チェアの両腕をにぎりしめた。 「いや、水上君、君に暴行をはたらこうというんじゃないんだ。ちょっとおれといっしょにきてくれたまえ。見てもらいたいものがあるんだ」 「はあ、なんでも見せてもらいましょう」  と、三太も素直に立ちあがった。  応接室を出ると、みがきこんだ廊下がおくへつづいている。雨はいまあがっているが、空はあいからわず低く垂れこめて、そのくもり空の下に手広い建物が、しっとりとした落ち着きをみせてひろがっている。おそらく欣吾の配慮の結果だろう、奉公人の姿はひとりもみえなかった。  欣吾が三太を案内したのは十畳と十二畳のふた間つづきの日本座敷で、十畳の座敷をぬけて襖をあけると、なるほど十二畳の座敷のなかに屏風が立ててあり、屏風のはしから寝床がみえる。その寝床の掛け布団はちょうどひとが寝ているように、適当のふくらみをもって、盛りあがっている。三太が欣吾のあとにつづいて屏風をまわると、ひきめくられた掛け布団のしたには、夜着だの座布団だのがまるめてつっこんであった。  欣吾はそれを三太にみせると、無言のまままた座敷を出る。縁側をすこしいくと渡り廊下になっていて、渡り廊下のむこうは洋風建築である。この洋館のほうにも、ひとのすがたはみえなかった。  欣吾はひとつの部屋のまえに立ちどまると、 「そうそう、君はおぼえていないかね。ゆうべの家内のもっていたハンドバッグのなかに、鍵がひとつはいっていたのを……」 「いいえ、ぼくはハンドバッグの中身までは見ませんでしたよ」 「ああ、そう、じつはこの部屋の鍵がハンドバッグのなかにはいっていたんだ。おれはそのハンドバッグをそのままさっきの座敷へおいといた」  欣吾がドアをあけると、なかは一見泥棒がはいったように、整理ダンスのひきだしがみんな抜き出してほうりだしてある。  三太はそれを見てにやにや笑ったが、欣吾は委細かまわず、 「ここが家内の居間なんだ。そしてあの整理ダンスのひきだしのなかに、家内の宝石類がはいっていたんだ。ただし、だいじなものはむろん銀行の金庫にいれてある。まず手まわりの品だけだがね。ところでひとつ、あのひきだしを調べてもらえないか」 「ひきだしを調べろとは……?」 「いや、どういう方法でひらいたかだ」  いわれるままに三太が調べてみると、あきらかにどのひきだしも|錠前《じょうまえ》をこわして、むりやりにこじあけてある。 「家内ならば鍵のありかをしってるはずだが……」  と、欣吾はちょっと小首をかしげたが、 「まあ、いい、それは君の判断にまかせよう。ところでわれわれ夫婦の寝室はこの部屋から三つめになっている。おれはむろんゆうべそこで寝た。ところがその寝室には防音装置がほどこしてある」  欣吾はじっと三太の目をみているが、三太はまだ欣吾の話を信用しない。依然としてにやにや笑っている。 「それじゃ、もう少しおれについてきてくれたまえ」  その部屋を出ると欣吾はまたもとの渡り廊下へひきかえす。この渡り廊下は、かたがわがタイル張りの洗面所になり、反対がわにトイレがずらりとならんでいる。そして、ちょうど日本家屋へはいる手前に、間口一間の押し入れのようなものがあり、|観《かん》|音《のん》びらきのドアが二枚ついている。 「その錠前を調べてみたまえ」  三太が調べると、あきらかにつつきこわされている。 「ドアをひらいてごらん」  なにげなくドアをひらいて、三太はおもわずぎょっと呼吸をのみこんだ。押し入れとおもってひらいたそこは、床がはんぶんしかなく、そこから階段が下へおりている。その階段をおおうていた床は、上へはねあげられていて、壁の中途にある掛け金によってとめられている。 「いったい、これは……」 「とにかくなかへはいってみよう。おれがさきにおりていくから、君もあとからきたまえ」  欣吾はふところから懐中電灯を取りだした。階段はがんじょうなコンクリートづくりになっていて、十六段あった。傾斜もゆるやかだからおりるのも楽である。階段をおりきると、これまたコンクリートでかためた地下道があり、高さは約六尺、幅は五尺くらいである。 「ちょっとこれをごらん」  欣吾が懐中電灯でしめす床をのぞきこむと、埃のうえにくっきり印されているのは、あきらかに靴下の跡である。しかも、靴下のあとは二種類あった。  三太の胸は怪しくおどった。かれはようやく欣吾のことばや態度の真実性に気がつきはじめた。  地下道は約二十メートルあり、そのつきあたりに鉄板のドアがついている。しかし、そのドアの錠もつつきこわされており、欣吾がそれをひらくと、なかは八畳じきくらいのこれまたコンクリートでかためた部屋になっている。 「なんです、これは……?」  しかし、欣吾はそれに答えず、まっくらな部屋をつききると、そこにまたコンクリートの階段がついている。  それをのぼりきると、うえに厚い鉄板のドアが水平についており、欣吾がそれをはねあげると、バアッと外光が流れこんできた。 「ほら、あれをみたまえ」  階段のいちばん上に立って欣吾が指さすところをみると、雨にぬかるんだ土のうえに、二種類の靴のあとがてんてんとついており、むこうにみえるコンクリートの塀のほうまでつづいている。  そこは風間邸の庭の一部で、芝生や築山のむこうに建物が見えている。  三太はおもわず息を吸いこむと、 「いったい、この地下道はなんですか」 「わからんかね、戦争中につくった|防《ぼう》|空《くう》|壕《ごう》なんだ。美樹子の|先《せん》の亭主の|有《あり》|島《しま》|忠《ただ》|弘《ひろ》がな」  有島忠弘の名前が口からでるとき、欣吾の声がかすれたのを、水上三太は聞きのがさなかった。      三 「どうだね、わかったかね。これでも君はまだぼくを疑うかね」  もとの応接室へもどってきたとき、欣吾の目には、もう、ものに|憑《つ》かれたようなかがやきは消えていて、そのかわりどこか放心したような|虚《むな》しさがそこにあった。 「さっき君もいったね。心中の片割れが消失したほうが、より大きなスキャンダルだと。それくらいのことはおれにだってわからぬはずはない。おれはゆうべもいったとおり、郷田先生にお願いして、誤って薬をのみちがえたか、のみすぎたということにして、世間体を取りつくろうつもりだったんだからね」  こんどは三太も素直にそのことばが受け取れた。 「そうすると、だれかふたりづれの男が奥さんの死体を盗み出したというわけですか」 「そう、美樹子が生きかえったのでないとすればね」 「しかし、それは……」 「いや、それだって全然ありえないとはいえまいよ。われわれは医者じゃないのだからね。しかし、まあ、不可能だろうねえ」 「それで、あなたどうなさるおつもりですか」 「いや、それでものは相談なんだが……」  と、じっと三太を見すえる欣吾の瞳には、ふたたびものに憑かれたようなかがやきがうかんできた。 「おれはいま、ただちにこのことを、警察にとどける意志はないんだ。理由は……」 「理由は……」 「つまり犯人の意図がもう少しはっきりするまでは……つまり犯人がなにを企図しているかをたしかめたいんだ、おれは。……ゆうべ早苗がいってたね。これは奥さんを邪魔にするものの|仕《し》|業《わざ》だと。なるほど、美樹子を邪魔にするものが、美樹子を殺害して、しかもその罪からのがれようとするには、偽装心中はうまい考えかもしれん。しかし、それなら美樹子の死体を奪うというのはおかしい。だからこの一件は美樹子を殺害するのが終局の目的ではなく、目標はおれにあるんじゃないかという気がするんだ。そのことはゆうべ君に偽装心中じゃないかということをほのめかしたときにも、強くおれの頭にこびりついていたんだ。だからおれは闘いたいんだ。この見えざる敵と……」 「なるほど。それでぼくに相談とおっしゃるのは」 「さあ、それだがね、どうだろう、もうしばらくこの一件を伏せておいてもらえないかね」  三太はだまって欣吾の顔を見つめていたが、やがてにやりと微笑をもらすと、 「風間さん、ゆうべぼくがあなたに負けて譲歩したのは、早苗ちゃんのあにきのことがあるからでしたね。しかし、こうして偽装心中の線が濃くなってくると、もうその心配もなくなったわけです。それにもかかわらず、なおかつ秘密厳守を要求なさるおつもりなんですか」 「ああ、そう」 「どういう条件で?」 「いや、条件もなにもない。君はどうやら買収に応じるような男ではなさそうだ。だから、|強《し》いていえば君の新聞記者としての功名心にうったえるわけだ。君はげんざいの段階でもスクープできる。しかしここでスクープしてしまえば、あとはほかの記者とおなじラインにならぶわけだ。ところがここで小さな功名心をおさえておけば、君は将来より大きなスクープができるだろう。君は警察もしらぬことをしってるし、この事件の捜査に役立つだろうとおれが思えば、どんなデータでも提供する。それに反して君がここでスクープすれば、君とおれとは縁が切れるんだ」 「なるほど、すると、ぼくによってこの事件を調査しようとおっしゃるんですか」 「いいや、そうじゃない。こういうと君の自尊心を傷つけるかもしれないが、おれはべつに専門家をやとうつもりだ。私立探偵というやつをね。しかし、その私立探偵に提供するほどのデータなら、君にも全部提供するつもりだがどうだね」  三太はだまって相手の顔を見ながら考えている。  かれの心にはいまひとつの|相《そう》|剋《こく》が起こっているのである。しかし、それはこの戦後派の怪物にだまされているのではないかというような、不安なしこりとはちがっていた。いまいっていることに関するかぎり、この男を信用してもいいと考えている。いまかれの心中に起こっている相剋というのは、新聞記者としての義務をおこたる結果になるのではないかということである。第一、これが他社へもれたらどうだろう。だが、考えてみると、これほどの男がこういう以上、絶対に外部へもらさぬだけの自信はあるのだろう。それにこれはひとつの賭けなのだ。 「風間さん、あなたはぼくの虚栄心を大いに|煽《せん》|動《どう》しましたよ。よろしい、お約束しましょう。当分秘密を守るということを」 「ああ、そう、ありがとう」  欣吾は、しかし、にこりともしなかった。 「それじゃさっそくお訊ねしますが、この事件の犯人はあなたを目標としているとして、いったいなにを企図していると思いますか」 「それはおれにもわからない。しかし、なんらかの意味でおれに深刻な打撃をあたえようとしているのではないかという気がするんだ」 「そして、それをどういう人物……いや、どういう種類のあなたの敵だと思いますか」 「おそらく事業上の敵ではないだろう。いまおれ個人にスキャンダルの打撃をあたえても、おれの事業はもうびくともしないからね。だから個人的な|怨《えん》|恨《こん》、|復讐《ふくしゅう》というようなものじゃないかと思う」 「で、そういう人物に心当たりがありますか」  欣吾がだまって答えないのをみて、三太のほうからつっこんだ。 「あなたはさっきあの地下道や防空壕をつくったのは、奥さんの先夫有島忠弘氏だとおっしゃいましたが、そのひとなんかも臭いと思いますか」 「まあ、そのひとりだろうねえ」 「そのひとりとおっしゃると、ほかにもだれか……?」 「別れた先の女房がいる。ひどくおれを怨み憎んでいるということだ」 「そのひと、いまなにをしているんです。消息はわかっていますか」 「君も新聞記者ならしってるだろう。どっか上野の近所で|蝋人形館《ろうにんぎょうかん》を経営しているそうだ。|望《もち》|月《づき》|種《たね》|子《こ》という女だがね」 「あっ!」  と、思わずひくい叫びをもらして、三太はあいての顔を見なおした。 「それじゃA級戦犯として処刑された、望月大将の娘ですね」 「そうだ。おれも若いときは功名心にもえていた。いや立身出世主義の|権《ごん》|化《げ》だったんだ。だから上官の娘をもらっとけば、なにかの足しになるだろうと結婚したんだが、戦後はねえ、それにあいつの異常な言動に鼻持ちならなくなったんだ。別れるとき相当のものをくれてやったから、ああしつこく怨まれる手はないと思うんだが……」 「なんだかそんな兆候でも……」 「ああ、望月蝋人形館にはいろんなかっこうのおれの死体がごろごろしてるそうだ。蝋でつくったおれの|生《なま》|首《くび》やなんかがな」  ロンドンにあるなんとか夫人の蝋人形館は世界でも有名だが、それを模倣した望月夫人の蝋人形館はいまやグロ趣味で東京でも名物になっている。最初は巣鴨で処刑された戦犯たちの霊をなぐさめるためと称して、そのひとたちの蝋人形をかざっていたが、しだいにモデルが犯罪者に限定されてきて、凶悪犯罪の犯行当時の情景をそのままなまなましく、似顔の蝋人形でみせるものだから、警視庁方面でもしばしば|物《ぶつ》|議《ぎ》をかもすのだが、その筋の注意など|歯《し》|牙《が》にもかける女ではなかった。三太はまだ会ったことはないが、鋼鉄のような意志をもつ女だという評判だ。  なるほど、こいつは面白そうだと、三太は心中舌なめずりをせんばかりである。 「それじゃ、もうひとつお訊ねいたしますが、正直に答えてください」 「ああ、どういうこと?」 「あなたはあの黒枠つきの挨拶状を、いったいどこでごらんになったんですか」  射すくめるような三太の眼を、欣吾は|弾《はじ》きかえすようににらんでいたが、やがて眩しそうに|瞬《まばた》きすると、 「大阪のホテルじゃ通らんかね」 「時間的にむりですからね」 「君はどう推理してるの」  三太はそこでかんたんに挨拶状は五通出されているが、そのうちの三通までが、欣吾の愛人あてに出されているところをみると、あとの二通もかくれた愛人のところへ出されているのではないかという意見を開陳した。 「しかし、君、挨拶状は二百枚刷られ、百五枚が出されたのかもしれないじゃないか」 「それは吉祥寺の日月堂へいってきけばわかりますね」 「なるほど」  と、欣吾は感心したように三太の顔を見なおして、 「やるね、君は、なかなか」 「おほめにあずかって恐縮です」 「しかし、ねえ、水上君」  欣吾はちょっと体を乗りだして、 「これだけは信用してくれたまえ。なるほど挨拶状は五通なくなっている。しかし、一枚は書きつぶしでもしたんじゃないか。おれのかくれた愛人はひとりきゃない。美樹子をいれて五人ということにしてあったんだ」 「なるほど」  と、三太はさぐるように相手を見ながら、 「それで、そのかくれた愛人というのは?」 「水上君。秘密を守ってもらえるだろうねえ。これはおれのためじゃなく、その女のためなんだがね」 「承知しました。で、どういうご婦人?」 「|湯《ゆ》|浅《あさ》|朱《あけ》|実《み》……しってるだろうね」  三太はまた弾かれたように相手の顔を見なおした。驚嘆とともに一種畏敬の念がその瞳にうかんでいる。それが微笑となって唇のはしにひろがっていくと、 「これは大物ですね」  と、溜め息をつくように|呟《つぶや》いた。  湯浅朱実はいまミュージカルの女王と騒がれている、コケッティッシュとエロティークを売り物にしている女で、じつは水上三太も彼女のファンのひとりなのである。 「ところがねえ、水上君、朱実とおれとは妙な因縁に結ばれているんだ。関係ができたときおれは、それをしらなかったし、朱実はまだその事実をしってないんじゃないかと思う」 「妙な因縁とおっしゃると……」 「つまり朱実が、げんざいの有島忠弘の妻なんだ」  ぎょっとして三太が見なおす欣吾の瞳は、またものに憑かれたように怪しく光っている。 「それをおれはしらなかった。あの娘、結婚していることをかくしていたんだね。そして、朱実はいまもなおこのおれが、じぶんの良人、すなわち有島忠弘のかつての妻をうばった男だとは、気がついていないらしいんだ」  湯浅朱実は二十三だとかきいている。あのスキャンダルが新聞をにぎわしたころはまだ十二、三という年頃である。新聞の社会面を読むような年頃ではないし、ひとの噂も七十五日で、あのスキャンダルもいまではある特定の人物をのぞいては、だいたい世間から忘れられている。朱実がしらないのもむりはないかもしれないが、それにしても……と、三太は相手の顔を見なおさずにはいられなかった。  戦後派の怪物といわれるほどのこの男にして、かくも大きく動揺している真の理由が、このときはじめてのみこめたような気がしたからである。     第六章 |望月蝋人形館《もちづきろうにんぎょうかん》      一  その日の午後、三太は新聞社へ出ると、部長に一週間の休暇を申し出た。理由は健康状態に不安をかんじるから、一週間ほどゆっくり静養したいというのである。  かれは入社以来、まだいちども休暇をとったことがない。また事故や病気で欠勤したこともなかった。べつにこれといって業績をあげたことはないが、|精《せい》|励《れい》|恪《かっ》|勤《きん》、それにひとずきのする性格だから、社内でも気受けは悪いほうではなかった。 「いまきゅうに君に休まれると、おれとしても困るが……しかし、まあ、いいや、君もいままで馬車馬みたいに働いたからな。じゃ、ゆっくりと静養したまえ」  と、安藤文化部長も案外あっさり承知してくれた。  こうしてかれは部長の許可をとったのち、調査部へもぐりこんで有島忠弘と望月種子に関する記録や写真を収集した。  有島忠弘の写真は昭和二十三年スキャンダル当時のものしかなかったが、当時かぞえどしで三十二歳の忠弘は、いかにも華族の御曹子といったふうな、面長で色の白そうな貴公子だが、その目のかがやきにどこか三太の気にくわぬところがあった。誠実味にかけ、なんとなく|狡《こう》|猾《かつ》そうな印象なのである。  風間欣吾の話によると、あの当時、欣吾から受け取った|金《きん》|子《す》はとっくの昔につかいはたして、いまでは女房の朱実を食いものにしているらしいということだが、いかにもそういう印象を忠弘の写真は露骨に示している。つまり旧貴族のうちにまま見られる、じぶんは選ばれた素性にうまれた人間なのだから、おまえたち平民どもは敬い尊び、おれを扶養するのが当然だという尊大さと狡猾さとがそこにある。 「ちぇっ! いやなやつ」  と、三太は吐きだすように呟いたのは、かならずしも朱実に対する岡焼きばかりではなかったであろう。  有島忠弘の美貌に反して望月種子はおそろしく|醜婦《しゅうふ》であった。このほうは昨年蝋人形館の陳列作品について、問題が起こったとき撮影したものだから近影だが、なるほど、巣鴨で処刑されたA級戦犯望月|巌《がん》|太《た》|郎《ろう》大将によく似ている。  望月大将は有名な|醜男《ぶおとこ》だったが、その悪いところばかりそっくり受け継いでいるのだから、女としてはみじめである。この写真では頭髪をまんなかからわってひっつめにし、真黒なドレスを着て、長い真珠の首飾りを胸にたらしているが、カニのように角ばった顎が故大将にそっくりで、この女の意志のたくましさを表現している。この奥に目ありとでもいいたげな奥眼は、|眼《がん》|窩《か》のはるか奥まったところで、ハゲタカのようにけいけいとかがやいている。獲物をみつけたらまっしぐらに跳りかかって、鋭い爪でズタズタにひきさこうという、残忍酷薄の相である。  これでは美貌で伊達男の風間欣吾が、辛抱できなかったのもむりはないと、三太もそぞろ同情の念をもよおした。  こうして水上三太はこれからいよいよこの一件と、真剣に取り組むつもりなのだが、そのときかれはゆめにもしらなかったのである。これからかれが相手にしようとしている風間欣吾の見えざる敵というのが、のちにジャーナリズムから悪魔の寵児という折り紙をつけられたほどの、悪の化身ともいうべき人物であることを。  かれはまず第一に吉祥寺の日月堂へおもむいて、挨拶状が何枚刷られたかをたしかめた。挨拶状ははたして百枚しか刷られていなかったが、その注文主に関しては、この物語の冒頭に述べたように、ぜんぜんといっていいほど正体がつかめなかった。  ただ身長五尺六寸くらいの相当がっちりした体格の男である……と、わかったのはただそれだけである。  そのかえりにかれは井の頭線にのって|下《しも》|北《きた》|沢《ざわ》で乗りかえ、|経堂《きょうどう》の|緒《お》|方《がた》病院へ早苗を見舞った。宏はまだ覚醒していなかったが、|脈搏《みゃくはく》や呼吸はおいおい正常に復しつつあると、早苗もいくらか|愁眉《しゅうび》をひらいていた。それからさっきパパさんから電話がかかったと打ち明けた。 「パパさん、なんといってきたの?」 「費用はいくらかかってもいいから、ゆっくり入院してるようにって。それから退院しても、もとどおりの健康体に回復するまでの、物質的な責任は万事じぶんが背負うといってくださるんですけれど、そんなにお甘えしていいかしら」 「いいじゃないか。兄さんはパパさんの敵……いや、パパさん夫婦の犠牲になったようなもんだからね」 「でも、水上さんは、いったいだれがこんなことしたとお思いになって?」 「さあ、わからんね。早苗ちゃんは三人のマダムのだれかを疑ってるんじゃないかね」 「いえ、あの、そんなことは……」  と、早苗は露骨に狼狽の色をみせて、 「ゆうべはあたし気が立ってたもんだから、ついあんな、はしたないことを口走ってしまって……うちのマダムの心証を害したんじゃないかって、それが心配なの」 「そんなことくよくよすることないさ。あの連中だってずいぶんおれに失敬なこといったぜ」 「ほっほっほ、ほんとうにねえ」  と、早苗はさびしく笑ってみせて、 「でも、奥さんはどうでしたの。あちらのお医者さん、なんとおっしゃって」 「そのことについてパパさん、なにかいわなかった、電話で」 「いいえ、べつに……ただ絶対にゆうべのことをしゃべっちゃいけないって」 「ああ、そう、それじゃねえ、早苗ちゃん」  と、三太はやさしく早苗の手をとって、 「パパさんのいうことをよく守って、絶対にそのことしゃべっちゃいけないよ。いや、しゃべっちゃいけないばかりか、奥さんがその後どうなったかなんて、つまらない好奇心を起こしてもいけないんだ。ここ当分早苗ちゃんはあの奥さんのことを忘れておしまい。そうでないと……」 「そうでないと……?」 「いつまた早苗ちゃんや兄さんに、どんな|禍《わざわい》が降りかかってくるかもしれないからね」  早苗はつぶらな目を見はって、まるで三太の体を吸いこむように、しばらくまじまじ凝視しつづけていたが、とつぜんがばとその体を三太のほうに投げかけてくると、 「いやよ、いやよ、そんな怖いこといやよ。あんなことゆうべだけでたくさんよ!」  しゃにむにむしゃぶりついてくる女の力のたくましさに、三太はしゅんかん圧倒されそうになったが、すぐがっきりと受け止めて、強く肩を抱きしめると、 「大丈夫だよ、早苗ちゃん、おれがついている」 「ええ、お願い!」  むっとするような女の体臭が、わかい三太の血を狂わせる。汗ばんだ女の|頸《くび》|筋《すじ》にキスをすると、ううむとうめいて早苗が顔をもちあげた。三太が強く両肩を抱きしめて、ふたりの唇があおうとしたとき、廊下に足音がしてノックの音がきこえた。  ふたりがさっと離れたとき、度の強そうな眼鏡をかけた看護婦がはいってきた。三太はてれくさそうにまごまごしたが、早苗はすましてベッドの兄のほうへちかよった。  三太はぼんやり看護婦が宏の脇のしたに検温器をはさむのを、そばから手つだっている早苗のようすをみていたが、その目をまだ昏睡からさめぬ宏にうつすと、|惟悴《しょうすい》した目鼻立ちがまったく早苗によく似ていると、いまさらのように感心した。  そこを出て三太が都心へかえってくると、もう街には灯がついていて、またショボショボと雨が落ちてきた。  三太はいつも朱実が出ている丸の内の東洋劇場へ出むいていったが、聞いてみると今月は休みで、あさっての七月一日から上演される夏のおどりから出るとのことである。  朱実はちかごろ三田にある高級アパートへ居をうつした。そのことは三太も雑誌かなにかで見ていたし、きょう欣吾から話もきいた。朱実はいま良人の忠弘と別居生活をしているのだが、欣吾も忠弘の住所まではしらなかった。  そこへ電話をかけてみようか、それともいきなり訪問してみてやろうかとも思ったが、それよりも三太の好奇心は、望月種子のやっている蝋人形館のほうへより多くひかれた。  探偵小説などによく出てくるではないか。蝋人形のなかに人間の死体をかくすというトリックが。……美樹子の死体が盗まれたという事実が、かれの連想を蝋人形館にむすびつけるのである。  三太が西銀座でかんたんに食事をすませ、上野|鶯谷《うぐいすだに》にある望月蝋人形館へ車を走らせたのは、もう夜も八時ごろのことである。しとしとと降りしきるつゆの雨は、またひとしきり強くなっていた。  この望月蝋人形館というのは映画館みたいな構造ではなく、表からみたところではふつうの住宅とかわりがない。上野の丘をバックにして、昼間みれば粗末なペンキ塗りの一階建てなのだが、こうして小雨しょぼ降る夜見ると、一階建てとしては屋根がたかくて、ちょっと異国的な豪勢さと、それと同時に一種の凄みをかんじさせる。  内部はホールが広くとってあって、ときどき|際《きわ》|物《もの》|的《てき》にグロテスクな蝋人形を陳列してみせるのだが、一説にはそれは世間をあざむくカモフラージュで、じっさいはエロ・ショウやエロ映画をみせるのが、この蝋人形館の本来の目的なのだというのだが、真偽のほどはさだかではない。  門がひらいていたのでなかへはいって、玄関に立ってベルを押すと、しばらくしてなかから陰気な足音がきこえ、ドアをひらいたのは五十前後の猿みたいな男である。そういえば|猿《さる》|丸《まる》|猿《さる》|太《だ》|夫《ゆう》といって、ゴリラみたいな|獰《どう》|猛《もう》な五十男が、種子の情夫ともつかず、下僕ともつかぬかっこうでついているときいたが、おそらくこの男だろう。ゴリラは派手なアロハを着ている。 「蝋人形館は休みかね」 「ああ、休みだよ」  と、ゴリラはくぼんだ目でギロリと三太の顔をにらんだ。いやに横柄なやつである。 「マダムにちょっと会いたいんだが」 「先生は留守だよ」  ゴリラは種子のことを先生とよぶ。 「どこへいったの? なんなら待っていてもいいんだが……」 「待ってたって、こんやはかえりゃしない。てめえ、おおかた新聞記者だろう。さあ、かえったり、かえったり」  歯をむきだしてそこへぺっと唾を吐き、ぴしゃっとドアをしめられては、三太もとりつくしまがない。  それにしてもゴリラの眼力恐るべしと苦笑しながら、三太はすごすご門から外へ出ていったが、そのままのめのめ引きさがるようでは新聞記者の権威にかかわる。  それから四時間ののち、すなわち深夜の十二時ごろ、三太は首尾よく蝋人形館の内部へ忍びこんだのだが。      二  見かけによらず望月蝋人形館は戦後できの|安《やす》|普《ぶ》|請《しん》で、水上三太のような素人でも、忍びこむのはそうむつかしいことではなかった。ドライバーをつかってかれがこじあけたのは応接室の窓である。  窓がひらくとなかへ忍びこむまえに、三太はおもむろに靴をぬぐって、そのうえから大きなスキー用の靴下をかぶせてはいた。そうすることによって、足跡と同時に足音も消すことができるのを、かれはけさ風間邸の地下道でしったのである。  こうして足もとの用意ができると、つぎに取りだしたのは黒っぽいハンチング、そいつをまぶかにかぶると、黒めがねをかけ、感冒よけの大きなマスクをかけたのち、ポケットから取りだしたのが懐中電灯。  これらの小道具はさっきゴリラに撃退されてから、上野広小路の繁華街で時間をつぶしているあいだに、それぞれ仕込んできたしろもので、窓をこじあけるまえから手袋をはめていることはいうまでもない。  こうして用意万端できあがると、三太もさすがに緊張のために武者ぶるいをし、それと同時にはなはだ|尾《び》|籠《ろう》な話だが、にわかに便意をもよおした。  なるほど、緑林の諸公がしごとにとりかかる以前、戸外で|脱《だっ》|糞《ぷん》するという話をよくきくが、まことにそれもむりはないと、三太はいまさらのように、|梁上《りょうじょう》の君子諸君に同感を禁じえなかったが、さすがにかれは、そんなはしたない真似はやらなかった。  それというのが、かれはこの仕事にそれほど危険をかんじていないのである。腕力にも自信があるし、ことに身のこなしの柔軟で敏速なことにかけては、絶対人後に落ちぬと|己《うぬ》|惚《ぼ》れている。そのうえかれはさっきゴリラに追っぱらわれるとすぐその足で、所轄警察におもむいて、この家の住人についての知識を吸収しておくという抜け目なさももっていた。  それによると、この蝋人形館に常時住んでいるのは望月種子と、ゴリラの猿丸猿太夫のふたりだけだという話である。昼間はわかい娘と六十くらいの飯焚きばあさんがいることはいるが、ふたりとも通いで、ばあさんは晩飯の後片づけがすむとかえっていくし、娘も毎晩十時になるとひきとるという。 「なあ、水上君、夜になると種子とゴリラのふたりきり、いや、ふたり以外はだれもおかぬというところが意味深長じゃないか」  と、この話をしてくれた上村という古狸の老刑事は、そこでにやにや笑ってみせた。 「意味深長というと……?」  と、三太がわざととぼけてみせると、 「なんだ、君も察しのわるい。まあ、いっぺんゴリラに会ってみろ。面構えから体つきから、プンプン、セックスの匂いがすらあ」 「ああ、なるほど、すると望月種子女史、深夜ともなれば余人をとおざけ、精力絶倫のゴリラをご寵愛してるってわけで……?」 「そうそう、あのばばあ、人前ではもったいぶった面アしてるが、夜ともなればゴリラをあいてに、さぞえげつない場面を展開するんだろうと、もっぱら近所の評判だあね」 「いったい、そのゴリラというのは何者なんです。猿丸猿太夫なんてへんな名前がついているとききましたが……」 「いや、それは種子が勝手に命名したんで、ほんとは黒田|亀《かめ》|吉《きち》といって人形づくり、生き人形つくりの名人だがね」 「あっ、なるほど。すると、あの蝋人形館の蝋人形はゴリラがつくるんですか」 「そうそう、戦前から戦後にかけて、黒亀といやあ生き人形つくりの名人といわれたもんで、むろん女房子供もあったんだ。ところがあの蝋人形館のことから種子と知りあい、ひとたび情を通じたとなると、すっかり種子にのぼせあがって、|弊《へい》|履《り》のごとく女房子供を捨てちまったんだ」 「へへえ、すると種子という女にも、どっかよいところがあるとみえますね」 「それというのがねえ、水上君」  と、上村刑事は声をおとして、 「黒亀というのが変態らしいんだ。これは捨てられた女房も恥じて、はっきりしたことはいわんそうだが、ああいう獰猛な面構えをしているにもかかわらず、黒亀のやつ、マゾヒストらしいんだな。ところが種子という女、ありゃ巣鴨で処刑された望月巌太郎大将が、女中にうませた娘だそうだが、うまれつきそうなのか、あるいは黒亀の性癖をいちはやく察知して、うまく調子をあわせているのか、とにかくサディストを気取ってるらしい。これは想像だけでいってるんじゃなく、真夜中なんかによくあの家から、ぴしっ、ぴしっという鋭い鞭の音と、苦痛と快感にのたうちまわる男の呻き声がきこえるって、これはうちの若い連中なんかもパトロール中、たびたび聞いてるんだからまちがいはない」 「なるほど」  三太も学校を出てもう四年、ましてや新聞記者をしていれば、男女間のいろんなケースを耳にする場合も多い。  セックスというものが人により、場合によってはいかにのっぴきならぬものであるかぐらいは心得ている。ことにそれが異常性欲者である場合、その異常な好みをみたしてくれる相手がみつかれば、盲目的にそのほうへ惹かれていくのもむりはないであろう。  しかし、これを種子のがわから考えてみると、風間欣吾と夫婦生活をしてた当時の彼女に、サディスト的行為があったとは思えない。風間欣吾は男の中の男みたいな人物である。女房にサディスト的振舞いを許すはずがない。  その種子がいま|嗜虐《しぎゃく》色情狂的行為にふけっているとすれば、それは黒亀という|好《こう》|伴《はん》|侶《りょ》をえて、眠っていた彼女の本性が俄然めざめてきたものか。それとも上村刑事もいうように、いちはやく黒亀の弱点を見抜いた彼女が、あいてを手なずけるために調子をあわせているのか……。  いや、いや、いかにも黒亀を手なずけるためとはいえ、全然その素質のないものが、そんなえげつない振舞いができようとは思えないし、付け焼き刃では黒亀も真の満足はえられないのではないか。と、すれば種子の性質のなかにはうまれつき、そういう素質があったとみるべきであろうが、由来、こういう性的遊戯はいちど味をおぼえると、坂をころがる石のように加速度的に、えげつなさを加えるものではあるまいか。  水上三太はふと、さっき会ったゴリラのような五十男が、臆面もなく素っ裸になり、種子のふるう鞭のもとで、あさましい法悦にひたっている図を想像してみて、おもわず|慄《りつ》|然《ぜん》たらざるをえなかった。 「それになあ、水上君」  と、このひとの悪い古狸の老刑事は、じぶんの話が予期以上の感銘をこの若い新聞記者にあたえたらしいとみてとると、いよいよ調子にのって、まるで舌なめずりせんばかりの顔色で、つぎのごとく忠告するのである。 「あの種子というばばあ、顔の造作はたしかにまずい。写真やなんかでみるとひどい醜婦だが、会ってみると肌のきれいな女でね。だから黒亀め、さんざん打たれたり殴られたりしたあげく、あの肌でぐっと抱きしめられると、ひとたまりもなく骨抜きになるんじゃないかな。だから種子にとっちゃ忠実な犬も同様で、およそ種子の敵とみると、遠慮容赦もなく咬みついてくるから、君なんかも蝋人形館に関心をもつのはいいが、あのゴリラにゃ、注意せんといかんぜ」      三  さて、以上のような予備知識を頭のなかにたたきこんでおいて、いままさに蝋人形館のなかに忍びこもうという三太である。  学生時代バレー・ボールの選手だった三太は、ビッグ・ゲームにのぞむときのように、深呼吸一番、|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》に気を落ち着けて、さておもむろに窓をのりこえて忍びこんだのが、まえにもいったような応接室である。  暗がりのなかを懐中電灯でしらべてみると、広さは十二畳じきくらい、壁も天井も真っ黒で、カーテンのビロードさえねっとりとした|烏《からす》の|濡《ぬ》れ|羽《ば》色。三方の壁ぎわに沿ってずらりと腰掛けがつくってあるところから、応接室というよりは待合室といったかんじである。  そうそう……と、そこでまた三太は、さっき老刑事にきいた話を思い出した。  望月種子という女は蝋人形館を経営するいっぽう、トランプ占いをやってなかなか人気を博しているというが、ここは身の上相談にやってくる愚かな善男善女たちの、待合室になっているのであろう。そして、この部屋を黒一色にぬりつぶしたのは、ここで待っているあわれな善男善女たちの、おそらくは動揺しているであろう心理状態に、あらかじめ神秘的な感銘をあたえておこうという、種子の|小《こ》|賢《ざか》しい知恵にちがいない。  この待合室のドアをひらくと、そこはちょっと広い板の間になっていて、その板の間の左側が玄関のたたきである。つまり待合室は玄関から板の間へあがって、その右側についているのである。  三太が用心ぶかく懐中電灯で、玄関から板の間を調べてみると、板の間の正面左手、すなわち待合室の壁に沿って四尺の廊下が奥へ走っており、その廊下は待合室のつきるところで、右手のほうへ鍵の手にまがっている。  この廊下の左側、すなわち、玄関から板の間へあがった正面左側に、二間ほどの壁があり、その壁の中央に一間間口の入り口がついているのが、おそらく問題のホールへみちびく通路であろう。観音開きのドアが二枚ぴったりとしまっている。  三太はそのドアを調べるまえに、四尺の廊下を奥へすすんで鍵の手のまがり角までいくと、懐中電灯の灯を消して、真っ暗がりのなかでしいんと耳をすましてみた。  戸外にはあいたわらずべしょべしょと雨が降っていて、トタン|葺《ぶ》きの|廂《ひさし》をたたく音がそうとうはげしいのは、この蝋人形館をおおうように繁っている、|欅《けやき》の梢から落ちる雨垂れのせいだろう。  三太はしばらくそこに|佇《たたず》んでいたのち、玄関のほうへ引きかえそうとしたが、そのとたん、雨の音とはちがった微妙な音響を耳にして、おもわずぎくっとそこに立ちどまった。それはどうやら人間の、それも男のうめき声のようであった。  とつぜん、三太は異様な興奮をおぼえた。さっきの上村老刑事の話をおもいだしたからである。  時刻はまさに零時半、望月種子とゴリラのあいだに、あのあさましい|痴《ち》|態《たい》がくりひろげられているとしてもふしぎではない時刻だ。  鞭の音はきこえないか……と、三太は真っ暗なまがり角にたったまま、全身の神経を針のようにとがらせる。鞭の音はきこえなかったが、男のうめき声はひきつづき、二度三度きれぎれにきこえてきて、それはたしかにあの時に男が発する声のようである。  三太はそっと懐中電灯の灯をつけて、おそるおそる廊下の前方を照らしてみると、四尺の廊下は一間半ほどいったところで、また左へまがっている。三太は懐中電灯の灯を消すと、暗がりのなかを手さぐりでそのまがり角までしのんでいった。  と、五間ほどむこうで廊下がまた左手へまがっているらしく、その左側からボーッと灯の色がさしており、しかも、男のうめき声はさっきよりよほどはっきり聞こえてきた。しかもそれがたしかにあの時の声にちがいないと思われるのは、男のうめき声にまじって、はげしくベッドのきしむ音がきこえてきたからである。  三太はほんのちょっとしかそこに立っていなかったのだけれど、それでもものくるおしくベッドが鳴りだし、男がまるで締め殺されるような|咆《ほう》|哮《こう》をあげるのをきいた。いまや男が歓喜の絶頂をきわめようとして、|渾《こん》|身《しん》の力をふるっているらしい。  それにしても女は……と、三太は耳をすましてみたが、女の声はきこえなかった。  こういう場合、男より女のほうがより凄まじい声を立てるものであることをしっている三太は、ちょっとふしぎに思ったが、しかし、考えてみると元来が正常でないふたりである。それにだいいちあの冷酷無残な相をもつ望月種子が、男に抱かれて声をたてるだろうと想像するさえ|滑《こっ》|稽《けい》なような気がしたので、三太はそれほど気にもとめずにそのまま玄関へひきかえした。  しかし、三太はまちがっていたのである。  あのことがおこなわれていながら、男のうめき声と咆哮以外に、女のそれが聞こえなかったというところに、この事件の恐ろしさがあったのだけれど、そこまで三太の気がまわらなかったのもやむをえない。  それにしても三太にとってこれは|究竟《くっきょう》のチャンスであった。いまやゴリラと望月種子とのあいだにあのことが行なわれている。たとえそれが終わったところで、そのあとにくるのはむなしい空虚と|倦《けん》|怠《たい》と、さらにそれにつづくのは泥のような熟睡である。  三太は玄関へかえってくると、ホールへみちびくと思われる、あの観音開きのドアの錠前をしらべてみた。が、つぎの瞬間、三太がぎょっと呼吸をのんだのは、錠がこわされていて、なんなくドアが開いたことである。  しかし、そのことについても三太はふかく考えなかった。これさいわいとドアのなかへ滑りこむと、懐中電灯の灯であたりを調べてみて、そこが問題のホールであることをたしかめた。  蝋人形館はいま休みなのである。したがって、広いホールに陳列された蝋人形には、それぞれ真っ黒な布がかけてある。種子はよほど黒という色が好きらしいが、懐中電灯の光のなかに浮きあがるそれらが、みんな黒い布をかぶっているというのは、あんまりいい気はしなかった。  目分量だが、そのホールは五十畳じきくらいの広さがあろうか。天井がたかく吹きぬけになっていて、一部が中二階になっている。そのなかに大小さまざまな蝋人形が、いずれも黒い布をかぶって列んでいる。歩きながら懐中電灯の光でかぞえてみると、だいたい三十くらいもあろうか、なかには群像になっているのもかなりある。  こころみに群像になっているひとつの、黒い布をひっぺがえして、懐中電灯の光でつくづく見ているうちに、三太はゾーッと鳥肌が立ち、みぞおちのあたりが堅くなるような恐怖をおぼえた。  数年前わかい女が飲んだくれの亭主を|絞《こう》|殺《さつ》して、母とふたりでその体を斬りきざみ、あちこちへ死体の断片を捨てたという事件があったが、いま三太の懐中電灯の光のなかに浮きあがったのは、母と娘のふたりがかりでいままさにわかい亭主の首を斬りおとそうとしている、世にも凄惨な現場の再現だった。  三人とも裸だが、さすがに女ふたりは腰巻き、あるいはズロースをまとうている。それに反してタライのうえに上半身抱きあげられた男は、一糸まとわぬ全裸で恥部までそのまま再現してある。良人の首をささえるわかい女と、|鋸《のこぎり》片手にそれをのぞきこむ老いたる母の恐怖にひきつった顔……。さすがに血はあつかってなかったが、その凄惨な事件がまだ記憶にあたらしいだけに、見るひとをして目をおおわしめるものがある。  三太はあわてて黒い布をかけなおそうとしたが、そのときふっと妙なことに気がついた。  わかい女にささえられて、仰向けにぐったり首をたれている男の顔にうかんでいるのは|恍《こう》|惚《こつ》たる表情である。この凄惨な情景にもかかわらず、殺されて、いままさに首を斬りおとされようとしている男の顔にうかんでいるのは、無上の歓喜と無限の幸福である。  三太はそれに気がついたとき、こういうものをつくらせる種子と、こういうものをつくる黒亀の心の秘密をはっきり|見《み》|究《きわ》めたような気持ちだった。  いずれにしてもグロ趣味であることはいうまでもない。     第七章 悪婆の射撃      一  それにしても、三太はなんのためにここへ忍んできたのか。……考えてみると、じぶんでもはっきりその目的をつかんでいなかった。  盗まれた屍体と蝋人形の連想が、かれに蝋人形館に興味をつながせ、さらにひとの悪い上村老刑事の|煽《せん》|動《どう》がいよいよかれの好奇心をたきつける結果になり、思いがけなくこのような冒険を決行することになったのだが、さて、冷静にかんがえると、ゆうべ盗まれたばかりの美樹子の屍体が、きょうすでに蝋人形となって、ここに飾られているだろうと考えるのはあまりにも滑稽である。  三太はせめて風間欣吾のいっていた、かれの似顔の変死体か、あるいはかれの生首にでもお目にかかりたいと、二三黒い布をめくってみたが、いずれも、お目当てちがいだった。  そこでそろそろ足もとのあたるいうちに退散しようと、もういちど懐中電灯の光でぐるりとあたりを見まわしたが、そのとき、ふとかれの目をとらえたものがあった。  まえにもいったようにこのホールは、天井が吹きぬけになっていて、その一部に中二階みたいなものがあるのだが、その中二階は最近増築したものらしい。中二階といっても、それは劇場の二階|桟《さ》|敷《じき》みたいな、たんなる廊下にすぎないのだが、その廊下の壁にアーチ型のアルコーブ(壁のくぼんだところ)のようなものがあり、そのアルコーブに黒いカーテンがかかっているのが曰くありげである。しかもアルコーブは五つある。  この五つという数が妙に三太の心をとらえた。  風間欣吾は正妻のほかに四人の愛人をもっている。すなわち五頭の駿馬を飼いならし、調練してきた男である。ただしそのなかの一頭の、わけてすぐれた優駿は、まだかれのほかの愛人でさえしらない秘密になっているのだが……。  三太は即座に意を決してその中二階のほうへ引きかえした。中二階の階段は八段しかなく、それをのぼるとすぐ正面に、黒いビロードのカーテンを垂れたアルコーブがある。三太はなんの|躊躇《ちゅうちょ》もなく、さっとそのカーテンをひきしぼり、懐中電灯の光をなかに送りこんだが、そのとたん、全身の毛という毛がさかだつような恐怖をおぼえた。  ゆうべの女がそこに立っている!  ゆうべ風間欣吾とふたりで自動車へ抱きこんだ女、すなわち欣吾の正妻風間美樹子が、白い|屍《し》|衣《い》をまとうてそこに立っているのである。美樹子は目をひらいているけれど、土気色をしたその顔はあきらかに死相をしめしている。美樹子はべつに苦痛におもてをひきつらせたり、恐怖に顔をゆがめたりしているのではないが、それでもなおかつその死相は一種凄惨な印象を|払拭《ふっしょく》しきれなかった。  三太は気をとりなおして、おそるおそるそのものにさわってみたが、それは蝋人形以外の何物でもなく、べつに美樹子の死体がそのなかに、封じこまれているのでもない。  三太はつぎに、むかって左のアルコーブのカーテンをひらいた。そして、それが予想にたがわず城妙子であることをたしかめると、さらにその左のアルコーブをひらいて、そこに立っているのが保坂君代であることをしった。  三太はつぎに美樹子の右のアルコーブをひらいて、そこに立っている宮武益枝の顔をたしかめると、最後のひとつに手をかけたが、そのときかれの心臓は早鐘をつくようにガンガン鳴った。もしそれがまだ世間にしられていない欣吾の愛人|湯《ゆ》|浅《あさ》|朱《あけ》|実《み》であったとしたら、いったいこれはどういうことになるのだ。  三太はひと呼吸いれてからおそるおそるカーテンをひいた。そしてそれがやっぱり湯浅朱実であることをしったとき、三太は背筋をつらぬいて走る戦慄をおさえることができなかった。  望月種子は湯浅朱実と風間欣吾の関係をしっている。黒枠の挨拶状をよこした人物もしっている。ということはあの黒枠の挨拶状をよこした人物とは望月種子であるということを意味するのだろうか。と、いうことをもっと追究していくと、美樹子を殺して早苗の兄との偽装心中を演出したのも、望月種子ということになるのであろうか。そして、あの美樹子の死体を盗み出していったのも……。  それにしても種子がどうして朱実のことまでしっているのか。そのことはいずれあとで考えるとしても、種子が五人の女に好意をもって、これらの蝋人形をつくったのでないことは、蝋人形のしめす死相からみてもあきらかである。城妙子も保坂君代も宮武益枝も、さては湯浅朱実までが、いずれも美樹子とおなじような死相をおびて作られている。  それら五つの蝋人形はいずれも極端な苦悶の表情は示していない。しかし、土気色に彩色されたその顔は、極端な表情以上に陰惨かつ凄惨な印象をもってひとに迫ってくる。ここいらに黒亀が名人とよばれる秘密があるのだろう。  三太はおもわず身ぶるいをしたが、そのときだ。  カチッ! と、鋭い音がしたかと思うと、とつぜん蝋人形館に灯がついた。  あっと叫んで三太が振り返ったとき、ドアのところに黒衣の女がピストルをかざして立っている。写真で見憶えのある望月種子!      二  懐中電灯の光が三太のいどころを、相手にしらせていたにちがいない。左手で壁のスイッチをひねった種子は、右手のピストルを三太のほうにむけている。 「手をおあげ、動いちゃいけない!」  おさえつけるようなきびしい調子でそう命令をくだしたのち、種子は用心ぶかくホールのなかを見まわした。  こうして明かるみのなかでみると、広いホールのいたるところに、黒い布をかぶった蝋人形がにょきにょきと立っていて、中二階からみるとそれは一種の奇観である。もっともいまの三太には、そんなことに感心している余裕はなかったけれど。 「おまえひとりか」  と、種子の声は男のようである。 「ああ、ひとりだ」  と、三太は両手をうえにあげたまま中二階から答えた。ずいぶんぶざまなことになったものだと苦笑をしかけたが、種子の顔をみるとすぐその苦笑もひっこんだ。  上村老刑事は肌のきれいな女だといっていたが、肌がきれいかきれいでないか、遠目ではよくわからない。しかし、醜婦であることと、残忍酷薄の相であることは遠目でもはっきりわかるが、それは写真でみる以上である。ふかい|眼《がん》|窩《か》の奥から、けいけいとこちらにむかってかがやいている目は、残忍酷薄を通りこして、気味のわるい殺気をおびている。 「相棒はいないのか」  と、種子はふたたびかさねて訊ねた。あいかわらず男のようでいて、しかも冷酷非情な声である。 「そんなものはいないよ」  種子はもういちど用心ぶかくあたりを見まわしたのち、やっと納得したのか、壁のそばをはなれてこちらのほうへやってくる。ピストルをきっと三太のほうへ擬していることはいうまでもない。  三太は両手をうえにあげたまま、いまさらのようにおのれの誤算に下唇をかむ。  三太の行動をいろいろ書いたが、筆で書くと相当長時間を要したようだが、じっさいはかれがホールへはいってきてから、五分とはたっていないのである。したがってかれの計算によると種子はまだあのことの最中か、たとえことをおわったとしても、まだ男の腕に抱かれてか、あるいはぎゃくに男の体を抱きしめてか、とにかく|恍《こう》|惚《こつ》たる|三昧境《さんまいきょう》にひたっているべきはずの時刻なのである。  ところが、いま眼下にちかづいてくる女は、西洋の尼さんが着るような裾のながい黒衣を着ていて、銀製のバンドをしめている。胸にも細い黄金製の鎖をぶらさげていて、鎖のさきに楕円形のブローチをぶらさげている。だいいちそのきびしい顔色からみても、たったいままで男と痴戯にふけっていた女とはみえない。それではさっきの声はだれをあいてに、あのような必死の声をたてていたのか……。 「手をあげなさい、おろしちゃいけない……」  種子のするどい叱咤にあって、三太はぎょっと手をあげなおす。彼女は中二階の階段のすぐ下に立っていた。 「おまえ、ここへなにしにきた?」 「なにしにきたってごらんのとおりで……なにか金目のものはないかと……」 「嘘!」  と、種子は金切り声をあげた。興奮するとやはり女でキーキー声になる。 「こんなところに金目のものがあろうはずがない。おまえだれかに頼まれてきたのだろう」  三太はちょっと考えたのち、ある程度正直にいったほうがいいかもしれぬと思った。 「ばあさん、察しがいいなあ、おまえさんのいうとおりだよ」  ばあさんと面とむかっていわれたのが、自尊心を傷つけられたのか、種子の醜い顔にさっと怒りの色が走った。 「だれに……だれに頼まれてきた?」 「おまえさんを捨てた、せんの亭主の風間の旦那によ」 「風間がおまえになにを頼んだのだ」 「なあにね、おかみさん」 「おかみさん?」 「あいよ、ゴリラのおかみさんだあね、おまえさんはな」 「ゴ、ゴリラのおかみさん……?」  と、種子の声が甲走って、針のように鋭い奥目がたけだけしく光った。  三太はまだしらないのだ。じぶんがいまいかに危険な立場に立っているかということを。種子という女がいかに危険な女であるかということを。そしてまた、この女を怒らせるということがいかに危険であるかということを。 「いえね、おかみさん、風間の旦那がおっしゃるんだよ。おれのパイした望月種子というばばあがやっている蝋人形館にゃ、おれの似顔の生き人形、それもむごたらしい死体や生首になったやつが、ごろごろしてるって話だから、どんなようすか、おまえいってひとつ見てきてくんないかとな、それでこうしてやってきたんだが、ここへきてみれゃ風間の旦那の生き人形より、もっと面白いものがちゃんとあったじゃねえかよ。なあ、おかみさん、いやさばあさんや。こりゃみんな風間の旦那の腕に抱かれて、うれしがってるべっぴんばかりだ。それをこうして死人にして飾っておくとは、ばあさん、おまえもよっぽど執念ぶかい女だな」 「そう、おまえのいうとおり、わたしは執念ぶかい女です」 「あっはっは、じぶんでしってりゃ世話はねえや。ところでおかみさんにちょっとお伺いしたいですが、いちばん右のあまっこですがね。こりゃどうやらミュージカルの湯浅朱実らしいが、この娘も風間の旦那の|情《い》|婦《ろ》なんですかえ」  あいては無言のままひややかに、下から三太の顔を見ている。 「風間の旦那もうめえことやってなさる。こいつばっかりゃ、さすがのおいらもしらなかったが、おかみさんはどうしてそれをしってなさるんで。いかさま占いの|卦《け》にでも出たかね」  三太の|肚《はら》ではあいてを怒らせ、それによってなにかを口走らさせようという寸法だろうが、それは種子という女を、あまりにもしらなすぎたのである。種子は怒りがはげしくなればなるほど、落ち着いてくる女なのである。 「泥棒さん、おまえさんのいうことはそれだけかね」 「な、なんだと……?」  あいての調子があまりひややかだったので、三太はぎくっと呼吸をのんだ。 「いえね。おまえさんのいうことはそれだけかって聞いてるんだよ。そう、それじゃこっちのいいぶんを聞かせてあげよう。おまえさんは泥棒だよ。そして黒い鳥打ち帽に黒めがね、黒い大きなマスクをかけて黒手袋、しかもこうして真の夜中に、窓をこじあけてはいってきたからには、りっぱな押し込み強盗ですよ。しかもわたしはかよわい女です。強盗におびえて無我夢中で、ピストルぶっぱなしたところで、正当防衛ですむということを、いままでおまえさんは気がつかなかったのかい!」  三太はとつぜん足下の床がくずれるような恐怖をおぼえた。舌がからからに乾いて、膝頭ががくがくふるえた。  女はほんとに撃つ気なのだ! 一発のもとにじぶんを射ち殺す気なのだ!  種子はぴたりと三太の胸もとに狙いをさだめた。 「さあ、十まで勘定してあげるから、そのまに念仏でもとなえなさい。可哀そうに、風間みたいな男に使われてるからこんなことになるんだよ。さあ、かぞえるよ。一イ、二イ、三、四イ、五オ……」      三 「あら、水上さん、どうかなすって? お顔の色が悪いわ」  その翌日のひるさがり、三太が経堂の緒方病院へ見舞いにいくと、早苗のいきなりあびせた挨拶がそれだった。 「ああ、いや、ちょっとね。ゆうべから下痢ぎみなんでね。寝冷えだろう」 「まあいけませんわね。この陽気だから気をおつけになって。ひょっとするとおとついの晩、うちへ泊まっていただいたのがいけなかったんじゃなくって?」 「なあに、そんなことはないよ。それより兄さん、どう?」  ベッドのほうへ目を走らせると、宏はあいかわらず昏々と睡っている。 「ええ、ありがとう。それがねえ、ゆうべおそくいちおう意識を回復したことはしたの」 「ああ、そう、それはよかった、それで……?」 「ところがやっぱりいけないの。ここ」  と、早苗は頭を指さして、 「ここのなんとか|中枢《ちゅうすう》が犯されてるんですって、だから言葉なんかもはっきりしないのよ」 「でも、それ、治ることは治るんだろう」 「ええ、時日をかけて気永に養生すればね」 「いいじゃないか。パパさんが万事責任をもつというんだろ。あのひとに面倒みておもらいよ。むこうは大物だ。気がねすることなんかありゃしない」 「ええ、そのことについてあなたに相談に乗っていただこうと思ってるんですけれど、そのまえに、あのことね」 「あのことって?」 「いいえ、奥さまのこと」 「ああ、それ、兄さんに聞いてみた?」 「いいえ、こちらからはまだ聞かないんですけれど、兄のほうからしきりに気にしてるんですの」 「気にしているって、なんのこと……?」 「いいえ、こうして寝てる場合じゃない。奥さまの肖像がおくれるって……」 「あっ!」  と、三太は口のうちで叫んで、 「それじゃ、やっぱりおとついの晩のことはしらないんだね」 「ええ。……奥さまの肖像、五月のなかばからはじめたでしょう。ところがもうあしたは七月ね。はやく仕上げないとあの服装じゃ、奥さまがお気の毒だって気にしてるんですの」 「ああ、なるほど、しかし、それじゃ精神状態はしっかりしてるんだね」 「いいえ、ところが……」  と、早苗は涙ぐんで、 「あたしはわかるらしいんですの、妹だってことが。……ところがけさがたマダムがお見舞いにきてくだすったの」 「マダムってカステロの……?」 「ええ。ところがそれが全然わからないんですの。どんなにあたしが説明しても……首をかしげてしきりに思いだそうとしているらしいんですけれど……」 「それでいて、奥さんの肖像のことだけは|憶《おぼ》えてるんだね」 「ええ、なんでもごく最近、奥さまがいつまでもこの服装じゃ暑いわねと、おこぼしになったかなんかなすったらしいのね。それが強く印象にのこってるらしいんですの」 「なるほど」  と、三太はちょっと考えて、 「それで、パパさんのことについて、ぼくに相談というのは?」 「はあ、じつはけさマダムがいらっしたというのもそのことなんですの。パパさんのお使いでいらっしたのね。それで、兄が退院できるようになったら、あたしごと、パパさんのおうちへ引きとってくださろうとおっしゃるの」 「パパさんのおうちって、芝の家?」  と、三太はおもわず目をまるくする。 「ええ、なんでもパパさんのおうちのお庭の隅に、昔、執事さんかなんかが住んでた小ちゃなうちがあるんですって。そこだと別に入り口もついてるし、出入りに気兼ねもないしするから、そこへふたりでくるようにってパパさんがおっしゃるんですって。マダムもしきりにそれをすすめてくださるんですけれど、水上さんはどうお思いになって?」  なるほど、と三太はいまさらのように風間欣吾の抜け目のなさに感心した。それはかならずしも親切ごころばかりではないだろう。兄妹の口をふさぐために、ふたりを一種の捕虜にしておこうという|肚《はら》なのにちがいない。 「しかし、そりゃいいじゃないか」 「あら、水上さんも賛成なすって?」 「ああ、ぼくもこの事件について今後風間氏と接触をたもっていこうと思ってるんだ。しぜん風間氏を訪問することも多くなるだろうし、君が風間邸にいるということは、ぼくにとっても好都合だからね」 「あら、うれしい。あなたが賛成してくださるなら、あたしもそれにきめるわ」 「早苗ちゃん」 「ええ」  三太は早苗を膝のうえにひきよせると、きょうは看護婦にさまたげられることもなく、力いっぱい抱きしめて、思うぞんぶん唇を吸った。三太の首に両腕をまきつけた早苗は、うっとりと薄目をひらいて唇を三太にゆだねていたが、ふっとその目に涙がわいてくる。 「どうしたの」 「ううん、うれしいの」  と、早苗はまだ三太の膝からおりようとせず、ワイシャツのボタンをいじっていたが、 「ああ、そうそう、あたしもうひとつ困ったことがあるの」 「どんなこと……?」 「兄が注射された薬ね。あれ、モヒ系の、つまり禁制品なのね。それでここの先生が警察へおとどけになったもんだから、刑事さんがききにきたの。どこから手に入れたかって。あたしパパさんとの約束もありますから、ほんとのこともいえず困ってしまって……」 「ああ、そのこと、……そんならぼくにまかせておおき、警視庁に知り合いがあるから、揉み消すようにしてあげよう」 「あら、うれしい。……あなた」 「よし!」  もういちど強く唇を吸ってから三太は早苗を膝からおろした。  こうして女と唇をかさねたことによって、三太はにわかに責任を感ずると同時に、なんとなくおのれの人生に幸福な充実感をおぼえ、緒方病院を出るとその足で、丸の内のSビル三階にある風間産業のオフィスに風間欣吾を訪ねていった。  あらかじめ電話をかけておいたので、欣吾はさほど待たせもせず応接室へあらわれた。 「早苗の兄妹をお宅へお引きとりになるそうですね」  挨拶のおわるのも待たずに三太が単刀直入に切りだすと、 「ああ、罪ほろぼしにね」 「きょうだいを捕虜にしとこうって寸法ですか」 「あっはっは、おれのやることだからって、いちいちそう悪意にとっちゃいけない。それとも君は反対かね」 「いいえ、ぼくからも早苗ちゃんにすすめておきましたよ」  そういう三太の顔をまじまじと見ていた欣吾は、やがてにやりと笑うと、 「おれをスパイさせようというのかね。いや、それも結構結構、ときになにか……?」 「いや、望月種子女史についてちょっと調査したこともありますが、まだお耳に入れるほどのことはありません。これからひとつ有島忠弘氏の調査にかかろうと思ってます」 「いや、忠弘君なら大丈夫だ」 「大丈夫とは……?」 「忠弘君なら一週間ほどまえからブタ箱にはいってるそうだ」 「ブタ箱に……?」 「ああ、そう、モヒの密輸かなんかに関係していたらしい」 「モヒ……?」  と、三太はおもわず目を見はった。  モヒといえば早苗の兄が注射されたのもモヒ系の薬である。それにブタ箱というところは、もっともたしかなアリバイ証明所ではないか。じぶんはブタ箱にはいっていて、仲間にやらせるという法もある。  三太はなんとなく怪しい胸騒ぎをおぼえたが、欣吾はそれより種子のことが気になるらしく訊ねていたが、それに対して三太ははかばかしく答えなかった。  望月種子!  あの冷酷非情な悪婆のことを思うと、三太は|肚《はら》の底が煮えるような怒りと屈辱をおぼえるのだ。  ゆうべ三太はすでに命はないものと、観念のほぞをさだめたのである。それにもかかわらず九死に一生をえたというのは、つぎのような事情によるものであった。  種子が五つまでかぞえたじぶん、そこにひとつの奇跡が起こった。黒い布をかぶった蝋人形のひとつが、とつぜんむくむくと動きだしたのである。蝋人形は黒い布をかぶったまま、しだいにドアのほうへにじりよった。三太は手に汗握ってそれを見ていたけれど、ドァに背をむけていた種子は気がつかなかった。  種子が九つまでかぞえたとき、黒い布の蝋人形が電気のスイッチを切ってくれた。つぎの瞬間、三太が暗がりの廊下に身をふせるのと、種子がピストルのひきがねを引くのと同時だった。だから、種子はほんとうに三太を殺すつもりだったのだし、あの奇跡の蝋人形が出現しなかったら、三太はいまごろ胸に風穴をあけられて、冷たい|骸《むくろ》となっているところだったのだ。  それにしても奇跡の蝋人形とはいったい何者か。  それについて三太が思いあたるのは、ホールのドアの錠前がこわされていたことである。だからゆうべホールには先客がひとりあったのだ。その先客は思いがけなく三太が忍びこんできたので、黒い布をかぶって蝋人形に化けていて、あのきわどい瞬間に、三太を救ってくれたのである。  だが、その恩人はいったいだれか。たんなる梁上の君子なのか。それとも三太とおなじように、望月種子について調査している人物なのではあるまいか。     第八章 雨男      一  その年は|梅《つ》|雨《ゆ》の明けるのがおそく、七月の十日をすぎてもまだベショベショと、陰気な雨の降る日がおおく、例年ならば|湘南《しょうなん》方面の海水浴場では、もうそろそろ避暑客でにぎわう時候だのに、ことしはうちつづく|霖《りん》|雨《う》のために、どの海水浴場も閑古鳥が鳴きそうなさびしさで、これもどことかの水爆実験の影響だろうなどと、とんだところでアメリカやソ連がうらまれたりした。  あの男……防水したながいレーン・コートに、すっぽりとフードをかぶり、フードについている|舌布《タ ン グ》で鼻のしたをおおって、大きな黒眼鏡をかけた男が、この物語のなかで二度目に登場した七月十三日の夕方も、やっぱりベショベショと陰気な雨が降っていた。  上野鶯谷にある望月蝋人形館のうらがわには、猿丸猿太夫こと人形つくりの名人、黒田亀吉の人形工房がある。  人形工房のひろさは十二畳じきくらいもあろうか。ごたごたと人形つくりの道具がおいてあるうえに、北側をむいて建っているので、天気のよい日でもうすぐらいのに、ベショベショと煮えきらない雨の降る日など、いっそう薄暗くて陰気である。その薄暗い工房のなかに、乱れ髪をふりさばいた女の生き人形の顔がほのじろくうかんでいたり、人形の手や脚がひとたばねにして天井からぶらさがっていたり、試作品らしい生首がごろごろころがっていたり。……そういう雰囲気のなかで、アロハを着たゴリラのような男が、むこう鉢巻きで、人形とはいえ女の裸身をいじくっているところは、ちょっと妖怪じみている。  黒亀も以前は弟子の四、五人ももち、|浅《あさ》|草《くさ》|馬《うま》|道《みち》にあった人形工房は、もっと活気がみなぎっていたものだが、望月種子とへんな関係になってから、妙に陰気でおこりっぽくなり、あげくのはてには女房子供までたたきだしてしまったので、愛想をつかした弟子のほうから、ひとりふたりとはなれていって、人形工房をこの蝋人形館のうらがわへうつしたころには、亀吉は完全に孤独なひねくれものになっていた。  かれにとっては、種子との夜の悦楽だけが、人生における唯一無二の幸福となり、職業であるところの人形つくりはともかくとして、その他のあらゆるものごとに興味をうしなってしまったらしい。それかあらぬかこの男の脂ぎったゴリラのような容貌なり肢体なりには、ゆがんだセックスのいやらしさと不潔さがギラギラとうかんでおり、以前もっていた職人|気質《か た ぎ》の気概や気位は影をひそめた。  そのうえゴリラは光を忌むらしい。  以前あった浅草馬道の人形工房には、蛍光灯の設備がいきとどいていて、雨の日だからといって光線の乏しさになやむようなことはなかったが、ここにはそういう近代的設備は皆無で、天井の電灯からながながとコードがぶらさがっていて、そのコードのさきにともっている電気スタンドの光が、あぐらをかいたゴリラの周辺だけをぼんやりと照らしている。  仕事が思うようにいかぬのか、ゴリラはさっきからしきりにブツブツ口のなかで叱言をいっている。ゴリラのまえにあおむけに寝ている、裸形の女のふともものあたりの肉づきが、もうひとつかれの気にくわぬらしい。まるで女のそこを|舐《な》めんばかりの姿勢で、丹念にコテのようなもので撫でまわしているところは、たとえあいてが蝋人形とわかっていても、たしかに一種異様な情景である。  時刻はまさに夕刻の四時。  本来ならば一年中でいちばん日のながい季節だから、まだじゅうぶん明かるいはずなのだが、まえにもいったようにベショベショと、雨が降りつづいているうえに、仕事をしているところをひとに|覗《のぞ》かれるのをきらう黒亀が、窓をうんと小さくとってあり、しかも、その窓のそとにはうっそうと木が生い繁っているので、工房のなかはいよいよ薄暗く陰気なのである。  その薄暗くて陰気な工房が、いっそう薄暗くかげったので、黒亀がおやとばかりに顔をあげると、その男が窓の外に立っていたのである。まえにもいったように、ひとに覗かれることを嫌う黒亀が、窓をうんと小さく、しかも高いところにとってあるので、黒亀がふりかえったとき、その男の肩からうえしかみえなかった。  防水したレーン・コートのフードをふかぶかとかぶり、|舌布《タ ン グ》で鼻から下をおおい、大きな黒眼鏡をかけた顔が、雨のなかに立って窓のなかを覗きこんでいる。フードからポタポタとひっきりなしに滴が落ちている。  黒亀はギロリとそのほうをにらみすえると、ちっといまいましそうに舌を鳴らして、それからまた人形つくりにとりかかった。  黒亀はさいしょその男をおまわりさんだと思ったのである。いまその男の立っているところは、上野公園から鶯谷の駅に通ずる|間《かん》|道《どう》みたいになっていて、めったにひとの通らないところだが、このへんを受け持ち区域にもつ警官は、もちろんその道を知っている。しかも、このへんのわかいおまわりたちが、じぶんと種子との仲に妙な好奇心をもっていて、しばしばふたりの交歓のもようを偵察にくるらしいのに、黒亀はいつも腹を立てている。  黒亀はきゅうに腹のなかでにやりとわらった。ひとつこのわかいおまわりさんをからかってやろうと思いついたのである。それにはちょうどさいわい、目のまえによこたわっている等身大の女の裸像である。  黒亀はやおらその蝋人形を膝のうえに抱きあげると、左手でしっかりその腰を抱き、頬と頬とをすりよせて、右手で人形を犯しはじめた。まむしの頭のようにさきのひらいた黒亀の|醜怪《しゅうかい》な指が、むずがゆく蝋人形の肌のうえを這いまわる。  黒亀はその指の運動にしだいに速度をくわえながら、おりおりちらっと皮肉なながしめを、窓の外の男へおくる。フードと大きな黒眼鏡で、窓の外の男がどういう顔色をしているのかわからないが、あいかわらず雨のなかに立ったまま、眼じろぎもせずに黒亀の痴戯を見まもっている。  黒亀はいつかおのれの呼吸のはずんでくるのをおぼえた。覗き見をするわかいおまわりをからかうつもりではじめた行為に、いつかかれは|愉《ゆ》|悦《えつ》をおぼえはじめたのである。かれにまえから|偶《ぐう》|像《ぞう》|姦《かん》の習癖があったかどうかはわからないが、その瞬間、あきらかにかれはピグマリオニスト(偶像姦狂)であった。かててくわえて、あさましい行為をひとに見られることによって、よりいっそうの愉悦をおぼえるという露出狂の嗜好も手つだったのだろう。  やにわにかれはアロハをぬぎ、アンダー・シャツをかなぐりすてた。アンダー・シャツのしたはゴリラの異名に恥じぬ毛深さである。腕にも胸にも背中にも、いちめんにくろぐろとした毛が密生している。したがって望月種子のふるうという鞭の跡も、こういう薄暗いところではよくわからない。  ゴリラはごろりと仰向きになると、腹のうえに蝋人形を抱きあげた。  蝋人形の硬直した肢体もつめたい肌も、いまのゴリラには苦にならぬらしい。毛むくじゃらの胸にぴったり蝋人形を抱きしめた、かれの愉悦はますますたかまっていくらしく、薄暗い工房のなかにくりひろげられる、ゴリラとあわれな犠牲者、蝋人形のものくるわしい痴態は、いよいよえげつなさをくわえていく。  ついにゴリラは羞恥という人間らしい感情の、さいごのひと皮までかなぐりすてずにはいられぬほどの興奮状態に到達したらしい。わななく指でベルトをゆるめ、ズボンをしたへさげようとするのだが、その瞬間、窓の外から声がかかった。 「おい、いいかげんにしないか」  陰気で沈んだ声の調子は、ベショベショと降りしさる雨にふさわしい。      二 「なにを!」  と、喧嘩腰でふりかえったものの黒亀は、なにかしらはっと|怯《ひる》むものをかんじずにはいられなかった。  覗きをする男の興奮を誘ってこそ露出狂の法悦はある。ところがいまの男の声はすこしも感情の昂揚をしめしていない。沈んで陰気な声の調子は息使いさえ乱れていないのである。それが黒亀の感興にばさっと冷水を浴びせたようだ。 「なにを!」  と、黒亀はうすぎたない|薄《うす》|緑《べり》のうえに起きなおると、それでもまだ蝋人形を片手に抱いたまま、窓の男にむかって歯をむきだした。厚い唇のあいだから泡と|涎《よだれ》がふきだしている。 「やい、てめえ、なんだっておれを止めるんだ。おれがよ、おれが作ったべっぴんと|娯《たの》しんでるんだ。それをなんだって止めるんだ。見たかなきゃむこうへいきやがれ」  土間にむかってペッと唾を吐きすてて、蝋人形とともにふたたび横になろうとするのを、 「おい、もうほんとうにいいかげんにしろよ、親方」  と、のろのろした口調はあいかわらず沈んで陰気である。 「なんだと? てめえまだ止めるのかい? いっひっひ、むこうへいこうたっていけめえ。この助平め、まあ、そこでみてろよ。これからさんざんいいところを見せつけてやるからよ。たんまりご見物のうえ署へかえったら署長に報告しろ。黒亀がこれこれこういうふざけたまねをしておりましたとな。ヘン、まさかこれしきのことで、おれをひっくくるわけにもいくめえよ」 「署長……?」  と、あいてはやっと黒亀のなにか勘ちがいをしているらしいことに気がついた。 「親方は、このおれをなんだと思っているんだね」 「なんだって、おまわりだろう。それともデカかい」 「あっはっは!」  と、あいては咽喉のおくでひくく笑うと、 「いいや、おれはそんなものじゃない」 「そんなものじゃないって? それじゃ、てめえはなんだ」 「おれか、おれは雨男……」 「雨男……?」  と、黒亀は目をまるくして、 「雨男ってえ、なんだ?」 「雨のショボショボ降る晩に、こうしてふらふら出てくるから雨男さ」  ボソボソとした陰気な声で、しかもいうことがひとを食っているから、黒亀もふうっと薄気味悪くなってきた。 「その雨男がなんだっておれの仕事場をのぞくんだ」 「ああ、ちょっとな、親方に頼みたいことがあってな」 「頼みってなんだい?」 「うんにゃ、おまえさんに蝋人形をつくってもらいたいと思ってな」 「ふうん」  と、黒亀は鼻を鳴らして、 「それじゃ、おまはん、お客さんかい?」 「まあ、そうだよ」 「客なら客で、なんでさっさとなかへはいってこないんだ」 「なかへはいるまえにレーン・コートの滴を切ろうと思って、ここへちょっと立ちよったんだ。そしたら仕事場が見えたので、滴を切りながらおまえさんの仕事ぶりをみていたら、へんなまねをはじめたので、ちょっと呆れていたところだ。あっはっは」  どうも陰気な声である。しかし、ちかごろの黒亀は陽気で|闊《かっ》|達《たつ》な人物より、陰性な人間のほうがウマがあう。 「うっふっふ、おまはんを若いパトロールだと思ったから、ひとつからかってやるつもりのところが、こっちのほうが変な気持ちになっちまったんだ。どっちにしてもそこじゃ話にならねえ。こっちへはいっておいでなさい」  望月蝋人形館の人形は全部黒亀の手になるものだけれど、黒亀はこの蝋人形館専属というわけではない。注文に応じて蝋人形館以外の人形もつくるのである。そうして黒亀はおのれの収人のみちを講じないと、種子はケチだから小遣いもくれない。したがってこの黒亀人形工房には、粗末ながらも応接室がついている。 「おまはん、その頭巾みてえなもんくらいお取りになったらどうですい?」  犬みたいにぶるるッと体をふるわせて、応接室の土間へはいってきた雨男は、両手をポケットにつっこんだまま、のっそりそこに立っていて、 「いいや、おれはこのほうがいい」 「ふうん」  と、黒亀は鼻から息を吐きだすと、疑わしそうな目であいての黒眼鏡のなかをのぞきこみながら、 「それじゃ勝手にしなさるがいい。それであっしにご注文とおっしゃるのは……?」 「等身大の女の生き人形をつくってもらいたいんだがね」 「へえ、それはようがすが、なにかその生き人形にご注文が……?」 「ああ、モデルがあるんだ。そのモデルにそっくりそのまま作ってもらいたいんだが……」 「なるほど、それでそのモデルというのは……?」 「ああ、ここに写真を五、六枚もってきたがね。写真のうらに身長などが書いてある」  男がポケットから取りだした右手をみると、黒亀はちょっと目をみはったが、すぐ唇をまげてにやりと笑った。  この暑いのに雨男はごていねいに黒い革手袋をはめている。その手袋をはめた手に白い西洋封筒をもっていた。 「それ!」  と、雨男がテーブルのうえに投げだした西洋封筒を、黒亀も立ったまま手に取ると、 「なかをみてもよござんすね」 「もちろん」  黒亀が封筒をひらいてみると、なかにはハガキ大の写真が六枚はいっていた。むろん全部おなじ女の写真だが、二枚だけが顔の大写しで、あと四枚は全身の、しかも全裸の写真である。立っているところを前から二枚、うしろから二枚。どの写真も女がこれというポーズをつくっていないところをみると、あきらかに盗み撮りされたものである。  黒亀はまたふうんと鼻を鳴らして、さいごに顔の大写しに目をやったが、そのとたん、思わずぎょっと呼吸をのんで、あいての顔を見なおした。 「こ、この女は……」 「親方はこの女をしっているのかい?」  あいての声は、あいかわらずひくく沈んで陰気である。 「いや、まあ、そんなことはどうでもいいが、おまはんはこの女の生き人形をつくってどうするんです?」 「そんなことをいちいち説明しなきゃ、親方は人形をつくらないのかい?」  黒亀はだまってあいての顔をみていたが、 「それでポーズや衣裳になにかご注文でも……?」 「いいや、仰向けに寝ているところでいい。衣裳はいらん、そのかわり体の各部分までその写真とそっくりにしてもらいたい。そうそう、すこし股をひらきかげんにしておいてもらおうか」 「そして、両膝をおっ立ててですかい。いっひっひ! 腕はこうすれゃいいんでしょう」  黒亀がみだらなポーズを実地にやってみせるのを、雨男は黒眼鏡のおくからまじまじとみていたが、 「なるほど、それはいいかんがえだ。それじゃそういうように作ってもらおう。但し期日が切迫しているのだが……」 「いつまで?」 「二十日前後に受け取りにくる」 「一週間ですね」  と、黒亀はちょっと首をかしげたが、 「ようがす。但しそれだけ高うつきますぜ」 「いくらだい」  黒亀が法外な料金を吹っかけて、あいてのようすをうかがっていると、雨男もちょっと考えたのち、 「足下を見るね。だがまあいいだろう。手付けとして何割おこうか」 「四割もいただきましょうかねえ」  雨男はだまってうなずくと、手の切れるような五千円札を何枚か粗末なテーブルのうえにならべて、 「受取はいらん。そのかわり、二十日前後にかならず受け取りにくるからそのつもりで……」  陰気な声で念をおすと、身をひるがえして、ベショベショと降る雨のなかへと出ていった。  この鮮やかな|挙《きょ》|措《そ》進退に、黒亀はいささか毒気を抜かれたかんじである。ぼんやりとテーブルのうえに散らかっている五千円札と六枚の女の写真をみていたが、急にぶるんと身ぶるいをすると、 「畜生ッ!」  と、さけんで雨のなかへとびだした。  しかし、雨男のすがたはどこにもみえず、ただ霧のような雨がベショベショと、あたりいちめんにたてこめている。  五分ほどたって黒亀はなにやらぶつぶつ呟きながら、もとの人形工房へかえってきたが、十五分ほどの対談にもかかわらずとうとうあいての年齢の見当さえつかなかったのを、かれはいまになっていまいましがっているのである。  それにしても……と、黒亀はもういちどテーブルのうえから六枚の写真をとりあげる。かれはその写真のぬしをしっているのである。それは風間欣吾の愛人のひとり、ブーケ・ダムール(愛の花束)のマダム、保坂君代である。黒亀はしかし当分このことは、種子にもいわずにおこうと思っている。     第九章 |欣《きん》|吾《ご》の不安      一 「いよいよ、あしたはブーケ美容院の丸の内進出ですね」  雨男が黒亀の人形工房へ出現してから十日ほどのち、正確にいえば七月二十四日の夜のこと、水上三太は風間邸の応接室で、主人の欣吾とむかいあっていた。  時刻は夜の八時まえ、こんやもまたベショベショと陰気な雨が、欣吾の庭の植込みから芝公園へつづく|杜《もり》をぬらしている。  ちかごろ欣吾が身辺を警戒する事は非常なものである。  以前は連夜のごとくつづく宴会やら招宴やら、さては妾宅まわりやらで、会社からまっすぐに芝の本宅へかえることは、月に三度あるかなしかだったが、ちかごろでは、できるだけ無用な宴会や招宴をさけるようにしている。  また妾宅めぐりなども日のあるうちに果たすことにして、泊まってくるようなことはなくなった。  もっとも、これは以前からもちょくちょくあったことで、かれの愛人たちはみな夜のおそい職業をもっているうえに、かれじしんも多忙な男なので、昼間電話で風呂の支度を命じておいて、あとから訪問するというようなことも珍しくなかった。  しかし、なんといっても愛人たちと|歓《かん》をつくして、かれの|貪《どん》|婪《らん》な欲望に満足をあたえるためには、泊まるよりほかはないのである。その泊まりがなくなったということは、しかし、かれの肉体のおとろえを意味しているのではない。かれはいま精神的に落ち着きをうしなっているのだ。  さすが戦後派の傑物といわれるほどの風間欣吾も、このえたいのしれぬ事件に直面しては、策のほどこしようもなく、奥歯にもののはさまったような焦燥感にあおられて、ゆっくりと愛人たちと歓をつくしてたのしもうという、精神的な落ち着きをかいているのである。  焦燥感は不安に通ずる。不安は恐怖につながっている。だからかれはちかごろ身辺の警戒にひとしれず、神経をつかっているのである。 「ああ、そう、君はよくしってるね」  なにかほかのことに思いふけっていたらしい風間欣吾は、よほどたってから三太の言葉に返事をした。ひとと対座していて、ほかのことに思いふけるというのも、従来の欣吾にはなかったことである。 「よくしってるって、マダムから招待状を頂戴しましたよ」 「ああ、そう」  と、かるくうなずいたものの欣吾がその話に身をいれていない証拠に、窓ガラスをつとう雨の滴を、しばらくぼんやり眺めていたが、急に三太のほうをふりかえると、 「よく降るねえ」  と、眉をしかめて嘆息した。  これも従来の欣吾にはないことで、お座なりの挨拶ならともかく、こういう重要な会話のあいだに、天気のことなど持ちだすかれではなかったはずである。 「雨のことが気におなりですか」  欣吾の顔色があまり暗かったので、三太は呆れたようにそう突っこまずにはいられなかったが、あいてはただまじまじと三太の顔を見すえるだけで返事をしない。しかし、なにかしら本能的にかれがベショベショ降りつづくこの雨を、気にしているらしいことが三太にわかるのである。 「そういえば吉祥寺の日月堂に、はじめてあの男があらわれたのも雨の日でしたね。それから奥さんがああいうことになったのも……それにこの雨はまだ二、三日降りつづくそうですから、あしたもおそらく……」  そこまでいってから三太ははたと口をつぐんだ。あいての瞳にうかんだ異様なかがやきが、あまりにも凶暴であることに気がついたからである。欣吾はその凶暴な眼差しで三太の顔を見すえたまま、 「あとをつづけたまえ。あしたもおそらく……? なんだっていうんだ」 「いいえさ、あしたもおそらく雨だろうといいかけたんです」 「あしたも雨だったらどうだというんだ」 「いや、それだけのことですよ。あなたがあんまり雨のことを気にしていらっしゃるもんですからね」  はぐらかすような三太の調子に、欣吾は不愉快そうに眉をうごかしたが、これまた従来の欣吾にはなかったことである。かれはどんなあいてにでも、じぶんの真の喜怒哀楽を、露骨にみせたことのない男だったはずだのに。  しばらく|気《き》|拙《まず》い沈黙があったのち、 「いや、その問題はこれくらいにして、それじゃもっと事務的な話にうつろうじゃありませんか。奥さんのいささか長過ぎるご不在について、このうちのひとたちはなんと思ってるんですか」 「いや、それならうまく取りつくろってある」 「しかし、親戚のひとたちは……? 奥さんのお里はたしか元伯爵の五藤家でしたね」 「いや、そのほうも、なんとかうまく取りつくろってある。そりゃ、多少はふしぎに思ってるかもしれんが、まさかこんな奇妙な状態になっとろうとは気がつくまいよ」 「あなたはこの状態をいつまでもつづけるつもりなんですか。奥さんのご不在という問題について……」 「ああ、そう、水上君、おれという人間はいったん決めたことはなかなか変更しないほうでね。よんどころない事情が持ちあがるまではこの状態でいくつもりなんだ」 「よんどころない事情とおっしゃると……?」 「美樹子が出現するまでだね。生きているにしろ、死んでいるにしろ……?」 「生きているにしろ……? あなたは奥さんが生きていらっしゃるかもしれないと思ってらっしゃるんですか」 「そんなことは万あるまいと思うが、ただ……」 「ただ……?」 「おれの頼んである私立探偵はその可能性もあるというんだ。もっともその男ははっきりした線が出るまでは、絶対に決定的なことをいわん男だけどね」 「その私立探偵というのはどういう人物ですか」 「いつか君を救った男だ」 「ぼくを……? どこで……?」 「望月蝋人形館でね。あれはたしか先月の末日だったと思うが……」 「あっ!」  と、口のうちで叫んだ水上三太は、思わず大きく目を見張ると同時に、屈辱のためにかあっと耳たぼがもえてきた。あの一件ばっかりは三太もいままで伏せておいたのだ。口にするさえいまいましさがこみあげてくる。 「で……? なんというひとですか、そのひと……?」 「|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》というんだ。おれと同姓の|風間俊六《かざましゅんろく》という土建屋の紹介で、以前からしってる男だがね。金田一耕助……しってるかね」 「もちろん、しってますよ。有名な人ですからね。そうですか、あのひとがぼくを……それじゃあのひともぼくと同時にこの事件の調査にスタートしてるんですね」 「そう、こないだ君と妥協が成立した直後に、あのひとにきてもらって依頼したんだ」 「それで、金田一先生はなんといってるんですか。奥さんの失踪をかくしておくということについて……」 「それゃ、あのひとにゃ、とやかく指図がましいことはいえんさ。こっちが依頼人なんだからね。それに……」 「それに……?」 「いや、美樹子が生きていて、じぶんの意志で姿をくらましている場合も、あのひととしては勘定にいれてるんだろう。反対はしなかったよ、おれのやりかたについてね」  そこで急に思いついたように、 「それはそうと、君は美樹子が歌舞伎座から姿をくらました前後の事情について調査してみたかね」 「あっと、……それはつい失念しましたが……」 「金田一先生は調査なすったんだね。それによると歌舞伎座の受付へおれの名前をかたって美樹子を迎えにきた人物というのが、日月堂へあの挨拶状を注文にきた男と、そっくりおなじ風体をしていたというんだね。美樹子はその男の運転する自動車で、どこかへ連れ去られたらしいんだ。だから金田一先生のいうのに……」 「はあ、金田一先生のいうのに……?」 「この事件の犯人はたくみに雨を利用してるんじゃないか。雨の日ならレーン・コートにフードをかぶっていても、ひとに怪しまれることが少ないだろうからって……」 「なるほど。それであなたはさっきから、雨のことを気にしていらっしゃるんですね」 「いや、そればかりじゃないんだ」 「そればかりじゃないとおっしゃると……?」  欣吾はいおうかいうまいかと、しばらく|躊躇《ちゅうちょ》しているようだったが、急に思い出したように、 「それはそうと、君は君代と|昵《じっ》|懇《こん》なのかね」 「いいえ、ぼくの昵懇なのはカステロのマダムだけで、ほかのひとたちはこないだ、経堂であったのがはじめてですよ、噂はきいてましたがね」 「しかし、それにもかかわらず、君のところへ君代から招待状がいったのかね」 「はあ、きょうの午後の便で受け取ったんです。そうそう、ここに持ってますけれど……」  出がけに受け取って、ポケットに突っこんできた封筒を出してみせると、欣吾の目がきゅうに大きくひろがった。かれはむしりとるようにその封筒を手にとると、なかから鳥の子の紙に刷られた招待状をひっぱりだして、ひとめそれに目を落とすと、いきなり椅子から立ちあがった。  そして、部屋のすみにある卓上電話のそばまでいくと、いそがしく指でダイヤルをまわしていたが、あいてが出ると、かみつきそうな声で、 「ああ、もしもし、緑ケ丘荘ですね。こちらさっきも電話した風間ですがね。金田一耕助先生は……? え? まだおかえりにならない? あれからまだどこからも連絡は……? それもない? ああ、そう、それじゃ先生がおかえりになるなり、先生のいどころがわかるなりしたら、至急、風間のほうへお電話くださるようにって。……まちがいなく、きっとつたえてくださいよ」  受話器をおいた欣吾の額に、脂汗が光っている。      二 「風間さん、どうしたんですか。なにか心配になるような事態でも?」  安楽椅子から腰をうかして、風間の電話をきいていた水上三太は、両手で椅子の腕木を握りしめていた。  欣吾は額の脂汗をぬぐおうともせず、立ったままギラギラかがやく目で、三太の瞳を見すえていたが、 「そうそう、君にはなんでも打ち明ける約束だったね」 「ええ、そう、私立探偵に打ち明けるほどのことなら、なんでもぼくに話してくださると……」 「よし」  欣吾は部屋をつっきって書き物机のひきだしをさぐっていたが、やがて二通の封筒をもって、三太のほうへひきかえしてきた。 「まず、これを見たまえ」  テーブルのうえに投げだされた封筒を手にとってみて、三太はちょっと首をかしげ、いそいでなかみをひっぱりだしてみて、大きく呼吸を吸いこんだ。  それはブーケ美容院の丸の内進出の挨拶状兼招待状である。そして文章も活字のくばりかたも、すっかりおなじなのだが、それでいて活字の種類や刷られた用紙は、きょう三太が受け取ったものとはまるでちがっている。 「水上君」  と、風間欣吾はまだ立ったまま、一句一句をおさえつけるような調子で、 「いまぼくの出してみせたのが、君代の出したほんものの招待状なんだ。こういう招待状を二種類もつくるはずはないね。しかも、こちらのほんものの招待状は、もう一週間もまえに発送されてるんだ。だから、きょう君が受け取ったというこの招待状は、だれかがほんものを手本にしてつくらせた贋物だとしか思えないね」 「それじゃレーン・コートの男がまた……?」  欣吾は、強くうなずいた。 「それで、あなたは、ほかでもこういう贋物をごらんになったのですか」 「いいや、いま君にみせてもらっておどろいてるんだ」 「しかし、金田一先生にさっきも電話をおかけになったというのは……?」 「これ」  と、手にしたもう一通の西洋封筒を突き出して、 「さっき女中が表で受け取ったというのだ。君がくる少しまえのことだった。しかも、おれにわたしてくれといって女中にこれをことづけた男というのが……」 「レーン・コートの男ですか」 「ああ、そう、なかを見たまえ」  バサッとテーブルのうえに投げだされた封筒を、三太はあわてて拾いあげた。そして、わななく指でなかからひっぱり出したのは、あきらかにさる七月十三日、雨男が黒亀の人形工房へもってきた、六枚の写真のうちの四枚、即ち、顔の大写しの二枚をのぞいた、あとの四枚である。 「ブーケの……マダムですね」 「ああ、そう」 「しかし、どうしてマダムのこんな写真が……?」 「水上君、おれが恐れているのはそのことなんだ。この四枚の写真をよくみたまえ。どれもとくべつポーズをつくってはいないね。君代の表情は写真をとられていることを意識していないだろう。しかもその背景になっている壁紙やカーテンの模様をみると、それはあきらかに君代のうちの寝室なんだ。といって、君代がひとりでいるとき、あるいはおれ以外の人間のまえで、いかにじぶんの寝室とはいえ、こうまで赤裸々になるとは思えないね。とすると、これらの写真は、君代がおれといっしょにいるとき、だれかがひそかに盗み撮りをしたんじゃないかと思われるんだ」 「すると、あなたはときどき愛人を……あるいは愛人たちを裸になさることがあるんですね」 「ああ」  と、欣吾はこともなげに、 「女の肉体というものはおれにとって、|玩《がん》|弄《ろう》|物《ぶつ》であると同時に鑑賞物なんだ。おれはときどき女を裸にして見て、たのしむんだ。しかし、これはべつに変態趣味じゃないだろう。強壮な男子だったらだれだってある欲望だろう。元来女の肉体というものは、あらゆる意味で男をたのしませるためにできているんだからね」  三太はふっと早苗のことを思いだして、おもわず生唾をのみこんだ。三太はときどき早苗と唇をかさねるだけで、まだ彼女の肉体をじぶんのものにしておらず、したがって裸にしてみたこともないけれど、彼女のヌードはおそらくこれより綺麗であろう。  三太はきゅうに身のうちが|火《ほ》|照《て》ってくるのをおぼえた。しかし、それはきょうにかぎったことではなく、早苗と唇をあわせて以来、三太はいつも彼女のことを思いうかべるたびに、身うちが火照るのをかんずるのである。さっきもかれはここへくるまえ、早苗のきょうだいに会ったのち、ひそかに早苗と唇をあわせてきたのだが、……いい忘れたが、早苗と兄の宏は数日まえに退院して、この屋敷内のもと執事の住居だったという家へ引きとられているのである。 「そうすると……」  三太はふっと欣吾の視線に気がついて、あわてて雑念を脳裡からふるいおとすと、 「あなたの|閨《けい》|房《ぼう》が、だれかにのぞかれていたということになりますね」 「それなんだ。おれの恐れているというのは……」 「失礼なことをお訊ねするようですけれど、この写真、あなたごじしんがお撮りになったんじゃ……」 「いいや、おれにはそういう趣味はない。そこまでいくと変態じゃないかな」 「なるほど。それにしても、この写真をあなたにとどけてきたというのは……?」  欣吾はそれに答えないで、テーブルのうえにある、二種類の招待状のほうへ目をやった。 「あなた、マダムのところへ電話は……」 「もちろんかけた」 「マダムに、注意をしておきましたか。身辺を警戒するようにって」 「ところが、君代は留守だった。お得意さんのお嬢さんの結婚式で、式場まで着付けに出張しているそうだ」 「その式場へお電話は……?」 「いやそこまでは……」 「ブーケの電話番号は……?」 「水上君! それじゃ君はこんや君代に……?」 「ブーケの電話番号は……?」  三太は欣吾の口からブーケの電話番号をきくと、いそいでダイヤルをまわしはじめた。しばらくブーケの女社員と電話で話をしたのち、 「式場は明治記念館だそうです。秋月澄子さんと堀尾謙吉君の結婚式……」  そういいながらも三太はてきぱき電話帳をしらべて、明治記念館を呼び出した。  しかし、そのときはもう手おくれだったのである。さんざん三太をじらせたのち、電話のむこうへ出たのは君代ではなく、君代の弟子の|上《うえ》|田《だ》|敏《とし》|子《こ》という女であった。  上田敏子の話によると、秋月澄子さんのお色直しの着付けがおわったところへ、だれかが先生のもとへ手紙をことづけてきた。先生はそれをごらんになると、あとは万事じぶんにまかせて、ひと足さきにかえられた……。 「それで、その手紙をもってきたというのは、どういうやつだ……」 「それはここの女中さんですけれど……」 「ばか、その女中に手紙をことづけたのは、どういう男かと|訊《き》いているんだ」 「だって、それはあたしにはわかりません」 「ああ、ごめん、ごめん。それでその手紙をみて出ていくときのマダムの顔色はどうだった?」 「はあ、なんだかとってもびっくりなすったごようすで、取るものも取りあえずここを出ていらっしゃいましたけれど……」 「それで、それは何時ごろのこと?」 「何時ごろって、たったいま……ものの五分とはたっておりませんけれど……」 「よし、ちょっと待ちたまえ」  と、三太は送話器の口をおさえて、そばに立っている欣吾にだいたいの事情を取りつぐと、 「ぼく、これから明治記念館へいってみます。だからあなたは電話で上田敏子君に、手紙を取りついだ女中をさがしておくこと、それから式が終わってもぼくがいくまで待っていること、それだけを命令しておいてくれませんか」 「よし、それじゃおれの自動車にのっていきたまえ」  三太をのせた自動車が、ベショベショ雨の降りしきる風間家の門から外へすべりだしたとき、 「危い!」  と、叫んだ運転手がブレーキをかけたので、三太はおもわずうしろへひっくりかえりそうになった。自動車のヘッド・ライトの光のなかを、雨にぬれそぼれてあるいていくのは和服姿の宏である。  医者が予言したとおり、宏はまだ意識が正常ではなく、そうして傘をささずにふらふら歩いていくうしろ姿の、半分解けてぶらさがっている|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》が、妙に三太のあわれを誘うた。  さっき早苗にあったとき、彼女はこれからカステロへ出るといっていたが、ああいう兄貴をひとりのこして勤めに出てもよいものかと、三太はふっと不安をかんじたが、しかし、そのとき自動車は宏を遠くあとへひきはなして、雨の巷をひた走りに走っていた。しかし、それはさっきもいったとおり、すでにあとの祭りだったのだが……。  それから一時間ほどのちのことである。  そこがどこだかわからないが、|煌《こう》|々《こう》たる電灯に照らされたベッドのうえに、女がひとり正体もなくよこたわっている。女は保坂君代である。しかも、その君代のすがたといったら、きょう欣吾のもとへとどけられた四枚の写真と同じである。しかし、彼女は死んでいるのではなく、なにか強い薬で睡らされているらしい。  ベッドのそばに男がひとり、黒いかげろうのように立っている。  雨男である。  雨男は例によって両手をポケットに突っこんだまま、まるで|舐《な》めまわすように君代の裸身のすみずみまで眺めまわしている。それはいままで風間欣吾がこのうえもなく|愛《あい》|玩《がん》し、このうえもなく鑑賞をたのしんできた、そしてまた、じじつそれに価する豊満にして妖艶な裸形である。  大きな黒眼鏡のしたで異様にかがやく雨男の瞳が、ある残忍なよろこびに熱をおびて燃えた。|舌布《タ ン グ》のうちの息使いがしだいにはげしく切迫してくる。  雨男はとうとう両手をポケットから出すと、まず黒い革手袋をぬいだ。それから長靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、さて、レーン・コートのボタンを外しはじめた。レーン・コートのボタンを外すとき、雨男の手はある渇きを思わせるように、わなわなともどかしそうにふるえていた。じぶんも裸になるつもりらしい。  七月二十四日午後九時半。ベショベショと降りしきる雨の音は、この部屋の外でも間断なくつづいている。     第十章 現代|歓《かん》|喜《ぎ》|天《てん》|像《ぞう》      一  最新式の近代設備を誇るというブーケ・ダムール美容院が、丸の内進出を記念して、各界名士を招待のうえ、さかんな披露をおこなおうというカクテル・パーティーは、七月二十五日午後六時から、美の殿堂と保坂君代がみずから命名したところのブーケ・ダムール会館の三階ホールでひらかれることになっていた。  ブーケ・ダムール会館というのは、こんどあたらしく日比谷公園わきに新築された三階建てで、もと映画館だったのが経営難におちいっているところを、風間欣吾が愛人のひとり保坂君代に買ってあてがったものである。  野心家の君代はここを跳躍台として、将来東京都内はいうにおよばず、全国各地にブーケ美容院のチェーンをもちたいという野心をいだいていると同時に、いくいくはここも七階建てくらいのビルにして、女を美しくみせんがためのあらゆる操作を包含したいという遠大な計画をたてている。  風間欣吾にはこういう女がお気に召すのだ。机上の空論や、企画性のない夢はまっぴらごめんだが、計画性をもち、しかも、着々としてそれを実行にうつしうる識見と才腕をもっている女にかれは惚れるのである。  風間欣吾に財布の紐をとかせることはむずかしい。かれは精力絶倫だが、けっして女にあまい旦那ではない。かれを納得させ財布の紐をゆるめさせるには、綿密な計画と企画性が必要なのである。しかし、かれがひとたび納得し、十分投資を回収しうるばかりか、おつりがきそうだという見極めがついたとき、風間欣吾はふとっ腹なお大尽であった。そして、女——ことに野心をもった女というものは、ただ女にあまい旦那より、こういう抜け目はないが、いざとなったとき頼みになる男に惚れるのである。  風間欣吾と他の愛人たちとの関係もおおむねこれとおなじであった。かれらは色と欲という現世的なつよい|絆《きずな》でむすばれているので、欣吾がほかにもおおぜい愛人をもっていることをしりながら、女たちはべつに反抗しようともしなかった。  さて、ブーケ・ダムール会館開店披露宴の夜は、またあいにくの雨だった。  しかし、その夜はじめて点じられた会館正面のネオンの装飾灯が、ついては消え、消えてはつき、しっとりと雨にぬれた舗道のうえに、五色のまたたきを落としているところは、またひとしおのながめであった。装飾灯にはきらびやかな花束がえがかれている。  さて、六時半ごろともなればブーケ・ダムール会館のまえへ、ぞくぞくと自動車がよこづけになった。そして、その自動車から吐き出される客は、男と女が半々くらいのパーセンテージだった。  ほんとうをいうと、ブーケ・ダムール会館の開業は、八月一日からなのである。だからこんやのパーティーはただ宣伝が目的なのだから、招待された客種も、将来おとくいさんになりそうな女性というよりも、保坂君代の存在に|箔《はく》と権威をそえてくれそうな、各界の名士がえらばれたわけで、いかにも野心家の君代がやりそうなことである。  これらの客たちは寄贈の花輪や花束でうずまった、一階から二階のいきとどいた美容設備を見学させられたのち、三階のホールへ案内される。各階の連絡はぜんぶエスカレーター式になっており、保坂君代は将来この三階ホールを、中流サラリーマン階級の結婚式場に使用するつもりなのである。  七時ごろにはこのホールは三百人あまりの客を収容して、|立《りっ》|錐《すい》の余地もないといってよいほどの盛況だった。  カクテル・パーティーだからあらたまった席があるわけではなく、各自てんでかってな立食である。ホールの一隅にはかんたんな舞台が、しつらえてあって、そこでジャズだの歌謡曲だの余興のプログラムが進行しているが、そのほうをむいている客はほとんどなく、みんなそれぞれそこで落ち合った知り合い同士が立ち話に笑い興じている。  七時半にはその舞台から、保坂君代が一場の挨拶をすることになっているのだが、その君代のすがたがいまだにみえないのが、さっきからこの会館の関係者一同を、重っくるしい雰囲気にくるんでいた。 「それじゃ、けさがたマダムから電話がかかってきたというんだね」  水上三太は詰問するような調子である。 「いえ、あの、マダムご自身からじゃございません。マダムの代理と称する男のひとからでございました」  と、唇まで蒼ざめているのは、昨夜君代の助手として、明治記念館へ出向いていった上田敏子である。 「それで、その男がマダムはきっと、今夜七時半までにはここにやってくるといったんだね」 「はあ、ゆうべはいろいろ準備の都合でかえれなかったが、べつに心配なことはない。今夜はきっと七時半ごろまでには、会場のほうへ出向いていくから……と、そういうマダムの伝言を電話でいってきたんです」 「それ、何時ごろのこと?」 「けさの十時ごろのことでございました」 「どこへかかってきたの? 自宅のほう? それとも渋谷のお店のほう?」 「はあ、もちろん渋谷のお店のほうでございます」 「そのとき君はマダムがどこにいるのか聞いてみなかった?」 「それはもちろん聞いてみました。しかし、それはいまのところ言えないというんですの、いずれわかるだろうけれどねと、なんだか妙な笑いかたをしていたようです。ああ、そうそうそれからもうひとつ妙なことをいってましたわ」 「妙なことって?」 「マダムは思いきってドラマチックな登場を計画しているんだ。できるだけ劇的な現われかたで、世間のどぎもを抜こうという寸法なんだ。なにしろ、あのとおり芝居気のつよい女だからね、と、そういってまたくすくすと笑うんです。なんだかあたしゾーッとしてしまって……」  そこはブーケ・ダムール会館の一階、窓の外に受付をみる事務室なのだが、水上三太と上田敏子のほかに、風間欣吾がアーム・チェアに巨躯をうずめて、なにかしら、ものに憑かれたような目を血走らせている。 「風間さん、あなたけさ上田君からその報告を受け取られたんですね?」 「ああ、電話でね」 「あなたはそれについて、どうお考えになっていらっしゃるんです」 「どうにも考えようがないよ、水上君。この事件に関するかぎり、おれの|頭脳《あ た ま》はばかになってしまっているんだ。おれの頭脳はすこしも回転してくれないんだ」 「しかし、ドラマチックな登場、劇的な出現というのは、いったいなにを意味しているんでしょう」 「それも、おれにはわからない」 「しかし、電話をかけてきた男を誰だと思いますか」 「おおかたゆうべ君が明治記念館でたしかめてきた、レーン・コートにフードの男だろうよ」  昨夜、水上三太が明治記念館へかけつけてしりえたことは、保坂君代に手紙をもってきたのが、レーン・コートにふかぶかとフードをかぶって、大きな黒眼鏡をかけた男であったということと、それからもうひとつ、保坂君代がその男の運転する自動車にのって、いずこともなく立ち去ったということ。——以上の事実だけだった。  しかし、以上の事実だけで十分なのだ。ただそれだけで風間欣吾を不安と恐怖のどん底に|叩《たた》きこむ材料は十分そろっている。なぜならば、それっきり保坂君代の消息がブッツリと切れてしまっているのだから。 「いったい、先生がどうかなすったのでしょうか」  上田敏子はまだふかい事情はしっていない。ただ昨夜以来のこのふたりの異常な興奮と、この大事なときにマダムの消息がはっきりしないということを照らしあわせて、彼女はただわけもなく|怯《おび》えているのである。  しかし、水上三太はそれに答えず、 「風間さんはこのことを金……」  と、いいかけたが、上田敏子に気がついて、 「あのひとに報告しましたか」 「もちろん、電話で報告しておいた。君にも二度電話をかけたのだが……」  と、そこまでいってから風間の視線が、急に強い光をおびて、ある一点に凝結してしまった。  水上三太もぎょっとして、風間の視線を追って振り返ったが、おもわずかれも、両の|拳《こぶし》を吹き出す汗とともに握りしめた。  いま受付に立って出席者芳名録に記帳をしているのは、望月種子とその情人、猿丸猿太夫こと黒田亀吉ではないか。      二  望月種子はこの暑いのに、あいかわらず西洋の尼さんの着るような真っ黒なドレスを着て胸にブローチをぶらさげている。  いつか水上三太はこのブローチのおかげで助かったことを思いだしていた。  種子が胸にぶらさげているブローチは、夜光性になっている。いつか望月蝋人形館でこの変質者的な悪婆の射撃の対象とされたきわどい瞬間に、だれかが……ゆうべそれが金田一耕助であったことを水上三太はしったのだが……壁のスイッチをひねって電気を消してくれた。そのとき、種子の胸に光る夜光性のブローチが、水上三太にひとつのよい目標をあたえ、おかげでかれは真っ暗がりの蝋人形館のホールから、あやうくのがれ出ることができたのである。  種子の背後にくっついているゴリラは、きょうはしかつめらしくタキシードを着て、額にぐっしょり汗をかいている。このブーケ・ダムール館は冷房装置がいきとどいているのだが、外からやってきたばかりのゴリラは、まだ汗がひかないのだろう。タキシードは借り物とみえて、|身《み》|丈《たけ》があっていないのが、滑稽というよりいっそうかれの容姿をグロテスクなものにしている。あの晩、蝋人形館のホールから玄関の板の間へとびだした三太は、暗がりのなかで、このゴリラに抱きつかれたのである。真っ暗がりのなかだったから、たがいにすがたは見えなかったが、抱きついてきた肌の毛むくじゃらの感触が、たしかにゴリラのようであった。  ゴリラは素肌のうえにガウンのようなものをはおっていたが紐をしめていなかったので、まえはあけっぴろげであった。おそらく裸でねていたところを、ピストルの音におどろいて、あわててガウンをひっかけたものの、紐をむすぶ余裕がなかったのであろう。  三太は前面からゴリラの強い腕に抱きすくめられ、四苦八苦、手足をバタつかせているうちに、右手がぐんにゃりしたものにふれた。これさいわいと強くそれを握りしめたら、ゴリラが仰向けにひっくりかえったので、三太はあやうく虎口を脱したのである。  それにしてもその直前まで、ゴリラは歓喜の限界をきわめようとして、ベッドをきしらせ、野獣のように咆哮をあげていたのだ。いったい、あのときゴリラはだれをあいてにしていたのかと三太はいまもってふしぎでならないのである。  望月種子は記帳をおわると、ギロリとあたりを|睥《へい》|睨《げい》したのちゴリラをあとにしたがえて、ゆうゆうと一階の会場のなかへはいっていった。ゴリラはさすがに場ちがいを意識しているのか、あたりにいるひとびとの視線を気にしながら、ちょこちょこと種子のあとからついていった。さいわいふたりとも、風間や三太に気がつかなかったようである。  ふたりの姿が会場のなかへ消えていくのを見送って、三太がふりかえってみると、風間の額には泡のように汗がうかんでいる。さすが戦後派のこの怪物も弊履のごとく捨て去ったこの先妻には、よほど恐れをなしているらしい。  三太はなにかいいかけた言葉をそのまま|嚥《の》みくだすと、部屋を出て受付へまわった。  芳名録を調べてみると、種子はちゃんと本名をしるしているが、ゴリラは猿丸猿太夫というしかつめらしい名前をつかっている。  思うにゴリラはふたつの名前とふたつの役回りをもっているのだろう。あの蝋人形館に蝋人形を提供するとき、かれは名人黒亀だが、トランプ占いの|巫《み》|女《こ》としての望月種子に|扈従《こじゅう》するとき、かれは猿丸猿太夫と名乗るのであろう。 「三ちゃん、三ちゃん」  と、声をかけられて気がつくと、受付をつとめているのはバア・カステロの女たちである。 「なんだ、お京に夏子、由紀子もいるのか。こんやカステロは……?」 「お休みよ。みんなこちらのお手伝いを命じられたの」 「いずれはうちのマダムの番ですからね、ほっほっほ」 「それで、早苗ちゃんは……?」 「早苗ちゃんはお迎え」 「お迎えってだれを……?」 「東洋劇場へいったのよう。湯浅朱実さんをお迎えに……」  三太はぎょっとして三人の女の顔を見なおした。 「湯浅朱実がくるのかい、ここへ……?」 「あら、いやな三ちゃん、朱実さんの名前をきくと顔色がかわったわよ」 「よしよし、早苗ちゃんにいいつけてあげるから」 「いや、冗談はよして、湯浅朱実がくるとしても、なぜあのひとだけお迎えを出すんだい」 「あら、三ちゃん、しらなかったの?」 「しらなかったって、なにを……?」 「朱実さん、こんやここで歌うんじゃありませんか。東洋劇場の舞台のあいまを抜けだして……」 「あのひとはいま人気絶頂の大スターでしょう。だからさっき朱実さんのほうから電話がかかってきたの。自動車をもって迎えにきてほしいって。そいで早苗ちゃんが|急遽《きゅうきょ》お迎えに参上したってえわけよ」  三太はいま望月種子がおいていった招待状をとりあげたが、それは三太が受け取ったのとおなじ種類の招待状で、したがって贋物なのである。宛名も本物の招待状が毛筆でかいてあるのに、このほうは邦文タイプでうってある。 「だけど、お京、ここに刷ってあるこんやの余興の出演者の連名には、湯浅朱実の名は出ていないじゃないか」 「だから、きゅうに話がきまったのよ、きっと」 「ここのマダムとしてはこんやの会に、錦上さらに花をそえるつもりでしょ」  水上三太はそこに積まれた招待状の束をしらべていたが、そのうちにもう二枚贋の招待状を発見した。その二通の宛名は金田一耕助と有島忠弘となっていて、どちらも邦文タイプで打ってある。 「お京、ちょっとこの三枚の招待状をかりていくぜ」 「あら、三ちゃん、その招待状がどうかして?」  お京が呼びとめるのを耳にもいれず、もとの事務室へかえってくると、上田敏子のすがたがみえず、風間欣吾が両手をうしろに組んで|檻《おり》のなかの猛獣のように、部屋のなかを歩きまわっていた。 「風間さん、これ」  水上三太が望月種子の招待状を出してみせると、風間はぴくりと眉をつりあげただけで、べつに口はきかなかった。かれも種子のすがたをみた瞬間、おおかたこうだろうと察していたのにちがいない。 「風間さん、金田一耕助氏もきているんですね」 「ああ、それはおれもしっていた」 「金田一耕助って、どんな|風《ふう》|釆《さい》のひとですか」 「なあにすぐにわかるよ。いつも和服に袴だからね。中肉中背というよりちょっと小柄で、いつも雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をしているよ」 「こんや、ここでお会いになりましたか」 「いや、まだ。ひとまえではしらん顔していてほしいっていってたからね。たぶん三階のどこかにいるんだろう」 「そうすると、ぼくも好敵手にして恩人なる人物に、こんやここで対面できるわけですね」 「好敵手……?」  風間の順ににやりと微笑がうかびかけたが、次の瞬間、 「風間さん、このひともきているようですよ」  と、目のまえへつきつけられた招待状の宛名をみると、風間の微笑はそのままつめたく顔面に|凍《こお》りついてしまった。 「いったい、そいつは今夜ここでなにをやらかそうとしているんだ!」 「さあ、なにか|企《たくら》みがあるんでしょうねえ。湯浅朱実さんもくるそうですから」 「朱実が……?」 「ええ、そう、ただし客としてではなく、ここへ歌いにくるんだそうです。いま早苗ちゃんが迎えにいっているそうですよ」  風間欣吾は黙って三太の顔を見すえていたが、ふと疑わしそうな色が瞳をかすめたかと思うと、 「水上君、まさか君がこのいたずらの演出者なんじゃあるまいね」  と、もちまえのひややかさにかえっていた。 「ご冗談でしょう」  と、三太も鼻のさきでせせらわらって、 「あべこべにぼくはときどき、あなたこそこれらの悪戯の総監督じゃないかと疑うことがありますよ」 「なにを!」  睨みあって立ったふたりのあいだに、ちょっと切迫した空気が流れたが、その緊迫を破ったのはドアの外から聞こえてきた若い女の声である。 「パパ、こんなところで、なにをしていらっしゃるのよう」 「三階へいらっしゃらないとお客さまに失礼よう」  はなやかな声とともにはいってきたのは、目もまばゆきばかりに粧うた風間欣吾のふたりの愛人、カステロの城妙子と、からたちの宮武益枝である。      三  巷には、あいかわらずベショベショと陰気な雨が降っている。この雨をついて走る自動車のなかで、早苗がはしゃいだ声をあげていた。 「あたし、こんや先生がいらっしゃるとは、ゆめにも存じませんでしたのよ」 「あら、いやだ。もうその先生はおよしになって、それより朱実ちゃんと呼んでちょうだい。あたしそう呼ばれつけているんですから」 「でも、そんな……」  と、早苗は耳たぶをうすく染めて体をかたくしている。年齢からいえばそんなにちがわず、ひょっとするとむこうのほうがわかいかもしれない相手なのだが、いまを時めく人気スターなのだと思えば、いきおい|気《き》|後《おく》れをかんじずにはいられないのだろうか。  そのういういしい横顔を見つめる朱実の瞳には、ちょっと異様なかぎろいがある。舞台化粧のままの朱実の顔はあでやかでコケッティッシュではあるけれど、こうしてちかぢかとみると、いくらかグロテスクでもある。 「あなた、お名前、なんとおっしゃるの?」  その音調には人気者にありがちな、どこかつめたい尊大さがある。 「はあ、石川早苗ともうしますの」  早苗はうつむいたままにっと笑った。この人気スターと自動車をともにする光栄に浴した早苗は、それだけ精神が昂揚しているのか、いつものような憂わしげな色は消えている。 「あなた、やはりブーケに働いていらっしゃるの」 「いいえ、あたしはカステロというバアにいるんですの」 「カステロって……?」 「西銀座のバアですの」 「いいえ、それはしってますの。いったことはありませんけれど名前はきいてますのよ。有名なお店ですものね。でも、カステロにいらっしゃるあなたがどうして今夜、あたしをお迎えにきてくださいましたの」  朱実はなにもかもしっていながら、この女をいじめてやろうと思っている。と、いうことは彼女は彼女で早苗にたいして、かすかな嫉妬をかんじているのだ。じぶんとさして年齢もちがわず、それでいてじぶんよりはるかに健康そうな肌の色をしているこのような娘を、欣吾のように色好みで精力絶倫な男のそばへおいといて、大丈夫なのだろうかという懸念が、ふいと心をくもらせたからである。 「はあ、あの、それが……うちのマダムとブーケの先生がとても仲好しなものですから、きょうはみんなでお手伝いにあがっておりますの」 「あら、そう。それじゃ今夜はカステロのマダムもきていらっしゃるのね」 「はあ、……でも、それがなにか……」 「いいえ、べつに……銀座でも評判のマダムですから、お目にかかれるとうれしいわねえ」 「湯浅さんはブーケの先生はご存じですの」 「はあ、ちょくちょく会やなんかでお目にかかりますの。とってもお顔のひろい、才気|煥《かん》|発《ぱつ》のかた、当今流行の才女でいらっしゃいますわね」 「うちのマダムがやっぱりそうですの。でも、湯浅さんのお名がプログラムに出ていなかったのはどういうわけでしょうねえ。あなたのような人気スターが……」 「いいえ、それはきょうになって電話で申し込みがあったからなんですの。あたしとしても、なにかお祝いをしなければと思っていたやさきですから、よろこんでお受けしましたのよ。ああ、自動車がついたようですわねえ」  そこは会館の裏口へはいるせまい路地の入り口である。雨はあいかわらずベショベショと降りつづいている。ふたりが洋傘をひろげて駆けこもうとすると、路地のなかから出てきた男が、 「ああ、ちょっと……」  と、すれちがいざま呼びとめた。  ふたりが立ちどまって洋傘をかしげてみると、雨のなかに立っているのは長い防水レーン・コートに長靴をはいた男である。フードをすっぽり頭からかぶり、|舌布《タ ン グ》で鼻の下をおおい、おまけに大きな黒眼鏡をかけている。 「なにかご用……?」  早苗がいぶかしそうに訊ねると、 「ああ、君たちこの会館へいくのかね」  低い、ボソボソとした、聞きとりにくい声である。 「はあ」 「早苗ちゃん、それじゃあたしひと足さきに……」  朱実は挨拶をしていきかけたが、つぎの瞬間、男の言葉が耳にはいるとおもわずそこに立ちどまった。 「君、風間欣吾というひとをしっているかね」 「はあ、それは存じておりますけれど……」 「それじゃ風間氏にこの鍵をわたしてくれないか。なにに使う鍵なのか|南貞子《みなみさだこ》夫人がしっているはずだから」  南貞子というのは保坂君代の伯母で、君代の後見人みたいな地位にある女である。  早苗が気味悪そうに眉をひそめて男の手をみると、男は黒い革の手袋をはめており、その指先にまるい金属製の|環《わ》をぶらさげている。その環には四つの鍵がぶらさがっていた。 「なにも心配することはないんだよ。さあ」  と、むりやりに早苗の手に鍵の環を握らせると、 「それじゃ頼んだよ」 「あの、ちょっと、お名前は……?」 「名前か?……名前は雨男……うっふふ」  雨男は全身からポタポタと滴をたらしながら、路地を出て洋傘のひしめく大通りの雑踏のなかに消えていった。 「変なひとねえ、あれ、なによ」 「さあ」 「雨男っていってたわねえ。ほっほっほ、雨が降ったら男たちみんな雨男じゃないの。それともあのひとが外出するときまって雨が降るっていうのかしら」 「さあ。……どちらにしても薄気味の悪いひとでしたわねえ。さあ、もうまいりましょう」 「ええ」  と、朱実も歩きだしながら、 「あのひと、いま風間欣吾氏っていってたわねえ。風間欣吾氏は保坂先生のかれ氏じゃなくって?」 「はあ、あの、そんな噂もございますわねえ。あたしよく存じあげないんですけれど……」  ブーケ・ダムール会館の裏の入り口には、そのとき人影はひとりもみえなかった。朱実はそこまでくるとうしろをふりかえって、 「早苗さん、早苗さんと呼ばしてちょうだい。あたしたちお友達になりましょうね」 「はあ、あの、うれしゅうございますわ」 「それにしても、早苗さん、さっきのあのひと、雨男って名乗った男ね、あのひと、ここから出てきたんじゃない」 「はあ、あたしもそんな気がしたんですけれど……」 「変ねえ。そんならじぶんでその鍵を風間氏にわたせばよかりそうなものを……」  ふたりの女はそこでしいんと顔を見合わせていたが、朱実がきゅうに肩をゆすって、 「まあ、いいや、そんなこと。……それよりあたしを係りのひとに紹介してちょうだい」 「はあ、それでは保坂先生の伯母さま、南さんにご紹介申し上げましょう。南さん、湯浅さんがきてくださるとお聞きになってとても感激していらっしゃいますのよ」  ふたりは仲よく肩をならべて、ひとけのない、ブーケ・ダムール会館の裏口からなかへはいっていった。      四  朱実を保坂君代の伯母、南貞子に紹介しておいて、早苗はエスカレーターで三階ホールへのぼっていった。  時刻は七時半になんなんとして、入れかわり立ちかわりのこんやのパーティーでも、もっとも客のたてこむ時刻である。三百人をこえる来客でぎっちりうまったホールのなかは、冷房装置もなんのその、ひといきれでむんむんとするよう。たばこの煙とアルコールの気が充満していてちょっと窒息しそうなかんじである。  そういう喧騒のなかを早苗は泳ぎまわるように風間欣吾をさがしていると、 「おっと、早苗ちゃんじゃないか。だれをさがしているんだい?」  と、声をかけられてふりかえると、隅っこのテーブルに水上三太がただひとり、チーズとクラッカーを|肴《さかな》にして、ウイスキーの水割りをなめていた。 「あら、水上さん」  と、早苗はなつかしそうに頬を染めて、 「あなたもいらしてたの?」 「ああ、招待状をもらったからね。まあ、そこへお掛けよ。なにをそんなにそわそわしてるんだね」  だが、そういう三太もなにかに心をうばわれているようである。早苗がその視線をたどっていくと、むこうの隅のテーブルで、男がひとり所在なさそうにたばこを吹かしている。  早苗にはその男の年齢の見当がとんとつかない。三十代ともみえたし四十代かとも思われた。あるいはもっと若いのかもしれぬ。くたびれた白がすりに夏袴をはき、白足袋に草履をひっかけている。頭髪が雀の巣のようにもじゃもじゃしていて、中肉中背というより小柄のほう。どこにどうといってとりえのない人物である。 「水上さん、あのひとだあれ?」 「金田一耕助というひとだよ」 「金田一耕助って、なにをするひと?」 「なあに、私立探偵なんだ」 「私立探偵……?」  早苗はまあというふうに目を見張って、もういちどそのほうをふりかえったが、その私立探偵さんは眠そうな目を退屈そうにショボつかせている。 「まあ、でも、私立探偵がどうしてこんなところへ……?」 「なあに、パパさんが頼んだんだよ。ほら、あの一件でね。あれでなかなか凄腕なんだ。早苗ちゃんなんかもよくおぼえておおき。いつまたお世話にならないとも限らないからね」 「いや! あたし私立探偵の世話になんかならないわ」 「だって、兄さんのことがあるじゃないか」 「そうね」 「パパさんは絶対信頼らしいよ。あのひとに……」 「ああ、そうそう、パパさんといえば、どこにいらっしゃるかしらない? あたしさっきからさがしてるんですけれど……」 「パパさんならカステロのマダムや、からたちのマダムといっしょだろう」 「ああ、そう、じゃこの三階にいらっしゃることはいらっしゃるのね」 「そりゃどこかにいるだろう?」 「しらない、水上さんたら!」 「え?」 「だって、水上さんたらあんなひとにばっかり気をとられて」 「あっはっは、ごめん、ごめん、それじゃもう、あっちはみないからそこへおかけよ」 「だって、あたしパパさんをさがしてるのよ」 「パパさんになにか用かい」 「ええ、ちょっとことづかってきたものがあるもんですから」 「ああ、そう、じゃ、用事がすんだらここへおいでよ。いっしょにビールでものもう」 「だめよ、あたしはこんやお手伝いですもの」 「ああ、そうか。じゃこの会がすんだらどこかへいってお茶でものもう。ぼく、待っててあげる、いいだろう」 「いいわ、きっとね」 「ああ、きっとだとも」 「じゃ、のちほど」  ひとごみをかきわけていく早苗のうしろすがたを見送って、三太はまた、金田一耕助のほうへ視線をもどした。  それから三分ほどしてやっと早苗は、にぎやかな男女の一群にとりかこまれている城妙子と宮武益枝をみつけたが、そこにも風間欣吾のすがたは見当たらなかった。 「あら、マダム、パ……」  と、いいかけて、早苗はあわてて、 「風間産業の社長さん、ご存じじゃございません?」  と、いいなおした。 「あのひとに、なにかご用?」  と、妙子の声はひややかである。 「はあ、あのかたにちょっとことづかりものをしているもんですから」 「ことづかりものって、なあに?」 「いえ、ちょっとここでは……いまむこうで水上さんに聞いたら、マダムとごいっしょだということでしたけれど……」 「あのひと、どうかしてるのよ、今夜……」  と、そばから口を出したのは益枝である。 「さっき三人いっしょにここへあがってきたんだけど、すぐまたどこかへ消えてしまったわ。なんだかひどくそわそわして」 「ああ、|噂《うわさ》をすれば影とやら、いまエスカレーターであがっていらっしたの風間さんじゃございません」  そばの婦人に注意されてふりかえると、風間はひとりではなく、鼻眼鏡をかけた紳士といっしょだった。 「あら、それじゃ、ちょっと失礼……」  早苗が小走りに駆けよると、風間はエスカレーターをあがったところで、鼻眼鏡をかけた紳士と小声でなにか話しこんでいる。風間はあきらかに逃げたいらしいが、鼻眼鏡の紳士がはなさないのである。それは貴公子然とした美貌でいながら、どこか|荒《すさ》んで、濁ったところをかんじさせる男である。  これが美樹子の前夫で、現在では湯浅朱実の戸籍上の良人であるところの有島忠弘なのである。 「あの、社長さま、お話ちゅうを失礼ですが、ちょっと……」 「ああ、石川君、なにか用?」 「はあ、ちょっとお耳に入れたいことがございまして……」 「ああ、そう、忠弘君、この|娘《こ》がなにか用があるそうですから、きょうはこれで失礼。いまのお話はいずれまたゆっくりうかがいましょう。石川君。こっちへきたまえ」  あいての返事を待たず、すぐそばにある事務室のドアをひらいてはいっていくふたりのうしろすがたを見送って、忠弘はにやりとほくそ笑みをうかべると、そのままぶらぶらと舞台の前方へとあるいていった。  と、そのうしろからエスカレーターであがってきたのは、望月種子とゴリラの猿丸猿太夫である。ふたりはオフィスのドアに目をやって、ちょっと目くばせをしているようだったが、そのとき部屋のなかから三人の女が出てきたので、ふたりはそのままさりげなく、おびただしい客のなかにまぎれこんだ。 「早苗、さあ、これで人払いをしたが、おれに話ってどういうこと?」 「はあ、それがちょっと妙なことで……」  と、早苗がハンドバッグのなかから例の鍵束を取りだしているとき、ホールのほうから嵐のような拍手がきこえてきたのは、司会者が湯浅朱実の特別出演を発表したからだろう。  風間は、早苗の話をきいているうちに、顔から血の気がひいていって食いいるように四つの鍵を見つめていたが、 「早苗、それでそのレーン・コートの男の言葉では、この鍵の用途は南夫人がしっているというんだね」 「はあ」  欣吾の声が妙にしゃがれているので、早苗はびっくりしたような目で、あいての顔を見まもっていた。 「早苗、君は今夜このホールで白がすりに袴をはいて、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をした人物を見かけなかったかね」 「はあ、あの金田一耕助さまでございますか」 「早苗、君はどうしてそれをしっているんだ」 「いいえ、水上さんに教えられたんですけれど……」 「ああ、そう。それじゃ、大急ぎでその先生をさがしだして、すぐこちらへくるようにいってきてくれないか」 「はあ……」  早苗が部屋を出るのといれちがいに、妙子と益枝がはいってきた。 「ああ、妙子、益枝、ちょうどよいところへきた。おまえたち、大急ぎで南の奥さんをここへ呼んできてくれないか」  欣吾がふたりに命じているのをあとにきいて、早苗がさっきのところへきてみると、金田一耕助のすがたはみえなかった。 「早苗ちゃん、こんどはだれを探しているんだい?」 「ああ、水上さん、金田一先生は……?」 「金田一先生? 金田一先生になにか用?」 「はあ、パパさんから頼まれて………パパさん、なんだかとっても興奮していらっしゃるわ」 「ああ、そう、じゃぼくもいっしょに探してあげよう」  舞台ではちょうどそのとき、湯浅朱実の独唱がはじまっており、さすがに場内は水をうったようにしいんとしずまりかえっている。その聴衆のさまたげとならぬようにひとを探すのは、ちょっと骨だったが、それでもやっと探しあてた金田一耕助は、舞台のかぶりつきに椅子をもってきて、朱実の歌にききとれていた。故意だったのか、それとも偶然そうなったのか、金田一耕助の左右には有島忠弘と望月種子、それからゴリラの猿丸猿太夫がひかえている。  早苗が小声で金田一耕助の耳にささやくと、 「ああ、そう、それじゃこの一曲がおわってから……」  やがて朱実の歌う一曲がおわって、嵐のような拍手が起こったとき、金田一耕助は左右のひとに黙礼をして椅子からたちあがった。  金田一耕助のあとについて水上三太と早苗がもとの事務室へかえってくると、すでに南貞子もきていて、妙子も益枝も怯えきったように目をとがらせている。 「金田一先生、妙なことがあります」  と、欣吾はちらと三太のほうへ目を走らせたのち、用心ぶかくドアをしめて、 「先生はいま、ここの舞台に大きな箱のようなものがおいてあるのにお気づきじゃありませんか」 「はあ、さっきからなんだろうと不思議に思ってたんですが、あれがなにか……」 「いや、じつはここにいるのは南貞子さんといって君代の|伯《お》|母《ば》なんですが、けさからここでいろいろ準備をしていたところが、君代からだといってあの箱をとどけてきたんだそうです。そして、その使いのものの口上というのが、この箱を舞台の中央にかざっておいてほしい。鍵は七時半ごろまでにとどけるからと、そういうんだそうです。そこで南夫人がいわれたとおりにしておいたところが、さっき早苗が……」  と、欣吾の話をきいているうちに、まずいちばんに興奮してきたのは三太である。 「風間さん、それじゃありませんか。ドラマチックな登場というのは……? ひょっとするとその箱のなかに……」  と、いいかけたものの、それがあまり恐ろしいことなので、さすがに三太も言葉をのんだ。この場合、南夫人をのぞいては、みんな美樹子と宏の一件をしっているので、だれもすすんでそれを否定するものはなく、押しだまった空気のなかに、きびしい肯定がおののいていた。 「南さんの奥さん、あの舞台には幕がおりないんですか」  金田一耕助の質問にたいして、 「はあ、それがあいにく……」  南夫人はまだ事態がよくのみこめないのだが、それでも一同の怯えが感染したのか、おろおろしながら、 「あの、君代がなにか……?」 「金田一先生、箱をひらいてみましょう。こうなったらわたしの体面などをいっているばあいではない。水上君」  と、欣吾は燃えるような目を三太にむけて、 「もし、箱のなかが君のいうとおりだったとしたら、美樹子の記事を解禁する。大々的にスクープしたまえ」 「はっ!」  それから三分ののち一同は舞台のうえの箱のまわりに立っていた。そのまがまがしい白木の箱は縦二メートル横と高さがそれぞれ一メートルあまりあり、蓋の四辺の中央に四つの|南京錠《なんきんじょう》がとりつけてある、つまりその錠を外して蓋をとりのけると、底部を中心として四辺の板が四方にひらくようになっているのである。  欣吾の手で南京錠がはずされ、四片の板が四方へひらかれると、なかからこぼれおちたのはおびただしい花束である。そして、その花束の底からあらわれたのは、世にも浅ましい現代歓喜天像であった。男も女も一糸まとわぬ全裸で、しかもうえの男が風間欣吾そっくりの生き人形だったのに反して、その生き人形の腕に抱かれているしたの女は、まぎれもなく保坂君代の死体ではないか。     第十一章 悪魔の女狩り      一  あとから思えば保坂君代のこの殺人事件こそ、悪魔の寵児の熱狂的ともいうべき女狩りの幕が、いよいよ切って落とされたという合図ののろしみたいなものであった。  そののちぞくぞくとして哀れな犠牲者が、この悪魔の申し子みたいな人物の血祭りにあげられていったのだが、それらの殺人事件のばあい、つねに共通していえることは、犯人がふつうの常識ではかんがえることができないほど、えげつない嗜好をもっているらしいということである。  悪魔の申し子はつねに女をねらった。しかも、かれは女を殺すだけでは満足しなかった。殺すまえにかならず女を犯したのみならず、まだそれだけではかれの残忍な欲望をみたすことにはならなかったとみえて、それを公衆の面前にさらしものにするとき、かれは女の死体のうえに、このうえもない冒涜と侮辱をくわえるのである。そこにはひとの目をおおわしめるようなえげつなさがあり、この事件の犯人のもつ常識では測りしれない変質者的偏向に、ひとびとは|慄《りつ》|然《ぜん》たらざるをえないのであった。  七月二十五日午後七時半ごろ、日比谷のブーケ・ダムール会館三階ホール、招待客がぎっちりつめかけている眼前で、大きな木箱がひらかれたとき、そこからあらわれた保坂君代の死体というのがそれだった。  君代の死体はむざんにも、一糸まとわぬ全裸の曲線をまるだしにして、風間欣吾になぞらえた男の生き人形と抱きあっているのである。男の生き人形はわがもの顔に君代を抱き、唇と唇をかさねている。君代の死体は、したから生き人形の首に腕をまきつけている。  しかし、この人形と人間のあいだにえがかれている男女抱擁図の、ほんとの意味のおそろしさ、えげつなさはただそれだけにあるのではない。君代はたんに男の生き人形に抱かれているのではなく、男の生き人形に犯されているのだ。細部にいたるまで入念につくられた生き人形のその部分が、目をおおうような冒涜をしめしている。  一瞬、水をうったようなしずけさが舞台の周囲を支配した。温度がいっぺんに急降下して、骨の髄まで凍りつくかと思われる戦慄が、しいんと一同を圧倒する。 「ひーッ!」  こわれた笛のような悲鳴をあげて、くらくらとよろめいたのは早苗である。 「危ない!」  と、水上三太がうしろから抱きとめて、 「早苗ちゃん、しっかりしろ!」 「水上さん、水上さん、あたしをどっかへつれてってえ……あたしこんなところにいるのいや!」  三太の胸にしゃにむに額をこすりつけて、子供がいやいやをするように頭をよこにふっている早苗は、全身につめたい汗をぐっしょりかいて、長い|頸《うなじ》にほつれ毛が二、三本、べっとりとからみついているのが悩ましい。 「いいよ、いいよ、だけどもうすこし辛抱おし、あれをみるのがいやなら、ぼくの胸に顔を埋めてりゃいい」  三太はやさしく早苗の背中をなでてやりながら、あわててあたりを見まわした。  早苗の悲鳴で目がさめたのか、凍りついたような群像が、急に活気をとりもどした。 「あれ、君代!」  と、伯母の南夫人は恐怖にみちた金切り声を張りあげ、カステロの城妙子とからたちの宮武益枝は、いつしかしっかり手をにぎりあっている。風間欣吾は髪の毛まで|紅《あか》くなるような汚辱と憤怒に、|眦《まなじり》も裂けんばかりである。  金田一耕助は一種異様なこの見世物に、さっきからしきりにもじゃもじゃ頭をかきまわしているが、急に気がついたように南夫人をふりかえると、 「お、奥さん、な、なにかこれをかくすものは……カ、カーテンかなにか、これをかくすものは……」 「はなしてえ……その人形をはなしてえ……」 「いけません、いけませんよ、奥さん」  ものすごい剣幕で生き人形におどりかかろうとする南夫人を、金田一耕助がうしろから抱きとめると、 「これはこのままにしておかなければいけないんです。警察の連中がやってくるまで、お気の毒でもこのままにしておかなければならないんです」 「だって、だって、それじゃ君代があんまり……」 「わかってます。それはよくわかっております。だから、なにかこれをかくすものを……」 「あたし、とってさますわ」  とつぜんそばから叫んだのは、いままで三太の胸に抱かれてふるえていた早苗である。三太の胸から顔をあげた早苗の顔は、朱をそそいだように|真紅《ま っ か》である。 「ああ、そう、じゃ、おれもいこう」 「あっ、水上君、ちょっと……」  と、呼びとめたのは金田一耕助である。 「君、すまないが警視庁へ電話をかけてくれませんか。第五調べ室の|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部にこのむね連絡して、すぐくるようにいってください。警部はいま第五調べ室で待機しているはずですから」 「承知しました」  警視庁の等々力警部というのは、金田一耕助のもっともよき相棒なのである。  金田一耕助のような民間の私立探偵にとっては、どうしても警察界に有力な協力者を必要とする。等々力警部はいつも彼のよきパートナーとしての役割をはたしたし、等々力警部は等々力警部で、むずかしい事件が起こると、いつも金田一耕助の援助を要請し、その|犀《さい》|利《り》な推理と洞察力をたくみに活用しているのである。そういう意味で金田一耕助と等々力警部、ふたりはまるで共棲動物みたいなものなのだが、それにしてもその相棒の等々力警部が、いま警視庁の第五調べ室で待機しているとすると、金田一耕助も今夜ここで、なにごとかが起こるであろうと期待していたのだろうか。  それはさておき、もうそのじぶんにはホールを埋めつくしたひとたちにも、この恐ろしい事態がのみこめてきたらしい。わっとばかりにホール全体が|痙《けい》|攣《れん》し、ブーケ・ダムール三階ホールは、上を下への大混乱である。 「かくしてえ……かくしてえ……君代をかくしてえ……」  南夫人は金切り声をあげて、人間と人形の現代歓喜天像のまわりをうろうろしているが、あいにくこの舞台には幕がない。やむなく金田一耕助と風間欣吾、妙子と益枝をくわえた五人で人垣をつくったが、そのときとつぜん舞台の下から、妙なうめき声がきこえてきた。 「おれじゃねえってば……おれじゃねえんだ。お、おれのつくったのは人形なんだ。だれかがおれのしらぬまに人形と人間をすりかえやがったんだ!」  猿丸猿太夫の黒亀だった。ゴリラの黒亀はまるで病気にかかったように、口から泡をふいている。      二 「見るな、見るな! 見ちゃいけねえ。おりゃなんにもしらねえんだ。だれかがおれのしらぬまに……」 「お黙り、猿丸、お黙り!」  黒亀のこのとつぜんの発言におどろいたのは望月種子である。そばからきびしい声でたしなめたが、ゴリラの耳にはその言葉もはいらないのか、片手をあげて風間欣吾の凝視をさけながら、 「しらねえってば、しらねえんだよ。なるほど、おらあ雨男にたのまれて人形をつくったよ。だけどおれのつくったのは男も女も人形だったよ。蝋でつくった生き人形だったんだ。それをだれかがおれのしらぬまに、ほんものの人間とすりかえやがったんだ。おれのせいじゃねえ。いくらにらんだっておれのせいじゃねえってば!」  猿丸猿太夫の黒亀はせまい額にぐっしょり汗をうかべている。寸のあわぬタキシードの、蝶ネクタイが咽喉をしめつけるのか、しきりにそれをひっかいているうちに、ネクタイがとけてカラーが外れた。  それでもまだゴリラは息苦しさをおさえきれないのか、バリバリとワイシャツのボタンをひきむしると、下に着たアンダー・シャツの胸もとに、|名詮自性《みょうせんじしょう》ゴリラのようにくろぐろと密生した毛が物凄い。 「見るな! 見るな そんなに睨むな! いくら睨んだっておれじゃねえ。おれはただ雨男にたのまれて……」 「お黙り! お黙り! 猿丸! おまえはなにをいってるんです。これはおまえのしったことじゃないでしょう」  望月種子は胸のブローチを、ひきちぎらんばかりに握りしめているが、ゴリラの耳にはいらぬらしい。 「しらねえってばしらねえんだよ。おれのせいじゃねえってば……」  思うにゴリラの黒亀はゆがんだ愛欲と性的遊戯と、さらに過度の房事で、すっかり精根をすりへらし、その神経はちょっとした刺激にも混乱するほど、バランスを逸しているのであろう。  かれはいま女の人形の交歓像を目のまえにつきつけられ、そのうえに風間欣吾の凝視にあって、いっしゅんおのれを忘れてしまったのである。 「おれは……おれは……」 「お黙りってば、お黙り! おまえは、気でもちがったのですか!」  そのとき風間欣吾が舞台のうえから、 「種子さん、望月種子さん」  と、きびしい調子で声をかけた。 「えっ?」  と、ふりかえった望月種子は、そこでがっきり、風間欣吾の視線をとらえると、おもわずシャッキリ姿勢をただした。そして双方しばらく無言で、食いいるようにあいての瞳をのぞきこんでいる。  思えば相離反した夫婦の憎悪ほどすさまじいものはない。それはあいての善いところも悪いところもしりすぎているところからくるのであろう。善い思い出は未練となっていっそう憎悪をたたきつけるであろうし、不快な記憶は、そのままに|忿《ふん》|怒《ぬ》となってもえるのである。  風間欣吾がこの女……かつて妻とよんだ望月種子に、いまどのような感情をもっているのかさだかではないが、種子のほうで欣吾にたいして、いかなる憎悪と怨恨をいだいているか、それは望月蝋人形館の中二階にある、あの五つの|龕《がん》をのぞいてみれば一目瞭然というものである。  いまはからずもここで対決したふたりは、|深讐綿々《しんしゅうめんめん》のおもいを視線にこめて、しばらく言葉もなかったが、そのときまた望月種子のかたわらで、 「おらあなんにもしねえよ。おらあただ雨男にたのまれて……」  と、またしてもゴリラの黒亀が、くどくどとしゃべりはじめたので、とうとう種子の怒りが爆発した。 「お黙り、猿丸!」  と、ぴしゃりっと凄まじい音をたてて、黒亀の頬に平手打ちをくらわせると、 「おまえは、なんにもいうのではない!」 「あっはっは!」  舞台のうえから風間欣吾が咽喉のおくでかわいた笑い声をたてると、 「種子さん、いや、望月さん。あなたのお連れさんはこの事件について、なにかご存じのようですね」 「いいえ、猿丸はなにもしりません。もし猿丸がなにかしっているとしたら、だれかに頼まれてそのような人形をつくったこと、ただそれだけのことでしょう」 「いや、それだけで結構なんですよ。奥さん」  と、欣吾のそばからにこにこしながら声をかけたのは金田一耕助である。 「いったい黒田亀吉さんがだれにたのまれて、このようなえげつない人形をつくったのか、それを聞かせていただければよろしいんです。いまに警察からひとがやってきますから、どうぞそれまで黒亀さんとごいっしょにお待ちになって……」  モジャモジャ頭をペコリとひとつ、おひゃらかすようにさげる金田一耕助に、種子は疑いぶかそうな目をむけて、 「風間さん、そのひとはいったいだれです。まるで壮士芝居に出てくる三枚目みたいなその男は……?」 「あっはっは、壮士芝居の三枚目とは恐れいりましたな。けだし、いいえて妙というところですかな。こう見えてもわたしはこれで……」  と、いいかけたところへ早苗と三太が大きなカーテンをもってきたので、金田一耕助の名演説は尻切れトンボのやむなきにいたった。  早苗と三太の背後にはかえり支度をした湯浅朱実が、真っ蒼な顔をしてついていたが、その姿をみると、 「あっ、朱実!」  と、下から声をかけて、 「おまえはこんなところへ来ちゃいけない」  と、ひらりと舞台にとびあがったのは有島忠弘である。すばやく朱実を抱きすくめると、あっというまもない、朱実の唇にキスをしたが、そのとたん、水上三太と金田一耕助はおもわず風間欣吾のほうをふりかえらずにはいられなかった。  欣吾はふたたび髪の毛まで真紅になりそうな屈辱を、きっと結んだ唇とともに|噛《か》み殺している。  それにしてもいまここに欣吾の愛人たちがぜんぶ|揃《そろ》ったわけである。ひとりの死者をとりまいて三人の生ける愛人たちが……。  だが、そのことを有島忠弘はしっているのであろうか。 「おれはしらねえ、おらあなんにもしらねえだよう」  舞台の下ではまたしても酔っ払いのくだのような黒亀の愚痴のリフレインである。     第十二章 瓶と栓      一 「すると、けさ十時ごろ君代さんの代理と名乗る男から、ここへ電話がかかってきたというんですね」  そこはブーケ・ダムール会館三階ホールの一室で、ついさっきまでこんやの余興に出演する芸能人たちのために、楽屋として提供されていた部屋である。  部屋のなかにひかえているのは、警視庁から駆けつけてきた等々力警部と所轄の捜査主任坂崎警部補、ほかに刑事がふたりデスクにむかってメモをとっている、金田一耕助は隅っこの椅子に腰をおろしてしきりに貧乏ゆすりをしている。  さて、等々力警部の一行は金田一耕助からだいたいの事情をきいたのち、ひととおり検屍をおわると、とりあえずこの部屋を本部として、さっそく訊き取りを開始することになったが、まずイのいちばんに呼び出されたのが、被害者の伯母の南貞子である。 「はあ……」  と、南夫人はただもう涙にくれながら、 「その男の申しますに、これからすぐに大きな木箱をとどけるから、舞台のうえへかざっておいてほしい。マダムは今夜七時半までにはきっとそちらへいくといっているが、もし間にあわなかったら、だれかに鍵をもたしてやるから、そのときは風間さんに箱を開いてもらって、なかのものをお客さまに見せてあげてほしいと、そんなことを電話でいってまいりましたので」 「なるほど、それであの箱のついたのは……?」  と、この訊き取りに当たっているのは所轄の捜査主任坂崎警部補である。 「はあ、それから半時間ほどのちのことでしたから、十時半ごろじゃなかったでしょうか」 「運んできたのはどういう連中……?」 「いいえ、それがふつうの運送屋のようでした。小型のオート三輪につんできて、ちゃんと伝票に受取まで、とっていったんですの」 「なるほど、それであなたはべつにあの箱を、怪しいとも思わなかったんですね」 「はあ、まさかあんなこととは……」 「しかし、ゆうべ君代さんがかえらなかったということについて、あなたは心配しなかったですか」 「はあ、それはもちろん気をもみました。しかしまさかこんなこととは……あれも子供ではございませんから……」 「ところで、けさ電話をかけてきた男について、なにか心当たりは……?」 「それがいっこうに……なにしろとても電話が遠くて、なんどもなんども聞きなおしたくらいでごさいますから……いまから思えばわざと声をごまかそうとしていたのでしょうけれど、なんだかひどく不明瞭な声でございました」  その点については、君代の弟子の上田敏子の申し立てとも一致している。 「わざと声をごまかそうとしていたとおっしゃると、電話をかけてきた男は、だれかあなたのご存じの人物ということになりますね」 「あんなひどいことをするやつですからね、いずれは君代か君代のお世話になっている風間さんに怨みのあるやつにちがいございませんわね。そうすると、あたしはともかく風間さんのしっているやつではございませんでしょうか」 「あなたは、なにかそういう人物にお心当たりは……?」 「いいえ、それがいっこうに……」  坂崎警部補は、そこで等々力警部や金田一耕助と相談したのち、 「ああ、そう、それじゃいまはこれくらいで……なにかまた気がついたことがあったらしらせてください。それから恐れいりますが石川早苗という婦人に、ここへくるようにおっしゃってくださいませんか」 「はあ」  南夫人といれちがいにはいってきた早苗は、目がうわずって、血の気のない頬がさむざむとこわばっている。  それでも早苗は問われるままに、さっき妙な男から四つの鍵をことづかったいきさつを語ってきかせた。 「ほほう、するとそのレーン・コートの男、みずから雨男と名乗ったというのだね」 「はあ、それですから雨が降ったら男のひと、だれだって雨男じゃないって、湯浅さんなんかわらっていたんです」 「湯浅さん」  と、そばで聞きとがめたのは金田一耕助である。 「湯浅さんというのは湯浅朱実君のこと?」 「はあ」 「そうすると、君が雨男とか名乗る男から鍵をことづかるとき湯浅君もそばにいたの?」 「はあ、あのかたひと足さきに裏口からはいろうとなすったんですけれど、そのひとのようすが、すこしおかしいとお思いになったんでしょう。あたしどものそばに立ってようすを見ていらしたんです。ああ、そうそう」 「そうそうって、どうかしたの」 「はあ、あの男がむこうへいってから湯浅さんがおっしゃったんですけれど、そのひと、この会館の裏口から出てきたんじゃないかって?」 「その湯浅朱実という女は、まだここにいるんだろうね」  と、そばから口を出したのは等々力警部である。 「いえ、あの……湯浅さんならさきほどおかえりになりました。あのかた東洋劇場の舞台から抜けてこられたものですから……有島さんというかたが送っていかれたようですけれど……」 「ああ、そう」  と、そばから金田一耕助がひきとって、 「警部さん、湯浅朱実なら有名人ですから、いつでもつかまりますよ。それより石川君」 「はあ」 「湯浅朱実はその男がこの会館の裏口から、出てきたんじゃないかといってるんだね」 「はあ」 「それであんたはどう思う。あんたもやっぱりその男がここから出ていったと思う?」 「湯浅さんにそういわれてみると、あたしもなんだかそんな気がするんですけれど……」 「ああ、そう、それでは主任さん、あなたから質問をおつづけになってください」 「ああ、そう」  坂崎警部補はそこであらためて、雨男と名乗った男の人相や年|恰《かっ》|好《こう》について質問したが、それにたいして早苗のこたえうることはごくわずかしかなかった。 「なにしろフードをふかぶかとかぶり、|舌布《タ ン グ》で鼻から下をかくしているうえに、大きな眼鏡でございましょう。顔はてんでみえなかったんです。それに、こんなことになろうとは思いませんでしたから、ついうっかりして……」  と、早苗はいかにも恐縮そうだったが、これ以上この女から引きだすのはむりだと思ったのか、坂崎警部補はそこでまた金田一耕助や等々力警部と相談すると、 「ああ、そう、それじゃきょうはこのくらいで……むこうへいったら黒田亀吉という男に、ここへくるようにいってくれないか」 「はあ、承知いたしました」  早苗はほっとしたように立ちあがったが、彼女といれちがいにはいってきたのは、黒田亀吉ではなく、検屍をおわった警察医の五島先生であった。 「いや、どうも……こりゃまた、たいへんな事件ですな」  さすがものなれた五島医師も、すっかりどぎもを抜かれたらしく、|禿《は》げあがったひろい額を、汗でてらてら光らせている。 「先生、死因は……?」  と、五島医師の顔をみるなり坂崎警部補がデスクのこちらがわから声をかけた。 「死因は|絞《こう》|殺《さつ》、なにが紐状のもので|絞《し》めたんだね。詳しいことは解剖の結果をまたねばならんが。犯行の時刻はゆうべの真夜中ごろ、十二時前後とみていいだろう」 「それで、先生、犯されてるんでしょうな」 「それはもちろん」  と、五島医師は顔をしかめて、 「犯人はなにがモヒ系のつよい薬をもちいたらしい。これも解剖の結果をまたなきゃわからんが、被害者の左腕に注射のあとがあるところをみると、そいつで女を眠らせておいて、さんざんおもちゃにしたあげく、さいごに絞め殺したものらしい。まあ、そこいらまではいままでにだって、例のない事件ではないが、あの人形がねえ……。まったく目もあてられぬ事件というのはこのことだねえ。いや、しかし、こんなことをいってる場合じゃない。坂崎君、検屍調書はあとでとどける。それじゃこれで……」  いうだけのことをいってしまうと五島医師は、せかせかと部屋からでていった。      二 「へえへえ、あの生き人形をつくったのは、たしかにあっしにちがいございません」  それからまもなく本部へよびよせられたゴリラの黒田亀吉は、さっきからみるとすっかり落ち着きをとりもどしている。 「親方」  と、この|訊《き》き取りをかってでた金田一耕助は、部屋の隅から身を乗りだして、 「あなた、さっきあの人形を、雨男にたのまれてつくったといってましたね」 「えっ、雨男だって?」  と、部屋のなかの一同がおもわず驚きの声を放つのを、金田一耕助は目くばせで制すると、 「ひとつ、そのいきさつをうかがいたいんですがね。雨男というのが、じぶんで親方のところへやってきたんですか」 「へえ、へえ、そうなんです。こいつはぜひ詳しく聞いていただきたいんですが……いや、もう、なんともいえぬ薄っ気味の悪い野郎でして……」  黒亀は臆病そうな目で一同の顔色をうかがいながら、 「ありゃ、今月の十三日、雨のベショベショ降る夕方でしたな、あの雨男というのがあっしの仕事場へやってきたなあ。名前を聞くと雨男だっていいやがる。雨のショボショボ降る晩に、こうしてふらふら出てくるから雨男だっていうんですね。どう考えても薄っ気味のわるい野郎で、長いレーン・コートの裾からポタポタと滴をたらしやがって、頭巾をふかぶかとかぶったうえに、マスクみてえなもんで鼻の下をかくしておりやしょう。おまけに大きな黒眼鏡をかけてるんですから、てんで顔などみえやしねえ、それで名前をきくと雨男……うっぷ、ひとをくった野郎で……」 「それで、親方、雨男はああいう男の人形を注文していったのかね」 「いや、ところがそうじゃねえんで。男の人形のほうは、あっしが面白半分につくったんです。瓶があったって栓がなきゃあしようがあんめえと思ったもんですからね」  そこではじめて黒亀は歯をむきだしてにやにや笑った。このうえもなく醜怪な容貌だが、笑うと案外|愛嬌《あいきょう》がある。 「親方、その瓶があったって栓がなきゃしようがないというのは、どういうことだね」 「いやあ、それはこういうことなんです。今月の十三日に雨男がやってきたとき、注文していったなあ女の人形なんです。ほら、いまむこうで殺されておりましょう。あの女の素っ裸の写真を四枚と、それから顔だけの写真を二枚もってきて、この女の生き人形をつくってくれろという注文なんでさ。そこであっしがポーズをきくと、素っ裸でしかもそのポーズというのが、いまむこうで人形と抱きあっている女の死体……あれとおんなじようなポーズにつくってくれろ。そして、全身どこもかも、生きた人間とそっくりおんなじにつくってくれっていう注文なんですね。そこで、あっしすっかり嬉しくなっちゃいましてね」 「うれしくなったというのは、どういうわけだね」  このいまわしい話に眉をしかめながらも、等々力警部はそう突っこまずにはいられなかった。 「いえ、それってのがね、あっしゃあ写真の女をしってたんです。保坂君代って女だってことを……」 「どうしておまえは、しってたんだね」 「だって、保坂君代ってのは新興成金風間欣吾って男の|情《い》|人《ろ》なんですが、うちの先生、望月種子ってんですが、この種子ばあさんてのが、風間の旦那のむかしのかかあですからね。ばあさんいまだに風間の旦那に未練があるもんですから、旦那の情人についちゃ、うちのばあさん、いちいち詳しい情報を集めてんでさあ……」  望月種子……と、聞いて等々力警部は目を見張った。 「それで、君はその望月種子と、どういう関係があるんだね」 「ええ、まあ、夫婦みてえなもんですよ。それともあっしのほうが|男妾《おとこめかけ》ってところですかね。なんしろ凄いばあさんで……」  と、黒亀の舌のすべりがだんだんよくなり、いったいどう脱線するかわからなくなってきたので、 「ああ、ちょっと」  と、金田一耕助がさえぎって、 「その間の事情についてはのちほどわたしが説明申し上げましょう。それよりここでは親方に人形の話をきかせてもらおうじゃありませんか。それで親方、今月の十三日に雨男がやってきたときには保坂君代の生き人形を注文していったんですね」 「ええ、そうです。そうです。それであっしがすっかりうれしくなっちまって、引きうけたってところまでは話しましたっけねえ」 「ええ、それはいま聞きましたが、それで親方はそのことを望月種子さんに話しましたか」 「とんでもない、そんなことはいいませんよ。これは業務上の機密ってやつですからね。だからばあさん、さっきまで、あっしがあんな人形つくったってこと、てんでしらなかったんでさ」  もし望月種子が黒亀のこういう話しっぷりを聞いたら、いったいどんな顔をするだろう。種子はたんにこの男を性愛の玩具くらいにしか思っていないのである。そして、じぶんも満足するかわりに、あいてのゆがんだ欲情を満足させてやり、それによってこの男を思うままに操縦しようというのが種子の肚なのだ。だから、すっかり亭主気取りでしゃべっている、この黒亀の話しっぷりを耳にしたら、彼女はおそらく柳眉を逆立てて激怒するだろう。 「いや、まあ、それはさておき、女の生き人形をつくっているうちに、あっしゃふっと妙な気持ちになったんです」 「妙な気持ちって?」 「いえさ、せっかく瓶をつくったところで、栓がなきゃなんにもなりませんや。だから、栓のほうもつくってやろうというわけで、風間欣吾の生き人形をつくってやったんでさあ」 「ああ、なるほど、その瓶と栓……」  金田一耕助にもはじめて黒亀の|洒《しゃ》|落《れ》の意味がわかったが、しかし、それはあまりにもえげつない洒落なので、だれも笑うどころではなかった。 「さいわいねえ、風間の旦那の生首はまえにもたくさんつくってあったんです。うちのばあさんの、注文でね。その首のなかから適当なやつをえらべばよかったんですから、あとは体だけのことで、そうたいして手間はとりませんでしたよ。但し、ここでいっときますが、あっしゃべつにそれを雨男に売りつけるつもりはなかったんです。ところがこの二十日でしたかねえ、やっぱり雨のショボショボ降るさなか、約束どおり雨男がやってきたんです」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「そのとき、よせばよかったんですが、あっしがつい男の人形のほうも出してみせたんですね。そんときはまだすっかり仕上がってはおりませんでしたが、出来上がった女の生き人形とうまく抱きあえるようになるだろうっていったんですね。そしたら雨男め、すっかりよろこびましてね。ぜひ男のほうも売ってくれ。二十三日の晩までには両方ともすっかり仕上げてくれろ。そしてあるところへ贈り物にするんだから、これこれこういう寸法の箱を注文しといてくれというんです」 「なるほど、するとあの箱をつくったのも親方なんだね」 「そうです。そうです。それできのうの晩までに、なにもかもすっかり出来上がったんです。そしたらきのうの夕方、また雨のショボショボ降るなかを、雨男がやってきたんです。そこで抱きあった男と女の人形を箱につめ、雨男が四つの錠に鍵をかけ、あした十時ごろこれこれこういうところへ送りとどけてほしいって、過分の金をおいていったんです。ですからあっしゃけさ十時ごろ、運送屋をよんできて、雨男のさしずどおりここへ送りとどけておいたんですが、まさか、いつのまにやら人形が、ほんものの女にかわっていようとは……」 「なるほど」  と、金田一耕助はうなずいて、 「すると、きのうの夕方雨男が立ち去ってから、けさ親方が運送屋をたのんできて発送するまでのあいだに、だれかが仕事場へ忍んできて、人形と人間をすりかえていったということになるね」 「そうです、そうです。それよりほかに考えようがありませんね」 「その四つの鍵というのは雨男がもってかえったの?」 「へえ、それはもちろん」 「ところで、親方の仕事場というのは、夜だれかが屍体をはこびこんできても、気がつかないようなところにあるのかね」 「へえ、そりゃ……あっしの仕事場てえのは鶯谷の望月蝋人形館の裏手にあるんですが、夜になるとあっしゃ蝋人形館のほうへいってねます。もちろん仕事場に戸締まりはしてございますが、元来が泥棒にねらわれそうなもんはなんにもございませんから、戸締まりだってちゃちなもんで……忍びこもうと思えばいくらでもね。そういやあ、けさ横の窓の締まりがしてなかったので、ちょっと変に思ったんですが、ついそのまま気にもとめずに……」 「そうすると、親方」  と、そばからきびしい顔をして体をのりだしたのは、捜査主任の坂崎警部補である。 「もし、ゆうべのうちに雨男が忍んできて、人形と屍体をすりかえていったとすると、親方の仕事場に人形のほうが残っているはずだね」 「へえ、あっしもいまそれを考えていたところで……これからかえってさっそく仕事場のなかをさがしてみようと思ってるんです。なんなら刑事さんにいっしょにきていただいてもいいんですが……しかし、待てよ」 「どうがしたかね」 「いえ、もし人形のほうもいっしょに持ち去ったとしたら……」 「しかし、そのときには雨男がもってきた写真というのが残っているだろう」 「そうだ、そうだ。とにかく旦那、あっしゃ人殺しについちゃなんにもしらねえんで。ただ雨男のやつ、保坂君代か風間欣吾にうらみがあって、あんなえげつない人形を大勢のひとのまえにつきつけて、恥をかかしてやろう……と、まあそのていどの考えなんだろうくらいにたか[#「たか」に傍点]をくくっていたんです」  それにしても……と、金田一耕助は心のなかで考える。雨男のさいしょの計画はどういうのであったろうか。保坂君代の生き人形をつくらせて、それをいったいなにに使うつもりだったろう。雨男は雨男でなにかべつの計画があったのだろうが、黒亀が妙なことを思いついたところから、急に計画を変更したのにちがいない。そして、変更され、実現された計画のほうが、雨男のさいしょの企画よりよほどお気に召したのではあるまいか。 「さいごにもうひとつ親方にお訊ねしたいんですがね。望月種子さんはほんとうに、親方がああいういかがわしい人形をつくってたってこと、しらなかったんでしょうねえ」 「へえ、そりゃもちろん」  と、言下に否定したものの、黒亀はにわかに不安そうな目つきになり、 「だけど、あのばばあのこってすからねえ」  と、腕|拱《こまぬ》いてかんがえこんだところへ、刑事がひとりあわただしく部屋のなかへはいってきた。見ると片腕にぬれそぼれたレーン・コートをぶらさげている。 「警部さん、主任さん、石川早苗という娘が、このレーン・コートをみなさんのお目にかけてほしいというんですが」 「なに、早苗が……」  手をのばして、そのレーン・コートを取り上げた坂崎警部補が、両手のあいだにひろげてみると、フードがちゃんとついており、フードには|共《とも》|布《ぬの》の|舌布《タ ン グ》もついている。 「山本君! このレーン・コートはどこにあったんだ」 「裏口をはいったところの帽子掛けにかかっていたんですよ。しかもいまんところ、だれもじぶんのものだと名乗ってでるものはないんです。それに主任さん、左側のポケットに妙なものがはいってますよ」 「妙なものって……」  と、ポケットに手を突っこんだ捜査主任がそこからひきずりだしたものをみて、金田一耕助はおもわず大きく目を見張った。  それは女の帯締めではないか。しかも中年の婦人むきのそうとう立派な品である。  そのとたん、金田一耕助の頭脳には、いつか風間欣吾からきいた話が、稲妻のようにかすめてとおった。経堂赤堤の石川兄妹の住居で風間の正妻美樹子の死体が発見されたとき、美樹子の帯締めがなかったということを……。  しかも、いまレーン・コートのポケットから出てきたその帯締めには、点々として血がついている。  ひょっとすると、ゆうべ君代の首を絞めたのは、この帯締めではなかったか。……     第十三章 短銃と注射器      一  その翌日、すなわち七月二十六日の東都日報の朝刊は、東京はいうにおよばず日本全国に一大センセーションをまきおこした。街の立ち売りは売れに売れ、その日の発行部数は最近のレコードをつくるにいたったという。  それもむりはないのである。  ほかの新聞がブーケ・ダムール会館の事件だけを、大々的に取りあげているとき、東都日報ただ一紙がさらにそれよりさかのぼって、この事件の前奏曲ともいうべき、風間欣吾の正妻美樹子と石川宏の偽装心中事件から、美樹子の屍体紛失事件と、あいつぐ一連の怪事件をスクープしたのだから、世間がわっと|湧《わ》いたのも当然だろう。  ここにおいて水上三太が大いに面目をほどこしたことはいうまでもない。かれは臨時に文化部から社会部へと席をうつされ、この事件を専門に担当することを命じられたが、それが、はたしてかれに幸運をもたらしたかどうか、それはかすに時日をもってしなければわからない。  それはさておき美樹子の心中事件から、彼女の屍体紛失事件が明かるみに出た結果、いままでそれを秘密にしていた風間欣吾が、疑惑の焦点に立たされたことはいうまでもないが、さらにもうひとり捜査当局からするどい追究をうけたのは石川宏である。  だが、ここではそのほうへ筆を進めていくまえに、もう少しブーケ・ダムール会館におけるその後の経過を報告しておこう。  猿丸猿太夫こと黒田亀吉といれちがいに、本部へ呼びいれられたのは望月種子である。  真っ黒なドレスに身をつつんだ望月種子は、一種異様な雰囲気を身につけているようだ。いってみれば黒いかげろうが|炎《えん》|々《えん》としてその背後から立ちのぼっているかんじで、それはこの女がある一念に凝りかたまっているところからきているのであろう。望月種子の一念とは……? いうまでもなく風間欣吾にたいする憎悪と執念である。そして、このことと、彼女の醜い容貌が相照応して、そこに一種のきびしい神秘性が形成され、それがトランプ占いなどやるばあい、あいてを畏怖せしめるのに役立つらしい。  部屋のなかへはいってきた望月種子は、ふかい眼窩のおくから針のようにするどい目で、ギロリと一同を|睥《へい》|睨《げい》すると、無言のまま坂崎警部補のゆびさした椅子に腰をおろしたが、カニのように角ばった顎といい、むっつりとつよく結んだ唇といい、この女がなみなみならぬ闘士であることを示しているようだ。  そこで姓名その他型どおりの応対があったのち、 「ときに、奥さん」  と、坂崎警部補がいいかけると、 「いいえ、わたしは奥さんではありません」  と、のっけからきびしい抗議である。  坂崎警部補はぎょっとしてあいての顔を見なおしたが、種子の視線をまともに浴びると、おもわず首をすくめて肩をゆすった。あいての気魄にいささかたじろぎ気味である。 「いや、これは失礼しました。それではなんとお呼びすればよろしいでしょうか」 「望月と呼んでください。わたしは望月種子ですから」 「承知しました。それでは望月さんにお訊ねしたいんですが、いまここにいた黒田亀吉という人物ですね。あの男とあなたとはどういう関係になっていらっしゃるんですか」 「あれはわたしの|下僕《し も べ》です」  種子の声にはにべもない。 「なるほど。するとごいっしょにお住いなんですね」 「はあ」 「ところがさっき黒田亀吉君の話すところによると、いまむこうにあるあの忌まわしい蝋人形ですね。あなたもごらんになったことと思いますが……」 「はい、見ましたよ」  種子の薄い唇にちょっと微笑の影がさす。だがその微笑はかえってあいてをぞうっとさせるていの、いかにも底意地の悪い微笑であった。 「ところがあの蝋人形をつくったのは黒田亀吉君だというのですが、あなたはそのことをご存じでしたか」 「いいえ、わたしはしりませんでした」 「しかし、あなたは黒亀君と同棲していらっしゃるんでしょう」  同棲という言葉が気にさわったのか、額に稲妻が走ったが、それでも種子は思いなおしたように、ゆっくりと一句一句をおさえつけるように唇の外へおしだした。 「むろん、わたしどもはおなじ棟の下に住んでおります。しかし、あのアトリエは別棟になっておりまして、わたしは用事がないかぎり、あれのアトリエをのぞかないことにしております」 「そうすると、ちかごろは用事がなかったというわけですか」 「はい」 「ああ、ちょっと……」  と、そのときそばから|嘴《くちばし》をはさんだのは金田一耕助である。 「望月さんにちょっとお訊ねいたしたいんですが……」  種子はギロリとハゲタカのように鋭い一瞥を、金田一耕助のほうにくれると、 「このひとは……?」 「ああいや、こちら金田一耕助先生といって、まあ、われわれの顧問のようなことをお願いしてあるんですが……」  坂崎警部補の機先を制して、すばやくそばから返事をしたのは等々力警部である。うっかり風間欣吾の依頼をうけている私立探偵だなどといおうものなら、このばあさん、どんなにいきりたつかしれたものではない。 「ああ、そう、それで……?」 「いや、黒田亀吉氏は望月蝋人形館以外の仕事もおやりになるんですか」 「それはやります。でも、よっぽど気にいった仕事でないと引きうけないようです」 「そうすると、ああいう仕事なら気にいるというわけですか」  と、坂崎警部補は斬りこんだが、種子は平然とそれをうけて、 「ええ、そう」  と、眉毛ひと筋動かさない。 「とはまた、どうして……?」 「わたし、さっきむこうであれから、あの男の人形をつくったいわれを聞きました。おそらくあれの気持ちでは、わたしに忠義立てをするつもりで……つまりわたしの歓心を買うつもりであんなものをつくったのだろうと思います」 「そこのところをもう少し詳しく……」 「わたしはあの男の人形のモデルをしっています。わたしはその男を八つ裂きにしてやりたいくらいに憎んでいるのです。そのことをあれはよく承知しております。ですからそのモデルの男を辱めるつもりで……そのことによってわたしの歓心を買うつもりで、あんな人形をつくったのだろうと思うんです」 「と、すると、黒亀君はじぶんのつくった人形が、殺人のお景物につかわれるだろうということを予期していたとでも……」 「まさか」  と、種子は冷笑して、 「あれはあの男のいろおんなの人形……それもいかがわしいポーズの人形をたのまれた。そこでついでにあの男のいかがわしいポーズの人形もつくって、それをワン・セットにして、あの男に辱めをあたえるつもりだったのでしょう」 「とすると、犯人の思う壺にはまったとでも……」 「いいえ、犯人の思う壺にはまったというより、本能的に犯人の意中を洞察したのでしょう。あれはそういう動物的に鋭い本能をもっている男ですから」 「ところで、あなた犯人について心当たりは?」 「ありません。しかし……」 「しかし……?」 「はあ、あの男を憎み、呪うている人間はおそらく無数にいるのでしょう。そして、それらの人間のなかにだれかひとり、その憎悪と|呪《じゅ》|咀《そ》を具体化してみせる手腕をもった人物がいるということをしって、わたしはいま、とても満足に思っているのです」  そういいきってギロリと一同を|睥《へい》|睨《げい》する望月種子の邪悪な微笑を、その醜悪なおもてに見てとったとき、一同はおもわずしいんと呼吸をのむ思いであった。 「望月さん」  しばらくしてまたそばから言葉をはさんだのは金田一耕助である。 「わたしからもうひとつお訊ねしたいことがあるんですが……」  望月種子は無言のまま金田一耕助を見つめている。彼女は女性特有の本能から、このもじゃもじゃ頭の小男に、なにかしら警戒すべきものを感得しているらしい。 「じつは、わたしどものほうへ妙な情報がはいっているんですがね」 「妙な情報とおっしゃると……?」 「いや、望月蝋人形館のなかに風間欣吾氏の五人の愛人の生き人形が、存置してあるというのですね。ところが不思議なことにその愛人のうちひとりは、当事者以外にはぜんぜん他にしられていないはずの女性なんです。あなた、それをどうしてお知りになったのですか」  等々力警部と坂崎警部補ははっとしたように顔を見合わせ、それからするどく種子の顔を注視する。種子は咬みつきそうな目で金田一耕助を凝視していたが、 「それは……」  と、のどのおくからしゃがれた声をしぼりだした。 「|神《しん》|託《たく》によるものです」 「シンタク……」 「ええ、そう、わたしにはときどき神のお告げがあるのです。わたしはときどきあの男にたいする憎悪で体がやけるようになることがあります。わたしは遠くからあの男を呪い殺してやろうと一心不乱に祈念をこらすのです。やがてわたしの魂はわたしの肉体をぬけだし虚無のかなたを彷徨します。そのときわたしの魂の目はあの男に関するすべてのことをしるのです。わたしはなんどもあの男とあの女が、いやらしく抱き合ってふざけているのをみましたよ」  種子の瞳に黒い|陽《かげ》|炎《ろう》がえんえんともえさかり、彼女はもう完全に神ががりの状態であった。      二  七月二十五日夜の訊き取りの模様を、これ以上書きつづけていくことはあまりくだくだしくなるから、ここではこれくらいにしておこう。種子についで風間欣吾が取り調べられたが、べつに新しいデータも出なかったので、割愛することにしよう。  ただ、あのレーン・コートのポケットから出た帯締めについて、のちにわかった事実を筆のついでとしてここに書きとめておくことにする。  男の風間欣吾にはわからなかったが、のちに美樹子つきの女中に見せたところ、それはたしかに美樹子のもので、六月二十八日の歌舞伎座見物のさい、彼女がしめていったものにちがいないという。しかも、その夜、経堂赤堤の石川兄妹の部屋で、石川宏とともに発見された美樹子の身辺には、その帯締めはなかったのである。  と、するとこれはあのとき早苗がいったとおり、美樹子はどこかほかで帯を解き、そこで殺害されて赤堤へはこんでこられたのであろうか。そして殺人現場に遺留されていた彼女の帯締めが、犯人によって今度の殺人事件に利用されたのだろうか。  いや、いや、それよりまえに美樹子は、ほんとに死んでいるのであろうかという疑問が、ここにまた新しく頭をもたげてくる。美樹子にとっては風間欣吾の愛人たちは、さぞかし呪わしい存在だったにちがいない。だから、美樹子がまだどこかに生きていて……と、いう考えかたもあながち否定できなくなってくる。いずれにしても、たかが一本の帯締めだけれど、それがあのレーン・コートのポケットから出てきたというところに、骨の髄まで凍りつかせるような恐ろしさが秘められているようである。  なお問題のレーン・コートだが、早苗も朱実もはっきり確言はできなかったけれど、雨男と名乗った男が着ていた品によく似ているという。もし、それが雨男のレーン・コートだとすると、……いや、いや、美樹子の帯締めが出てきたところをみると、おそらくそれにちがいないと思われるのだけれど、そうだとすると雨男はまたブーケ・ダムール会館へかえってきたことになる。ひょっとするとその男は、あのいまわしい人間と人形の抱擁像が群衆のまえにさらしものにされたとき、客のなかにまじっていて、ひそかに会心の|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》みをもらしていたのではないか。 「ねえ、金田一さん」 「はあ」 「風間欣吾という男はどうなんです」 「どうだとおっしゃいますと……?」 「いや、風間じしんが臭いんじゃないか。さっきブーケ・ダムール会館で、いろいろあなたに話をうかがって、まったくびっくりしてしまいましたが、風間じしんが臭いんじゃないですか。あれもいろいろ評判のある男ですし、それにいかに抜け穴があるとはいえ、屍体を盗み出すということは、ずいぶん厄介なことですぜ。生きている人間も御しがたいが、屍体というやつも扱いにくいもんです。抜け穴をとおった足跡があったとはいえ、それくらいのことなら、風間じしん工作のできることですからねえ」 「いや、ごもっともです」  と、金田一耕助はうなずいて、 「その疑問は十分あるわけです。しかしねえ、警部さん」 「はあ」 「それよりまえにもっと重大な疑問があるんです。と、いうのは美樹子という婦人がはたして、ほんとうに死亡していたかどうかということです」 「な、な、なんですって?」  と、等々力警部は、はじかれたように身を起こして、金田一耕助の横顔をみなおした。  時刻はまさに深夜の十二時、ふたりはいま望月種子と黒亀のあとを追って鶯谷の蝋人形館へおもむく途中なのである。自動車の外にはあいかわらず、ベショベショと陰気な雨が降っている。 「金田一先生。それじゃあなたのお考えでは、美樹子はまだ生きているかもしれないとおっしゃるんですか」 「いや、その可能性もなきにしもあらずということですね」 「その点について風間じしんは、なんといってるんです」 「いや、それなんですがね、風間氏じしんははっきりと死んでいたと断言するんです。これ、ちょっと考えさせられるんじゃありませんか。あのひととしてはそこをあやふやにしておいたほうが有利なはずです。それにもかかわらずあのひとは、美樹子が生きかえったなんてとんでもない話だとつよく否定するんですね。ところが新聞記者の水上三太君、あの男はそこに疑問をもっているようです。さっきもちょっとたしかめてみたんですが、じぶんは医者ではないし、また自動車へはこびこむとき手伝っただけなんだから、あのひとがほんとうに死んでいたのか、それともたんに仮死の状態にあったのではないかというような疑問には、自信をもってお答えすることはできないというんです。なにしろ美樹子というひとの過去の経歴が経歴だけにね」 「なるほど。つまり、かつて良人ある身で他の男と通じたような女だから、こんどもまたなにか事情があって、死んだとみせかけて姿をかくした……と、いうんですか」 「そうです、そうです。なにしろ医者がみていないだけに、そういう疑問も出てくるわけです」 「なるほど。しかし、金田一先生。今夜のような事件が起こってみて、さてあなたのお考えはどうなんです。美樹子という女は生きているのか死んでいるのか」 「さあ……いよいよわからなくなった……と、いうよりほかに申し上げようがありませんね。妙なところからそのひとつの帯締めらしいものが出てきましたからね。……ああ、どうやら蝋人形館へついたようです」  あらかじめ電話をしておいたので、望月蝋人形館のまえには所轄警察から刑事がふたり出張していたが、そのひとりはいつか水上三太を|煽《せん》|動《どう》したあのひとの悪い上村老刑事である。あとの自動車からおりたった等々力警部の姿を見ると、上村老刑事がつかつかとそばへよってきて、 「ああ、警部さん、この蝋人形館になにか……?」 「いや、詳しい話はあとでしよう。それより黒亀君にちょっと見せてもらいたいものがあってね。君たちも立ち会ってくれたまえ」  望月種子は自動車からおりるとさっさと蝋人形館へはいってしまったが、黒亀は玄関のまえで待っていた。 「警部さん、それではこちらへ……」  蝋人形館を裏へまわると、そこに「黒田亀吉人形工房」の札がかかっている。  この人形工房の情景はまえにもいちど書いたから、ここで繰りかえすことはひかえよう。しかし、深夜の電灯のもとでみる工房が、昼間見るよりさらに怪奇で、薄気味わるいものであることはいうまでもない。黒亀はその薄気味わるい工房のなかを、ごたごたとかきまわしていたが、 「あった、あった、野郎、こんなところへかくしていきゃあがった」  と、衝立のようなものを押しのけると、そのかげに横たわっているのは、あきらかに保坂君代をモデルにした裸体の生き人形である。しかも、注文ぬしの注文とやらで肉体の細部にいたるまで、入念につくられたそのあさましい人形をみたとき、一同はおもわず顔をしかめずにはいられなかった。 「黒亀、これがおまえのいう瓶なんだね」 「へえへえ、そうです。そうです。それでさっきむこうにあった栓とぴったりあうようにつくっておいてやったんです。へっへっへっ」  黒亀が唇をねじまげて笑うとき、金田一耕助はなにもかも狂っているとしか思えなかった。  それから半時間ののち黒亀が蝋人形館のおくにある寝室へはいっていくと、望月種子がまだ着がえもせず、きびしい顔をして部屋のなかをいきつもどりつ、なにかふかい思案にふけっていた。黒亀がうしろ手にそっとドァの鍵をまわすと、その音にぎくっとふりかえった種子は、しばらく黒亀の顔を見まもっていたが、 「どうしたの、猿丸、なにをそんなにおどおどしてるんだい。あの連中はかえったのかい」  その声の意外に優しいひびきに黒亀はおもてをほころばせて、 「へえ、いまかえりました。だけど、先生」 「なあに?」 「あの連中、中二階にある人形を見せろというもんですから見せてやったんですが……」 「いいよ。構やあしない。どうせしれてしまったんだから」 「それじゃ、先生はおこってるんじゃねえんですね。こんやのこと……」 「だれもおこりゃしないよ。褒めてやりたいくらいだよ」 「先生!」  黒亀は満面によろこびの色を走らせて、おもわず生唾をのみこんだ。 「いいよ、お脱ぎ、なにもかも脱いでおしまい。こんやはうんとかわいがってあげる」  そういいながら壁にかかった鞭をとりあげるとき、望月種子の|瞳《ひとみ》は残忍な欲望でギラギラぬれていた。  それからまもなく、この近所を|徘《はい》|徊《かい》するパトロールが、よく悩まされるというあのきびしい鞭の音と、苦痛と喜悦のいりまじったあさましい男のうめき声が交錯して、ぴったりと閉ざされた部屋の中からもれ始めたが、それらのようすを細大あまさず聞きもらさじと、呼吸をこらして|利《きき》|耳《みみ》を立てている男があった。  その男は格子に組まれた寝室の天井裏にひそんでいるのである。いつのまに忍びこんだのか、それは東都日報の水上三太であった。やもりのように三太はぴったり天井裏に吸いついて、いまおのれのすぐ下に展開されている、歪んだ情痴の世界を全身をもって感得しているのである。  鞭の音がいよいよはげしく、男のうめき声がもの狂おしい咆哮にまで高潮していくとき、水上三太の全身からねばりつくような汗がしたたりおちる。      三  石川宏にたいする第一回目の取り調べが、非常な興味と期待のうちに開始されたのは、その翌日、すなわち七月二十六日の午後二時ごろのことであった。場所は警視庁捜査一課第五調べ室、すなわち等々力警部担当の部屋である。  もうそのころには各紙の記者に、石川宏という奇怪な役割をはたした人物の存在がしれわたっていたので、警視庁の廊下は報道関係の連中でいっぱいだった。  まんまと東都日報の、しかも文化部づきという畑ちがいの一年少記者に出しぬかれたかれらは、いずれもうえから小っぴどいお目玉をくらって、いまてんやわんやというところである。  さて、石川宏の取り調べにさきだって、まず一番に呼びだされたのは経堂の緒方病院の院長緒方博士である。  緒方博士は六月二十八日の晩、患者が病院へはこびこまれてきたときの状態からはじめて、現在にいたるまでの経過をかんたんに説明した。 「すると患者はモヒ系の強い薬に脳の|中枢《ちゅうすう》を犯されていて、いまもって正常な状態に回復していないというんですね」  等々力警部の質問にたいして、 「そうですね。目下精神分裂症的傾向を示しているようです。ときどき発作的に自己を喪失してしまうんですね。その発作を起こす度数がおいおい減少しているようですし、また発作を起こしてもその期間が短縮されているので、いましばらくたてば完全に回復するだろうという希望はもてます」 「それじゃ、発作を起こしていない期間、平時の状態にあるときの言動には、本人も責任をもてるわけですか」  と、そばから質問を切りだしたのは金田一耕助である。 「いや、それが遺憾ながら完全にとまではいかないんです。なんといいますか、ひらたくいえば脳細胞の表皮のうえにもういちまい薄皮をかぶっているとでもいいましょうか、過去の記憶などがベールを一枚とおしてみえる……と、いったような、状態なんですね。ただし、そのベールもだんだんうすれていることはたしかなんで、意識を回復したじぶんなんざ、じぶんの妹でさえわからなかったんですからね」 「それであなたのお考えではどうでしょう。患者はじぶんで注射したのか、それとも他人にされたのか……」 「いや、それなんですよ。けさの新聞を見ておどろいているんですが、わたしは当然じぶんでやったもんだとばかり思っていたんですよ。左の二の腕に注射の跡があったんですが、じぶんでやろうと思えばやれる個所でしたし、モヒ患者はみんなじぶんでやりますからね」 「しかし、先生、あなたはどうしてそのことを、警察へとどけておいてくださらなかったんですか」  等々力警部の調子に、緒方博士は色をなして、 「それは異な質問ですね。もちろん病院からとどけておきましたよ。げんに警察から患者を調べにきたくらいですからね」  その報告が警視庁へとどいていないのは、水上三太がとちゅうで|体《てい》よくもみけしたせいであることはいうまでもない。 「いや、これは失礼しました。それじゃこちらのほうになにが手ちがいがあったんでしょう。ところで発作時の状態というのは……?」 「それはわたしより妹にお聞きになったほうがいいでしょう、わたしはその|娘《こ》から報告をきいているだけですからね」 「しかし、危険はないんでしょうねえ。発作時においても……」 「それは絶対大丈夫です。ただ自己を喪失するというだけですからね。そりゃ正常な人間だっていつ発作的に殺人をやらないとも限りませんから、そういう意味の、あるいはそういう程度の危険性はあるかもしれませんがね」 「いや、ありがとうございました。それじゃこれくらいで……」  ちょうどそのころ警視庁の別室では、宏と早苗が新聞記者から遮断されて缶詰になっていた。そして、このふたりに付き添っているのは水上三太ただひとりである。  三太は寝不足の目をショボショボさせているが、その瞳のかがやきにただならぬものがあるところをみると、ゆうべ望月蝋人形館でなんらかの収穫があったのではないか。その目は功名心にもえていきいきとかがやいている。  それに反して宏の目つきはたしかに尋常ではなかった。かれはまだじぶんがなぜここへ呼びだされたのか、なぜまたみんなが大騒ぎするのか、わかっていないふうである。  かれの瞳はうすじろく濁っていて、さっき緒方博士が表現した脳細胞の表皮にもう一枚薄皮をかぶっているという言葉が、そのまま瞳にもあてはまるようである。その目はたしかに一枚薄皮をかぶっていて、きょときょとと落ち着きをかいていた。  三人とも話すことは話しつくしたという顔色で、手持ち無沙汰そうに控えていたが、そこへ刑事が早苗を呼びにきた。 「あら、あたしでございますの。兄じゃございませんの」 「いや、君だよ、君にちょっと……」 「水上さん」 「いいよ、いいよ、早苗ちゃん、兄さんのちかごろの状態をききたいんだろう。なにもびくびくすることはありゃしない、ありのまま申し立てればいいんだよ」 「はい。……それじゃ兄をお願いします。兄さん、ここで待っててね」 「ああ……」  宏は妹をかばおうとするかのように、ちょっと腰をうかしかけたが、早苗に目でなだめられると、あたりを見まわしてまた腰をおろした。  早苗の訊き取りは半時間ほどかかったが、時間が経過するにつれて、宏はそわそわしはじめて、はてはたまらなくなったように立ちあがると、檻のなかの猛獣のようにせかせかと、部屋のなかを歩きまわる。 「ねえ、水上さん、ここの連中、妹になにを訊ねているんです。まさか早苗を拷問にかけているんじゃないでしょうねえ」 「あっはっは、まさかね」 「だから、ぼくがいわないことじゃない。もっとはやくあの晩のことを警察へ届けておくべきだったんだ。それを早苗や風間さん、君までいっしょにとめるもんだから……」 「いやあ、すみませんでした。その叱責ならゆうべもさんざんやられましたよ。ここの連中にね。ぎゅうぎゅう油をしぼられたもんでさあ」  だが、油をしぼられただけのことはあったと、かれはけさからの他社の騒ぎを想像してその愉快さを|反《はん》|芻《すう》している。しかも、いままたかれは他社にさきんじて、ある重大な秘密のいとぐちを握っているのだ。金田一耕助さえしらぬ秘密のいとぐちを……それを思うと水上三太は思わずこみあげてくる微笑をおさえることができなかった。 「水上さん」  宏がふしぎそうに三太の顔を見まもりながら、なにかいおうとしたところへ、早苗が刑事に付き添われてかえってきた。 「兄さん、こんどはあなたですって」 「早苗、どうかしたの? 真っ蒼な顔をしているよ」 「いいえ、べつに変わったことはなかったのよ。ただ緊張しすぎたもんだから、すっかり疲れてしまって……」  くずれるように椅子に腰をおろす早苗の姿を宏は心配そうに見まもっていたが、刑事に肩を叩かれると、 「ああ、そう」  と、気がついたように、 「それじゃ、水上さん、妹のことを頼みます」 「ああ、いいですよ。いってらっしゃい」  第五調べ室へ石川宏がはいってぎたとき、そこに詰めかけていた係官の目は、いっせいに鋭さをましてかがやいた。その脳細胞の奥底まで見透さずにはおかぬといいたげな一同の視線を全身に浴びて、宏はちょっと鼻白んだようにドアのところで立ちすくむ。 「石川宏君だね。さあ、どうぞこちらへ……」 「はあ」  宏が少しふらつくようなのを、ふたりの刑事が左右から手をとって等々力警部のまえの椅子に腰をおろさせると、 「警部さん……ですね」  警部の質問を待つのももどかしそうに、宏のほうから切りだした。 「ああ、ぼく担当警部だが……」 「はあ、あの、ぼく、このことをもっとはやくから警察へとどけたかったんです。それを風間さんや水上さんとそれに早苗のやつまでが泣いてとめるもんだから……」 「いや、そのことならいま妹さんからききましたよ」  と、等々力警部のいうのも待ちきれないかのごとく、宏はだだっ児のように全身をゆすぶって、 「それを今になってこんなに大騒ぎをして……ぼくをまるで罪人扱いにして……ぼく不服ですよ。ぼくこんな不面目なこと……」  熱っぽくかがやきながら、なにか吹っきれない目つきといい、いくらかもつれる|呂《ろ》|律《れつ》といい、あきらかにこの男の神経はどこかでバランスが狂っていることを思わせる。 「いや、いや、なにも罪人扱いをしているわけじゃないよ。ただ君は重大事件の証人らしいのでね、それを大切に扱ったまでだが、新聞記者が騒ぎすぎたのが君の神経にさわったようだね。以後注意をするから、まあきょうのところはかんべんしてくれ給え」  と、等々力警部はまるで腫れ物にさわるような調子で、 「それじゃ、君がまえからとどけ出たがっていたという六月二十八日の晩のことを聞かせてくれないかね」 「あれが六月二十八日だったかどうかぼくよくしらないんです」  宏はまるで|堰《せき》でも切ったようにべらべらと、非常な熱意とスピードで話しはじめた。 「でも、ぼく、そのとき経堂赤堤の家で、ひとりで本を読んでたんです。早苗はお店へ出ていました。早苗はその日遅番だったんですけれど、髪をセットするとかいって、わりかたはやく家を出たんです。ぼく、そのとき経堂赤堤の家で、ひとりで本を読んでたんです。早苗はお店へ出ていました。あれはその日の遅番だったんですけれど、髪をセットするとかいって……」  一同はおもわずぎょっと顔を見合わせた。だれかがなにかいおうとするのを、等々力がいそいで制すると、 「ふむ、ふむ、それで」  と、デスクの上に身を乗りだした。  この男の神経はあきらかにどこかで狂っているようだ。神経に妙なひだができていて、そこにまっすぐにはいかぬ屈曲か落差が生じているのかもしれない。大至急事態をのみこんでもらおうと焦るあまり、いきおい言葉がはやくなり、言葉がはやくなった結果、肝心なことをいいおとしたのではないかという不安から無意識のうちにおなじ言葉をくり返すのかもしれぬ。 「それで、ぼく本を読んでいたんです。なんの本だか忘れましたが、とにかく本を読んでいたんです。ああ、そうだ、思い出した。いま、やっと思い出した、あの本を……」  と宏は急に眼をかがやかせて、 「あれは風間さんの奥さんにすすめられて読んだんです。ぼく自我流に絵をかいてたんです。そしたら風間さんの奥さんが、それじゃいけない。基礎から勉強しなきゃいけないというので、ぼく、あの本を買ってきたんです。題は……題は……題はわすれました」  宏は急に頼りなげな微笑で一同の顔を見まわすと、 「ぽく、このごろすっかり忘れっぽくなっちまって……かたっぱしから忘れちまうんです……。ぼく、とにかくひとりで本を読んでました。早苗はお店へ出ていたんです。外にはビショビショ雨が降ってました。ぼく、それで風間さんの奥さんからすすめられた本を読んでいたんです。題は、題は忘れました。ぼくこのごろすっかり忘れっぽくなっちまって……それで、本を読んでたら塀の外に自動車が|停《とま》ったような気がしたんです」 「ふむ、ふむ、自動車がとまったような気がしたので……」  やっと話が前進しかけたので等々力警部があとをうながす。 「ええ、そうです、そうです。塀の外に自動車が停ったような気がしたんです。外にはビショビショ雨が降っていました。ぼく、そのとき本を読んでいたんです。風間さんの奥さんにすすめられた本……、ああ、思い出した、思い出した。『美の形成とその創造』という本です。『美の形成とその創造……』忘れないぞ、忘れないぞ、もう忘れないぞお……」 「うん、うん、『美の形成とその創造』という本を読んでいたんだね。そしたら塀の外へ自動車がきて停ったと……」 「いいえ、ほんとうに停ったのかどうかわからないんです。停ったような気がしたんです。雨がショボショボ降っていました。だから早苗が帰ってきたのかと思って時計を見たんです。早苗はその日遅番だったんですが、髪をセットするとかいって」 「ふむ、ふむ、それでわりかたはやく出かけた妹さんが、自動車で帰ってきたと思ったんだね。それで時計をみたら……?」  とうとうたまりかねて等々力警部が要約すると、宏はびっくりしたように、きょとんとあいての顔を見ていたが、また堰を切ったようなスピードでしゃべりはじめた。 「そうです。そうです。ぼく、時計を見たんです。そしたらやっとまだ八時だったんです。それで早苗じゃないと思ってまた本を読みはじめたんです。題は……題は……」 「『美の形成とその創造』だね」 「そうです、そうです、『美の形成とその創造』……風間さんの奥さんにすすめられた本です。そしたら、時計を見たら八時だったんです。それで、早苗じゃないと思って本を読んでたんです。そしたら男がはいってきたんです。ピストルをもった男がはいってきたんです」 「ピストルをもった男が……? だしぬけに……?」 「いいえ、だしぬけじゃありません。そうです、そうです。ぼく本を読んでたんです。そしたら玄関の外で男の声がきこえたんです。カステロから使いにきたといったんです。それでぼくが玄関の格子をひらいたらその男が立っていたんです。雨のなかにレーン・コートを着た男が……」 「そのレーン・コートを着た男がピストルをもってたのかね」 「そうです、そうです」  と、宏の顔は恐怖にひきつり、さっきからふきだしていた額の汗が滝のように流れはじめる。 「ぼく口がきけませんでした。レーン・コートの男は顔をかくしていました。大きな黒眼鏡をかけて、防寒マスクみたいなものをしていたんです。それで、ぼく口がきけませんでした。ぼく、自動車がとまったような気がしたとき、早苗がかえったのだと思ったんです。そしたら早苗じゃなくそいつだったんです。それでぼく口がきけませんでした。そいつがピストルをつきつけたまま玄関からうえへあがってきました。ぼくあとじさりに六畳までさがったんです。ぼくはじめレーン・コートの男はひとりだと思ったんです。そしたらその男と重なるようにもうひとりいたんです。そっくりおなじレーン・コートの男が……そいつも黒眼鏡と防寒マスクで顔をかくしていたんです」 「レーン・コートの男がふたりいたんだね」  等々力警部のするどい質問に、 「ええ、ふたりいたんです。でも、ぼく、そのときひとりの男がアミーバみたいに、ふたりにわかれたんだと思ったんです。そして……そして……」  と、宏はまるで空気が欠乏した金魚みたいに口をパクパクさせながら、 「ひとりがピストルでぼくをおどしておいて、もうひとりがぼくに注射を……したん……です」  この少し以前から宏の目つきは少々怪しくなっていたが、もうひとりがぼくに注射をしたというへんから、まるでゴム風船から空気がぬけていくように、宏の瞳から生気がうせて、それからまもなくがっくりとデスクのうえにうつぶせになってしまった。  五分ののち宏は意識を取りもどした。しかし、緒方博士の診断によると、宏は完全に自己を喪失しているというのである。かれはあたりにいるのがだれであるか識別できなかったし、またそこがどこであるかもわきまえなかった。それは決して仮病ではなかったのである。  それにしてもいまかれが語った話がしんじつとすると、宏が注射をされて昏睡状態におちいったあとで、表についた自動車からふたりの雨男が美樹子の体をはこびこんできたというのであろうか……。     第十四章 女狩り第二号      一  この事件においてもっとも奇怪な役割を演じた無名の青年画家、石川宏の精神鑑定はR大付属病院において数回にわたり厳重におこなわれたが、その結果あたえられた診断は、偶発性精神分裂症に起因する突発的自己喪失症という長ったらしい病名であった。  この患者には危険はなかった。危険がないという意味は、この病気故にとつぜん凶暴性を発揮して他に危害を加えるというような心配はないという意味である。むしろ危険は患者自身にあった。自己を喪失してふらふらしているうちに、交通事故で怪我をするとか、もっと取り越し苦労をするならば、悪質な犯罪に利用されるとか、そういう意味の危険性が患者自身にあるということである。  したがってこの患者はそうとう厳重に保護されなければならなかった。それにはいままでどおり風間邸に起居しているのがいちばんよいとされ、ただし早苗の留守のばあいを想定して、だれか信頼するにたる付き添いをつけておく必要があるだろうということになり、風間欣吾もそれを了承した。  さて、その風間欣吾だが、かれが美樹子の失踪を極秘にしていたということに関して、当局からだいぶきびしい追究をうけたことはいうまでもないが、その美樹子がはたして死亡しているのかどうか、そこに疑問がある以上、かれを告発すべき材料はどこにもなかった。妻の生死に疑惑をかんじた良人が、その失踪を極秘にしておくということは、べつに法に|抵触《ていしょく》するところとはならないからである。むろんかれの身辺に厳重な監視の網が張られたことはいうまでもないが。  昭和三十三年八月十五日、即ち石川宏のさいごの精神鑑定がR大の付属病院でおこなわれた日は、また例によってベショベショと雨が降っていた。  だが、その雨にもかかわらず病院の応接室が報道関係の連中でごったがえしているのは、鑑定主任の|古《ふる》|垣《がき》博士の発表がきょうおこなわれることになっているからである。この発表と同時に石川宏は病院を出て、風間邸へかえることになっているのだが、そこを取材しようというところから報道陣の混雑がいっそう大きかったわけである。  時刻はまさに夜の八時。  発表の時刻をこうして夜までおくらしたのには、警察と病院がわにひとつの計画があったからである。計画というのはほかでもない。警察がわとしても病院がわとしても、報道関係の連中の無遠慮な質問によって、患者の神経を揉み苦茶にしたくなかったのである。  だから古垣博士の発表が報道陣をひきつけているあいだに、患者をこっそり落とそうというのが警察がわなり病院がわなりの希望であった。  準備万端ととのった。  石川宏の病室の周辺からは完全にひとが遠ざけられた。口実をもうけて清掃された病室から病院の裏口までの廊下には、人影ひとつ見当たらなかった。敵をあざむかんと欲すればまず味方よりで、病院の関係者まで多くのひとは、石川宏のこの脱出には気がつかなかったのである。  時刻は八時五分過ぎ。  石川宏の病室のドアがなかから開いたかと思うと、まず出てきたのは平服の坂崎警部補。すばやく廊下のあとさきを見まわすと、片手をあげて部屋のなかに合図をする。と、その背後から出てきたのは早苗に腕をとられた兄の宏である。ふたりともレーン・コートの襟をふかぶかと立てて、うつむきがちに廊下をいそぐ。鳥打ち帽子をまぶかにかぶった宏の横顔には|憔悴《しょうすい》の色がふかかった。ふたりのあとから出てきたのは、いうまでもなく等々力警部と金田一耕助。警部もむろん平服である。  さいわい病院の裏口までだれにも会わなかった。報道関係の連中はいまむこうの応接室で、古垣博士の発表をせっせとメモにとっているのである。病院の裏口から外へ出ると、自動車が二台とまっている。 「さあ早苗君、はやくはやく」  坂崎警部補がせんとうの自動車のドアをひらいて低声でうながしたとき、早苗はきょろきょろあたりを見まわしていた。 「どうしたんだ。早苗君。さあ、はやくはやく……」 「だって……」  と、早苗は、なおも小雨そぼ降る暗がりのなかを見まわしながら、いまにも泣きだしそうな声で、 「水上さんが……」 「水上さん……? ああ、新聞記者の水上のことか。あの男がどうしたんだ」 「ここで待ってていっしょにいってくださることになってるんですけれど……」 「じゃ、なにかの都合でおくれたんだろ。いいから乗りたまえ。新聞記者に見つかるとめんどうだから。それ、見ろ、兄さんはもう乗ってるじゃないか」  と、むりやりに早苗を自動車におしこむと、バターンと外からドアをしめて、 「じゃ、運転手君、頼んだよ」  早苗も兄のそばに腰をおろすと、 「芝公園のそばまでお願いします」  と、いったものの落ち着かぬおももちで、自動車がうごきだしたあとまでも、なお未練そうに窓から首をだして、きょろきょろあたりを見まわしていたが、約束があるという水上三太は、自動車が他の病棟のあいだをすべりぬけ、西門を出ていくまで、とうとう姿をあらわさなかった。  それにしてもこのときふたりを乗せた自動車に、警察のものがひとりも同乗しなかったということが、のちになって世間の大きな非難を招いたのだが、それもまことにやむをえまい。あとにして思えば金田一耕助も等々力警部も、いまじぶんたちがたたかっている悪魔の寵児を、まだまだ甘くみていたのである。  それはさておき宏と早苗を乗せた自動車がうごきだすとすぐ、金田一耕助と等々力警部、それに坂崎警部補の三人はもう一台の自動車に乗りこんだが、自動車はいつまでたってもうごかない。ただいたずらにガタガタとエンジンが空回りをするばかりである。 「おい、どうしたんだ。はやくくるまを出さんか」  坂崎警部補がいらだたしそうに後部の座席から身をのりだすと、 「すみません。こん畜生! どうしやがったんだろう」  運転手はいまいましそうにハンドルをまわしていたが、 「少々お待ちください。エンジンが故障をおこしたらしい。ちょっと調べてみますから」  運転手が運転台からおりるのを見て、金田一耕助の顔色がさっとかわった。宏と早苗をのっけた自動車はもう影も形もない。 「運転手さん、運転手さん」 「はっ?」 「あんた、さっきわれわれを乗っけてきてから、ずうっと自動車のなかにいましたか」 「へえ、それは……」 「ほんと? ほんとに自動車のそばをはなれなかった?」 「いえ、そうおっしゃればちょっと小便に……それにどうせ出発は八時過ぎだというお話でしたので、そこらをちょっと見物していたので……」 「何分くらい自動車のそばをはなれていました」 「五分か十分……十分くらい……」 「ああ、そう、それじゃ大急ぎでエンジンを点検してください。だれかが悪戯をしたんじゃないか……」 「き、金田一先生!」  と、等々力警部と坂崎警部補がさっと座席で身をかたくした。 「そ、それ、どういう意味ですか。だれかがわれわれの自動車に故障をおこさせて……」 「いや、いや、いや! これはぼくの取り越し苦労かもしれません。しかし、われわれはさっき石川兄妹に気をとられるのあまり、運転手に注意を払うことを怠っていたようです。あの運転手、やけに大きな塵よけ眼鏡をかけていたようですけれど……」 「畜生!」  そのとき、エンジンを調べていた運転手の怒りにみちた叫びをきいて、一同はぎょっと座席のなかで腰をうかした。 「だれかが、すっかりエンジンをつつきこわしていきゃあがった!」  金田一耕助はそれを聞くとゾーッと総毛立つのをおぼえずにはいられなかった。  プラタナスの葉をたたく雨の音はますますはげしく、病室から洩れる窓の灯は明るいのだけれど、その他の世界は真っ暗である。  この雨のなかを早苗と宏を乗っけた自動車は、いったいどこを走っているのだろうか。      二  神田から芝まで自動車で三十分か四十分の距離だのに、それが九時半になっても宏と早苗をのっけた自動車が到着せぬとあっては、いよいよなにが間違いがあったとしか思えない。 「それじゃふたりは誘拐されたというのかね」  と、詰問するような風間欣吾の声は怒りにふるえて、あの陶器の皿を思わせるような大きな目玉の白いところに、ギラギラと血の筋が走っている。  そこはかつてこの屋敷が有島子爵邸であったころ、執事の一家が住んでいたところだそうだが、粗末ながらも事務室と応接室が付属しているのは、戦前富裕の評判のたかかった有島家では、地所や家作などをたくさんもっていたから、|執《しつ》|事《じ》がそこで事務をとっていたのであろう。この建物へはいる門は表門とははんたいがわの道路に面しているが、さりとて奉公人や御用聞きなどの出はいりする通用門ともちがっていて、昔はその門のかたわらに『有島家事務所』という木札がかかっていたそうだが、いまではそこに『石川宏』と書いた小さな表札がかかっている。 「まあ、まあ、そう大きな声をなさらんで。新聞記者に聞こえると厄介ですからな」  と、等々力警部も苦りきった顔色だ。  事務室と応接室の奥に日本座敷が三|間《ま》あるが、いま金田一耕助と等々力警部がちゃぶ台をへだてて風間欣吾とむかいあって坐っているのは、いちばん奥の八畳の座敷である。坂崎警部補は母屋のほうへ電話をかけにいっている。  早苗や宏より十分ほどおくれてR大の付属病院を出た三人が、ここへ着いたのは八時四十五分ごろのことだったが、金田一耕助が心配したとおり、ふたりの自動車はまだかえっていなかった。うちには風間欣吾がやとっておいた川崎もと子という付き添いの女が、詰めかけていた数名の新聞記者にとりかこまれて、おどおどと返事に困っているところだった。  三人は新聞記者をていよくあしらって、奥の座敷へかくれたが、十分待っても十五分たっても、ふたりを乗っけた自動車がかえってこないので、坂崎警部補が母屋のほうへ電話をかりにいったのがちょうど、九時ごろ。  すると、それと入れちがいに庭づたいにやってきたのが風間欣吾で、かれはいま外からかえってきたばかりとみえて、まだ洋服のままだった。  欣吾は不安そうなおももちで、かわるがわる金田一耕助と等々力警部から、宏と早苗の病院脱出の前後のもようをきいていたが、そこへぞくぞくとして押しよせできたのは、神田のほうで出しぬかれたと気がついた報道関係の連中である。  雨はこの屋敷をとりまいてはげしく庭木を鳴らしているが、報道陣はそれに濡れそぼれながらも立ち去るけしきはない。  宏はむりとしても早苗にひとめあわせろというのがかれらの注文なのだが、先着していた新聞記者の|口《くち》|吻《ぶり》から、かれらもすでにふたりの身になにか間違いがあったらしいことを察しているのである。察していればこそ、なおいっそう執拗に、宏あるいはしからずんば早苗にと面会を強要するのである。  母屋の電話と、はなれのあいだを二、三度往復した坂崎警部補が、九時半すぎふたたびはなれへかえってきたとき、針のように目が|尖《とが》っていた。 「いけません、警部さん。すっかりしてやられました」 「えっ、ど、どうしたんだ、坂崎君!」 「たったいまR大付属病院の構内で、運転手ふうの男が倒れているのが発見されたそうです」 「運転手ふうの男が」  と、風間欣吾と対座していた等々力警部は、反射的に腰をうかすと、 「こ、殺されているのか……」  と、低めた声がのどのおくでふるえている。 「いや、死んじゃいないそうです。なにが鈍器のようなもので、後頭部をやられて、まだ人事不省だそうですがね」 「じゃ、そいつがほんものの運転手で、さっきふたりを乗っけていった運転手は、にせものだったというのかい」 「どうも、そういうことになりそうなんですが……」  と、坂崎警部補は額にねばつく汗を手の甲でぬぐった。 「君たちは……」  と、風間欣吾は怒りくるう目をギラつかせて、 「いったいなにをやっとるんじゃ。だいじな証人を目のまえから奪われるなんどとは……」 「いや、風間さん」  と、金田一耕助がそばから恐縮そうに言葉をはさんで、 「あなたにご叱責をくらうまでもなく、みんな大いに責任をかんじているんですよ。ところで坂崎さん、非常警戒のほうは……?」 「それはいま本庁のほうへ電話をかけて、万事よろしく頼んでおきましたが……」 「そんなの、もう間にあうもんか……」  大喝一声、風間欣吾は三人の頭上に雷を爆発させると、 「いまごろになって非常警戒だなんどと、そんな手ぬるいことでこの事件の犯人に、対抗できると思っているのかい。そいつは悪魔みたいなやつなんだ。いや、悪魔の申し子、悪魔の寵児なんだ。そいつは美樹子を殺し、君代を殺した。そして、こんどは石川兄妹を殺そうとしているんだ。それだのに……それだのに、君たちはなぜこんなところでぼんやりしてるんだ」  欣吾の顔にはなにかしら、いても立ってもいたたまらないような|苛《いら》|立《だ》ちがありありと動揺している。 「風間さん」  金田一耕助はあいての興奮をしずめるように、しずかな調子で呼びかけた。 「あなたはいつかこの事件はじぶんを目標として行なわれているのだとおっしゃいましたね。あなたに打撃をあたえるために、だれかがやってることだとおっしゃいましたね。なるほど奥さんや保坂君代さんのばあいはそういうことがいえましょう。しかし、かりに石川兄妹が殺されるとしても、それがなにかあなたにとって、決定的な打撃となりますか」  欣吾はぎょっとしたように金田一耕助を見すえながら、 「それは……それは……石川宏はなんといってもこの事件のいちばん重大な証人なんだ。その証人を誘拐したのは……、あるいは殺そうとしているかもしれん。いちばん重大な証人を誘拐したり、殺そうとしているのは、犯人がじぶんの安全をはかろうとしていることはもちろんだが、もうひとつには……」 「もうひとつには……?」 「そいつは、悪魔の申し子は、さらにつぎの手をかんがえているのかもしれん。君代のつぎの犠牲者に、触手をうごかしているのかもしれんじゃないか」 「なにかそういう徴候が見えておりますか」 「徴候……? 徴候……?」  風間欣吾は二、三度|呟《つぶや》いて、急にまた金田一耕助を見すえると、 「妙子も益枝もそれを恐れているんだ。こんどはじぶんの番じゃないかと。だから、ふたりともおれから逃げはじめている。ていよくおれと手を切ろうと考えはじめた。弱い動物の本能で、犠牲者がじぶんの危険をいちばんよくしっている。この悪魔の申し子みたいなやつは……この悪魔の寵児はおれから女を奪おうとしているんだ。いちばんえげつない方法で、おれから女を奪い、おれに決定的な打撃をあたえようとしているんだ」  等々力警部は坂崎警部補と顔見合わせていたが、思わずちゃぶ台のはしに身を乗りだすと、 「ところで、風間さん、あなた、なにがその悪魔の申し子、悪魔の寵児みたいな人間に心当たりはありませんか」 「わしにゃよくわからん。それは望月種子かもしれんし、有島忠弘かもしれん。しかし、あいつら単独ではとてもこれだけの大仕事はできんだろうというのがわしの意見だった。しかし……」 「しかし……?」 「しかし、ふたりが合体すると……あるいはそこへ黒亀というあの妙な男が合流すると、こういうえげつない大仕事も不可能ではないのではないか……あいつらが|三《さん》|位《み》|一《いっ》|体《たい》となって協力すると……」  三人になにか暗示をあたえようとでもするかのごとき欣吾の視線には、油断のならぬ狡猾さがあり、それが坂崎警部補に反撥をおぼえさせた。 「なるほど。そいつはひとつ研究してみましょう。しかし、ねえ、風間さん、ひとつあなたご自身のことを聞かせてください。あなたが外出ささからおかえりになったのは九時前後でしたね。ところでわたし、さっき丸の内の本社へ電話をかけて訊ねたところが、社長さんなら五時半ごろ事務所を出られたとか……しかも自家用車にも乗らず、ぶらぶら歩いていかれたようだという返事だったんですが、それから九時ごろまで、あなたはどこにいられたんですか」  それにたいして欣吾はいくらか放心したように、 「わたしはさっきまで芝白金の白金会館にいたよ」 「ああ、湯浅朱実さんのいるアパートですね」  と、そばから金田一耕助が注釈をくわえた。 「ああ、そう」 「湯浅朱実さんもごいっしょだったんですか」 「ところが朱実はかえってこなかった」 「かえってこなかったとおっしゃると……?」  風間欣吾は底光のする目で金田一耕助を見すえると、 「ねえ、金田一先生、さっきもいったように城妙子も宮武益枝もわたしを怖れて逢うのを避けるようになった。電話をかけてもなんのかんのと逃げを張るんだ。そこでこんや東洋劇場へ電話をかけてみたら、七時から八時までなら体があいているから、アパートのほうへきてほしいというのだ。だからわたしは六時半ごろ朱実のアパートへ出向いていった……しかし、朱実はとうとうかえってこなかった」 「あなた劇場へ電話は……?」 「むろん、それはかけたよ。三度かけたがはじめの二度は通じなかった。八時半ごろかけたのがやっと朱実に通じたが、こんやはどうしてもつごうが悪いという。それに石川兄妹のこともあるのであきらめてかえってきたら君たちが意外な報告をもってここで待っていたというわけだ」  風間欣吾の眼光から、またしだいに、ものくるおしいかぎろいが|褪《あ》せていって、そのかわり放心したようなむなしさが眼底にひろがっていく。  金田一耕助は、そのときはじめて気がついたのである。  この男の心理状態が目下危なっかしい積み木のように安定性をかき、なにかにつけて駄々っ児のように動揺しやすくなっているのは、性生活が満足に回転していないせいではないかと。ひとりの正妻のほかに四人の愛人をもつことによって、やっとバランスがたもたれていたかれの旺盛な性生活は、こんどの事件によってもののみごとに破壊されたのではないか。かれの体内にはやりばのない精力が、そのはけぐちを求めて、休火山のようにドロドロとたぎり立っているのではないか。もしそうだとすると、それはいつ活火山の猛烈さをもって、うっくつしたエネルギーを外部へむかって噴出するかもしれぬという危険性をもつ。 「ねえ、風間さん」  と、金田一耕助はできるだけあいてを苛立たせぬように、言葉の調子に気をつけながら、 「朱実さんはもちろんいまとなっては、あなたと奥さんと朱実さんのげんざいの戸籍上の良人、有島忠弘さんとの昔の三角関係をご存じなんでしょうねえ」 「それはもちろんしっている。新聞がデカデカと書き立ておったからな」 「朱実さんはそれについてなんといってるんです」 「ただ妙な縁だと泣いておったが……」 「有島忠弘氏はあなたと朱実さんの関係に気がついているふうですか」 「それがいまもってわからん。朱実もわからんといっている。ただ昔とちがってとてもすさんでいるから、くれぐれも気をつけてほしいと朱実はいっているんだが……」  この一問一答を聞いていた坂崎警部補が、そのときそばからもどかしそうに言葉をはさんだ。 「それはそうと、風間さん、こんやあなたが白金会館にいたという証人がありますか。だれかがあなたを白金会館で見かけたというような証人が……」  風間欣吾の瞳はまた怒りにもえかけてきたが、すぐその感情を苦笑にまぎらせると、 「ところが、あいにくなことにはね警部補君、朱実の注意があるもんだから、ぼくはあそこへ出向くときには極端に顔をかくしているんだ。自家用車さえ乗りつけたことはないんだからね。あっはっは!」  最後につけくわえた笑い声には、血でもしたたりそうな物凄じさがあって、思わず三人をひやりとさせたが、 「金田一先生」  と、欣吾はそこで急に眉をひそめて、 「あなたがたはなぜこんなところでぼんやりしているんです。なぜ石川兄妹をのっけた自動車のゆくえを、探そうとはしないんです」 「いや、その答なら簡単ですよ、風間さん」  と、金田一耕助はにっこり笑って、 「ほら、ぼくはあの男のやってくるのを待っていたんですよ」 「えっ?」  と、風間欣吾のみならず等々力警部と坂崎警部補が、弾かれたようにふりかえった目のまえへ、|蹌《そう》|踉《ろう》たる足どりではいってきたのは水上三太。頭部にはいたいたしい包帯が目にしみるように白いのである。      三  その翌朝、すなわち八月十六日の未明にいたって、石川宏の誘拐はもはや決定的となってきた。それは妹の早苗だけが上野公園のなかで発見されたからである。  彼女もまた兄の宏がやられたように、左腕にモヒ系の強い薬を注射されていた。しかし、それは兄の宏の場合ほど強くなかったとみえて、ふらふらと放心状態で竹の台のほとりを歩いているところを、非常線にひっかかったのである。雨はやんだが|薄《うす》|靄《もや》が東京中に立てこめている未明五時ごろのことであった。  彼女はただちに所轄警察に保護され、そこからもよりの病院へ移された。  石川早苗発見さるの報はただちに本庁へとんで、八時ごろには警視庁から等々力警部が金田一耕助とともに駆けつけてきたが、彼女の精神状態はまだ訊き取りの段階にまで回復していなかったので、それはその日の夕方まで延期されなければならなかった。 「とにかく注射によって眠らされ、どこかの軒下へでも放り出されていたんでしょうねえ。レーン・コートにそうとう泥がついてますが、そのわりにゃ雨に濡れていなかったんです」  と、上野の捜査主任|橘《たちばな》警部補が説明するそばから、 「危ねえもんでさ。上野みたいなところへあんなべっぴんを、ひと晩放り出しておくなんてな。よくまあ餓鬼みてえな連中に、よってたかっておもちゃにされなかったもんだと思いましたよ」  と、早苗発見の殊勲者、中西という刑事が顔をしかめた。 「じゃ、そういう形跡はなかったんですね」  金田一耕助がそばから念をおすと、 「それゃなかったようです」  と、橘捜査主任がひきとって、 「さいわいひとめにつかぬところへ放りだされていたんでしょうな。もっとも犯人のがわだって彼女があんまり早く発見されることは好ましくなかったでしょうからね。それに薬がほどよく利いたもんで、もう二、三時間はやく覚醒して、あんなところをふらふらしていたら、それこそ危なかったでしょうがねえ」  金田一耕助と等々力警部はY病院へまわってみたが、彼女は鎮静剤をのまされてよく眠っている最中だった。この睡眠からさめると意識も常態に復するだろうが、それはおそらく夕方になるだろうという院長の話に、ふたりはいちおう警視庁へひきあげたが、その日の正午ごろまでには石川宏誘拐のてんまつは、だいたいつぎのように想像されるにいたった。  早苗が宏を迎えにいこうと、芝でやとった自動車の運転手に間違いはなかったのである。その運転手は名前を河合善太といって、芝ハイヤーに属する車だった。かれはR大付属病院まで早苗を送っていくと、早苗の要請によってそのまま八時過ぎまでそこに待つことになった。かれらがそこへ到着したのは七時ごろのことであった。  ところが七時半ごろ自動車のそばへやってきたのが、大きな塵よけ眼鏡をかけた男だったが、河合運転手にはその男のことをただ、そういうふうにしか表現できなかった。ちょうどあたりが暗くなりかけていたし、それにはほんのちょっとのまでカタがついたからである。その男に道をきかれて河合運転手はなにげなく運転台から外へ出たが、そのとたん後頭部に一撃をくらって人事不省におちいってしまったのであるというのが、意識を回復した後におけるかれの供述だった。  したがって金田一耕助と等々力警部、坂崎警部補の三人が裏口へ自動車を乗りつけたときには、早苗の自動車の運転手はすでにひとが変わっていたわけである。そして、こうして盗まれた自動車は八月十六日の午前十時頃、神宮外苑の絵画館のまえに乗りすててあるのが発見されたが、むろん中はもぬけのからだった。  さて、いっぽう東都日報の水上三太だが、かれの申し立てによるとこうである。八時ごろR大付属病院の精神病棟の裏口で、早苗と落ち合うことになっていたかれは、七時半ごろ有楽町にある社をとびだした。あいにく社の自動車が出払っていたのである。  そこで三太は流しのくるまを拾うつもりだったが、東都日報社のある付近はとくに流しの拾いにくいところなので、かれはお堀端まで歩くつもりだった。そのお堀端へ出るためにはいわゆるビルの谷間を抜けるのが近道である。そのビルの谷間のなかほどまできたとき、かれもまた河合運転手とおなじように、後頭部にするどい一撃をくらって人事不省におちいったというのである。  しかし、水上三太のこの申し立てにたいして、いちばん不信の念を示したのは新井という老練の刑事であった。 「どうもやっこさんくさいですぜ。そうあっちでもこっちでも後頭部に一撃くらってのびるのが流行っちゃあねえ」  と、新井刑事はせせらわらった。  水上三太はそれきり気をうしなってしまったが、こんど正気にかえったら、ひとめにつかぬビルの中庭の一隅にねかされており、しかも時刻はもう八時半をしめしていた。そこで、もよりの医者へよって手当てをうけ、それから芝の風間邸へかけつけたのだが、襲撃者については長いレーン・コートを着ていたという以外に、なんの記憶もないといっているのだが…… 「だけど有楽町にある原田医院というのを調べてみたら、たしかにゆうべ九時ちょっとまえ、水上三太がやってきたといっているんだ。しかも、後頭部はそうとうひどい打撲傷をうけていたというんだがね」  と、これは西井刑事の証言である。  そこは警視庁の第五調べ室。ブーケ・ダムール会館事件の捜査主任、坂崎警部補も出張してきて、早苗の覚醒するまでの時間を利用して捜査会議というわけである。金田一耕助はオブザーバーというかっこうで、例によって例のごとく、眠そうな目をショボショボさせている。 「しかし、水上三太の申し立てがただしいとすると、石川宏の供述とも一致しますね」  と、坂崎警部補は思案顔で、 「水上が襲撃された時刻と河合運転手がやられた時刻は、時間的にほぼ一致しています。とすると、雨男の仲間はふたりいるということになりますが、これは石川宏の供述にある、レーン・コートの男がふたりに割れたというのと一致するじゃありませんか」 「しかし、ねえ、主任さん」  と、新井刑事はまだ執拗に、 「水上という新聞記者、あいつにはもっと注目しておいたほうがいいですぜ」 「新井君、あの男に関してなにか疑わしいふしでもあるのかね」  と、いう等々力警部の質問にたいして、 「いや、まさかあいつが犯人だとは思ってませんがね、なにかしら、われわれにかくしてることがあるにちがいないんです」 「と、いうと、どういうこと?」 「やっこさん、望月種子と黒亀という男のふたりに関して、なにか握ってるんじゃないかと思うんですがね。ひまさえありゃ望月蝋人形館を見張ってるんです。ありゃ一昨昨日の夕方のことでしたが、黒亀が例の人形館から|這《は》いだしてきたんです。すると、どこにかくれてたのかやっこさんが、そっと木陰から這いだして、黒亀のあとをつけようとしたんですがね。ところがおっとどっこいテキもさるもの、これが望月種子と黒亀の罠だったらしいんです」 「罠というと……?」 「なあにね、ふたりはちかごろ、だれかにしじゅうつけられているのに気がついたんですね。それで尾行者がだれかつきとめてやろうてえわけで、黒亀がわざとうさんくさいかっこうで、人形工房から這いだしたってえわけです。いっぽう望月種子のやつが人形館の二階からようすをうかがっているともしらず、水上のやつがものかげからのこのこ這いだしたからたまりませんや。|曲《くせ》|者《もの》、動くな、手をあげろ! てえわけで、種子のやつが二階の窓から猟銃でねらいをつけたにゃ、こっちもおどろいたが、水上のやつもきもをつぶしてしまいましたね」 「猟銃でねらわれたんですか、水上三太君が……?」  と、隅のほうから声をかけたのは金田一耕助である。もしそれがほんとうだとすると、水上三太が飛び道具で望月種子におどかされたのはこれで二度目である。 「ええ、猟銃だって弾丸はつめてなかったんですがね。それでもぴたりと狙いをつけられちゃいい気はしませんや。なにしろあいてがあいてですからね、水上のやつ、蛇にみこまれた蛙のように立ちすくんでいるところへ黒亀がひきかえしてきて、そのふたりの押し問答をものかげできいていて、水上がちかごろとくにあのふたりに、目をつけているらしいってことをしったんです。ちょっとした騒動になりそうなところへわたしがとびだして、まあその場はおさめたんですがね」 「望月種子と黒亀といやあ、あいつら大丈夫かな、ゆうべは……」 「いや、それはわたしが調べてきましたがね」  と、デスクのうえに乗りだしたのは西井刑事。 「ふたりとも、ゆうべからけさにかけて一歩も外出しなかったといってるんですが、これにゃ証人がないんでしてね。なんしろあそこは隣近所のない一軒家ですからな」 「種子と黒亀のうち自動車の運転ができるのは……?」 「種子ができるそうです。これは戦前から運転手の免許状をもってるんだそうで……」 「雨男の仲間がふたりだとすると、あのカップルは要注意人物ということになってくるな」  と、等々力警部は思案顔でつぶやいたが、雨男の仲間がふたりいるということは、早苗の覚醒をまっていよいよはっきりしてきたのである。  その日の四時ごろY病院の一室で覚醒した早苗は、係官のまえでつぎのごとく供述している。 「西側の口の門から病院を出たとき、自動車が反対がわへ走りますのでわたしが注意しますと、新聞記者をまくためにわざとこうするよう、警察のひとから注意をうけたと運転手が申します。そこでわたしもそれもそうかと思って気にもかけませんでしたら、自動車は|不忍池《しのばずのいけ》をまわってそのまま上野公園へはいっていきました。そして動物園わきの淋しいところでとまりましたので、どうしたのかと訊ねると、あとからくる警察の自動車を待つのだといってましたが、それはうそで、あらかじめ打ち合わせしてあったのでしょう、待ち伏せしていたレーン・コートに黒眼鏡の男がピストルを片手にとびだしてきて……」  運転手とふたりがかりでむりやりに、彼女の左腕に注射をしたのであると、早苗はおびえきった調子で訴えるのである。  それにしても石川宏誘拐事件のあとにくるものはなにか、……それは当然、石川宏殺害事件ではないかと、世間のひとたちは手に汗握ってその後のなりゆきを見まもっていたが、表面にあらわれたところではそういう事実もなく、一週間と過ぎ、二週間とたち、|暦《こよみ》はもう九月にはいっていたが、その上旬のこと、ひとびとは、またしても血も凍るような恐怖のどん底にたたきこまれたのである。  それは九月四日の未明のこと。  そこがどこだかわからないけれど、煌々たる電灯の光に照らされたベッドのうえに、女がひとり正体もなくのたうちまわっている。女は、風間欣吾の愛人のひとり宮武益枝なのである。煌々たる電灯の光のもとに全身の曲線をむきだしたまま、宮武益枝は恥ずるけしきもない。  下半身の曲線の蛇のうねりを思わせるようなのたうち[#「のたうち」に傍点]といい、おりおりもらす深い吐息といい、いささか色あせた唇といい、ゆうべからけさへかけて宮武益枝がだれか男と、歓をきわめつくしたあとであろうことは、いまさら説明するまでもない。益枝はいま強烈な刺激のあとの陶酔に、ベッドのうえをのたうちまわって夢幻境を|彷《ほう》|徨《こう》しているのだ。  それにしても益枝をこうも責めさいなんだのは、いったいだれか。彼女のパトロン風間欣吾か。  いや、いや、それはいつもの風間欣吾ではないらしい。いつもの風間欣吾は愛人を愛撫するとき|媚《び》|薬《やく》を使うようなことはないはずである。  それにもかかわらず、いまげんにベッドのうえをのたうちまわっている宮武益枝はあきらかになにかしら強烈な媚薬の作用によって、おのれを忘れ果てているのである。  とつぜん、かすかな衣ずれの音がきこえたので、そのほうへ目をむけると、枕もとの床に立っている大きな電気スタンドのシェードの外の薄闇に男がひとり立っている。その男はいま益枝から体をはなしてしずかに身づくろいをはじめたのである。身づくろいをしながらも、男の目はつめたい残忍さをおびて、ベッドのうえの女の狂態を見つめている。  やがて身づくろいができた。  長いレーン・コートにフードにタング、用心ぶかく黒眼鏡をかけなおすと、男はふたたびベッドのうえに身をふせて、女の裸身を抱きすくめる。女はまた抱いてもらえるのかと、目をつむり、唇をすこし開いたまま、下から腕をのばして男の首にまきつけると、 「抱いて……もう一度抱いて……」  と、夢見るような声である。  だが、男の抱いたのは女の弱腰ではなかった。  黒い手袋をはめた両手が女の細首をがっちりつかんで、その指先にしだいに力がこもっていく……。     第十五章 |覗《のぞ》かれた愛戯      一  欣吾はやっと女の体をはなした。  朱実はまだ目をとじたまま恍惚としてベッドのうえに裸身をよこたえている。ふっさりと長い睫毛がふかい陰影をきざんで、きめのこまかな卵型の顔がこころよい満足に陶酔しており、すこし|綻《ほころ》んだ唇のあいだからのぞいている歯並みがよくそろっていて、真珠のようにうつくしい。  欣吾のほかの愛人たちとちがって、朱実は|華《きゃ》|奢《しゃ》で繊細である。手も脚も腰もほっそりとしているが、しかし、それはけっして|脆弱《ぜいじゃく》なかんじではなくて、どうしてどうしてのびのびとしたその肢体には、しなやかな|強靭《きょうじん》さがある。なるほど腰はくびれてほっそりとしているが双の乳房はよく発達しており、警部の肉付きもゆたかである。  欣吾はベッドのうえに起きなおり、しみじみとした目でこのうつくしい工芸品のような女の肢体をみていたが、やがてかるく肩をだいて象牙のようにつややかな頬に唇をよせる。女はまだ目をとじたまま、にっと微笑んで、 「パパ……」  と、いくらかものうげな甘い声で、 「どうなさる? これから会社へいらっしゃる?」 「ああ。おまえはどうする? もうそろそろ楽屋入りの時間じゃない?」 「いま何時かしら? ちょっと時計をみてえ」  この寝室にはわざと時計がそなえてないので、欣吾は枕もとの小卓においた腕時計を手にとって、 「もう一時半だよ。二時までに楽屋入りをしなきゃならないんだろ」 「そうねえ」  と、朱実はたいぎそうに、 「それじゃ急がなきゃならないわね。でもねえ、パパ」 「どうしたの?」 「あたし、ちかごろだんだん舞台がおっくうになってきたの。なんだかつまらなくなってしまって」 「どうしてさ。おまえいま人気絶頂というところじゃないか。やっぱりあの事件を気にやんでいるんじゃないのか」 「いいえ、そうじゃないわ」  と、朱実はやっぱり目を閉じたまま、 「あたし死ぬことなんか怖くはないのよ。いっそ死んでしまいたいと思うことだってたびたびあるわ。だからパパのほかの愛人みたいに、あの事件のためにパパと別れようなんてぜったい思わないわ。でもねえ、パパ」 「なあに?」 「パパはどうなの? あたしそのものを愛してくださるの? それともあたしの人気を愛してくださるの?」 「そりゃ、もちろん、おまえそのものを愛しているさ」 「そうお、それじゃミュージカルの女王の湯浅朱実じゃなくて、ただの山本ウメ子……平凡な|糟《ぬか》|味《み》|噌《そ》くさい女になっても、やっぱり今までどおりあたしを愛してくださる?」 「そりゃ、もちろん、そうだとも」  と、そういったものの欣吾の言葉はちょっと咽喉にひっかかってかすれたようだ。朱実もそれに気がついたのか、はじめてパッチリ目を開くと、下からまぢかにまじまじと男の顔を見つめていたが、どうしたわけかふいにその目がぬれてきて、ほろりと涙がまなじりから耳のほうにつたって流れた。 「おい、どうしたんだ。なにを泣くんだ」  欣吾はおどろいたように上から強く女の体を抱きしめたが、朱実はきゅうにそれを撥ねのけると、 「いいえ、なんでもないのよ。お馬鹿さんね、あたし、泣いたりして……さ、もう起きましょう。バスの用意をしますから、パパも会社へおいでになって!」  と、勢いよくベッドのうえに|跳《と》び起きたが、そのとたん、 「あら!」  と、毛布を胸にひきよせると男の体に抱きついた。  朱実がとびおきたしゅんかんに、カチッとシャッターを切るような音がしたかと思うと、正面の壁にかけてある水彩画の額がガタンとひとゆれゆれて、時計の振り子のようにふらふらしている。 「だれか!」  欣吾はとっさにいつか雨男がとどけてよこした、保坂君代の裸体写真を思い出したが、そのとき隣室のドアをひらいて玄関へ走る靴の音がした。 「だれか!」  欣吾は怒り心頭に発したが、曲者を追いかけられるような姿ではない。大急ぎでパジャマのパンツに両脚をつっこむと、上衣に腕をとおしながら寝室のドアを開いたが、むろんひとの姿はすでに見えない。玄関へ出てみるとドアがすこし動いているが、そこから顔をのぞけてみても、もう廊下にもひとの影はみえなかった。  欣吾はつよく歯ぎしりをして、顔をうちへひこうとしたが、そのときむこうの階段に頭がひとつ浮かんできた。|把《とっ》|手《て》を手にしたまま見ていると、頭のつぎにうかんできたのは、なんと水上三太の顔ではないか。  欣吾ははっと把手をつよく握りしめ、そのままようすをうかがっていると、三太は部屋の番号や表札をしらべながら、しだいにこちらへちかづいてくる。きょうも表は雨なのでレーン・コートを着ているのにふしぎはないが、それでもそのとき欣吾の目には、なにかしらそれがまがまがしいもののようにうつって、思わず目をとがらせた。  三太はとうとう欣吾の姿を見つけた。パジャマ姿の欣吾をみると、にやっと笑いかけた。  風間欣吾は疑わしそうに、ちかづいてくる水上三太の顔を見まもりながら、 「水上君! 君はなにしにこんなところへ……」 「いや、ちょっと……いま会社のほうへお電話したところ、正午ごろお出掛けになったという話なので、たぶんここじゃないかと思ったもんですから」 「なにか用かい」 「ええ、ちょっと……」  欣吾は背伸びをするようにして三太の背後の廊下を見ながら、 「君、階段のとちゅうでだれかに会やあしなかったかい」 「いいえ、だれにも……どうかしたんですか」  と、三太もふしぎそうに眉をひそめて、背後の廊下をふりかえっている。  |白《しろ》|金《がね》会館にある朱実の部屋は三階にあり、むろんエレベーターもついている。しかしいまここから飛び出していった男が、エレベーターを利用しようとは思えない。エレベーターを利用するということは、エレベーター係に顔を見られるということである。当然、そいつは階段のほうへ逃げていったはずなのだが……。      二 「まあ、こっちへはいりたまえ」  しばらく三太の顔を見まもっていたのちに、やっと欣吾は体をひらいて三太を通した。 「そっちのほうで待っていてくれたまえ」  と、応接室のドアを指さし、じぶんはそのまま寝室へとってかえすと、素肌にガウンをはおった朱実が、額のかかった壁の下に立っていて、 「パパ、だれ……? お客様……?」 「うん、新聞記者だよ。東都日報の水上三太という男だ」 「ああ、いつかパパが話していらした」 「うん、そう」  見ると額と下の壁際には椅子がひとつおいてある。 「朱実、額のうしろを調べてみた?」 「ええ、パパもちょっとごらんになって?」  長身の風間欣吾は椅子を利用するまでもなく、背伸びをすると額へ手がとどく。額をちょっと斜めにずらせてみると、直径三センチほどの穴がくりぬいてある。 「朱実、この壁のむこうは台所だったね」 「ええ、台所のそなえつけの戸棚になっているはずよ。あたしちょっといってみたんだけど、だれかがやってきたもんだから」  台所は玄関をはいったすぐとっつきにあり、応接室のドアとむかいあっている。 「まさかあいつが……」 「あいつッてだれ……」 「いやさ、いまむこうにきている水上三太という男さ」 「まあ。新聞記者がどうしてそんな……」 「だからまさかと思うんだが……朱実、おまえだれか見当がつかないかい!」 「パパ、ひょっとするとあのひとじゃない?」 「あのひとってだれ?」 「有島忠弘……」  有島忠弘の名を口にするとき、朱実の目には嫌悪の色が走った。欣吾はうえからその目を覗きこみながら、 「忠弘君がこんなことをして、いったいどういう目的だろう」 「きっと脅迫かなんかにつかうつもりよ。パパはまだあのひとをよくしらないんだけど、あのひと昔とすっかりひとがちがっているのよ。もう昔のお坊っちゃんじゃないわ。あのひとガラガラ蛇みたいなひとよ。あたしいやだわ、いやだわ。あたしとっても恥ずかしいところをとられてしまったにちがいないわ」 「しっ、静かにおし!」  興奮してしだいに声の高くなる朱実の顔を自分の胸に抱きよせて、欣吾はやさしく頭をなでてやりながら、 「大丈夫だよ、朱実、なにも心配することはないさ。忠弘君が脅迫のためにあんな写真をとったのなら、いさぎよく脅迫されてやろうじゃないか。いくらでもフィルムの代償を払ってやるよ」  しかし、それが単なる金銭的な|強請《ゆ す り》ではなく、保坂君代のあの裸体写真の二の舞いだったら……? そう考えると欣吾は背筋も凍るような恐怖をおぼえるのだが、それは口に出していうべき言葉ではなかった。 「朱実、もう泣くのはおよし、それより大急ぎでバスの用意をしておくれ。おまえも楽屋入りをしなければならないんだろ」 「すみません、パパ」  と、欣吾の胸に顔をうずめて泣きじゃくっていた朱実はやっとうしろへさがるとガウンの袖で涙をぬぐいながら、 「パパ、あたしもむこうへきているひとに会わなきゃいけないの?」 「いいよ、いいよ、おれが応接室のドアをしめておいてあげるから、おまえこっそり抜け出しな」 「パパ、そうして……」  それから十分ののち、バスを使って身支度をととのえた風間欣吾は、寝室を出ると応接室へいくまえに、むかいの台所へはいってみた。  なるほど台所の配膳棚のうえに、つくりつけの戸棚があるが、その戸棚のガラス戸が大きく左右にひらいており、その奥の壁に直径三センチほどの孔があいている。この棚は日ごろあまり使わない鍋類がおいてあるらしく、おそらくその鍋の類で孔がかくしてあったのだろう。棚のまえには木製の椅子がもってきてあるが、そのうえにくっきりとゴム長らしい靴の跡がのこっている。  それにしてもこのいかがわしい|閨《けい》|房《ぼう》のぞきの犯人は、いつここへ忍んできたのか。じぶんたちが歓喜の|坩《る》|堝《つぼ》をたぎらせているさいちゅうに、廊下のドアからしのんできたのであろうか。いや、いや、そうは思えない。  欣吾がここへやってきたのは十二時半ごろのことであった。ふたりはそれからすぐにベッドへいったのだが……  そうすると犯人は朱実が午前中買い物にでも出ているすきに、ここへ忍びこんでいて、このフラットのなかのどこかにひそんでいたのか。それとも……?  とつぜん欣吾は頭髪の根という根がじっとり濡れてくるような不安をおぼえた。まさかいまむこうでバスをつかっている女が……?  馬鹿な! 馬鹿な! そんな馬鹿なことが……。  朱実がなにをすき好んで、おのれの浅ましい写真をぬすみ撮りするような人物を、このフラットにかくまっておくというのだ……。  だが、それにもかかわらず、いまふっと欣吾の念頭をかすめた疑惑は、不快なしこりとなって肚の底に沈澱していた。  いずれにしても、そういう疑惑が去来している以上、応接室へはいってきた欣吾の顔が、きびしくこわばっていたのもむりはない。 「やあ、お待たせしたね。まあ、掛けたまえ」  用心ぶかく応接室のドアをしめながら、部屋のなかへ目をやると、水上三太は窓のそばに立っていた。その窓からはこの白金会館の側面が見おろせるのである。 「ああ、いや」  と、弾かれたようにこちらをふりかえった水上三太は、きびしい欣吾の顔をまじまじ見ながら、 「風間さん、あなたさっきぼくに妙なことを聞いていらしたが、だれかこの部屋へ忍びこんだものがあるんじゃありませんか」 「どうしてそんなことを聞くんだ」 「いえね、さっきここへ通されて、なにげなくここから下を見ていたんですが、すると、このすぐ下の横の出口から、男がひとりとびだしていきましたよ」  欣吾は無言のままあいてのつぎの言葉を待っている。かれはもうだれも信用できなくなっているのである。 「レーン・コートにフードをかぶった男です。うしろ姿だけですから、むろんだれだかわかりませんが、カメラを肩にかけていたようでした」      三  この男のいうことはほんとうかもしれない。じっさいにそういう男を見たのかもしれない。しかし、またこの男じしんがいま台所の木製の椅子に印せられているゴム長のぬしで、それがすばやくゴム長やカメラをどこかへかくして、なに食わぬ顔でひきかえしてきたのかもしれないのである。白金会館のこの|翼《よく》から下へおりるには、エレベーターと、さっきこの男がのぼってきた階段を利用するほかに道はない。それにもかかわらずこの男は、だれにも会わなかったといっている……。 「まあ、いいから掛けたまえ。その話はよそう」 「ああ、そう」  三太もそれほど鈍感な男ではない。あいての瞳をおおうている|猜《さい》|疑《ぎ》と不信の色をみてとると、|挑《いど》むようにぐいと肩をそびやかして、指さされた椅子に腰をおろした。 「朱実さんは……? まだいるんでしょう」  そんなこと聞くまでもあるまいというふうに、欣吾は眉をつりあげた。高級アパートとはいえ、そんなに広いフラットではない。バスを使う音がきこえているのである。 「いや、どうも失礼いたしました」  三太がかるく頭をさげると、 「朱実は君に会いたくないといっている。また会う必要もあるまい」 「けっこうですとも。ぼくの会いにきたのはあなたなんですから」 「どんな用……?」 「はあ」  三太はにわかに体をのりだすと、 「あなた、|及《おい》|川《かわ》|澄《すみ》|子《こ》という婦人をご存じじゃありませんか」 「及川澄子……?」  水上三太の不意打ちはたしかに功を奏したのである。欣吾ははじかれたように体を起こして、また眉が大きくつりあがった。 「君は……だれに……そんな名前を聞いてきたんだ」  と、|喘《あえ》ぐような調子である。 「だれにでもいいです。それはどういう婦人で、あなたとはどういう関係があるんですか」  欣吾は黙ってこたえない。ただまじまじとあいての顔を見すえているが、その顔色にはふかい警戒の色がある。 「風間さん、答えてください。及川澄子というのはどういう女なんです。あなたのかくれた愛人なんですか」  そのとき、欣吾の顔に奇妙な微笑がうかんだので、おや、これはちがったかなと、三太は心中で舌打ちした。 「水上君」  と、こんどは欣吾のほうが身を乗りだして、 「君はいったいどこでそんな名前をきいてきたんだね。それをいってくれたらあるいはわたしも話してあげるかもしれない」  三太はしばらくあいての顔を見ていたが、やがてほろ|苦《にが》い微笑をうかべると、 「風間さん、契約は正確に|履《り》|行《こう》していただきたいですね」 「契約というと……?」 「ほら、いつか約束したじゃありませんか。金田一耕助先生に提供するほどの情報なら、ぼくにも提供してくださると……」 「その約束なら履行しているつもりだが……」 「それじゃ、ぼくにも及川澄子という婦人について話してください」  欣吾ははっとしたように、 「それじゃ、金田一先生が……?」 「そうですよ。あなたの友人を訪ねては、及川澄子という婦人についてきいてまわっているようです」 「金田一先生が……? 及川澄子のことを……?」  |茫《ぼう》|然《ぜん》たる欣吾の顔色をみて、三太はまた内心おやと思った。この顔色にうそいつわりがあろうとも思えない。 「それじゃ、あなたが金田一先生に及川澄子のことをお話になったんじゃないんですか」 「いいや、わたしは話さない。いま君にいわれるまで、わたしはずいぶんながいあいだ、その女の名を忘れていたんだ。思いだすことさえたえてなかったくらいだ。そうそう、そういう女がいたっけ」 「そのひととあなたとは、いったいどういう関係にあるんですか。いや、あったんですか」  欣吾はするどく三太を注視しながら、 「水上君、金田一先生は、ほんとうにその女のことを調査していらっしゃるのかね」 「どうやらそのようですね」 「しかし、君はどうしてそれをしってるんだ」 「いや、これはちょっと狡猾なやりかたかもしれませんけれどね、金田一先生の行動を監視するというのも、ひとつのいきかただと思ったもんですから……」 「しかし、それなら金田一先生はなぜそのことについて、直接おれに聞こうとしないんだろう」  欣吾の額にふかい皺がぎざまれたが、そのときドアの外から、 「パパ……パパ……」  と、朱実のひくい声がきこえた。 「ああ、そう、ちょっと失敬」  欣吾は部屋を出ていくと、用心ぶかく外からドアをしめたが、三分ののち朱実が廊下へ出ていく気配がして、欣吾が部屋へかえってきた。  欣吾はもとの席へつこうとはせず、ドアのそばに立ったまま、 「水上君、いっとくがね、金田一先生がどういう必要があって、その女のことを調べていらっしゃるのかしらないが、及川澄子というのは過去の女なんだ」 「過去の女とおっしゃると……?」 「過去も過去、いまから二十年以上もまえに死んだ女だ」 「しかし、あなたとはどういうご関係……?」 「おれとか……まあ、いってみればおれの人生をちらと影のように横切った女……そうだ、走馬灯のようにおれのまえへ現われて消えていった女なんだ。じゃ、ぼくも急ぐからこれで……」  もうこれでかえれという合図なのだろう。ドアをあけてみずからさきに立って部屋を出た。水上三太もしかたなしにレーン・コートをとって立ちあがったが、そのとき寝室のほうからけたたましい電話のベルがきこえてきた。 「ああ、ちょっと失敬」  三太も応接室の外へ出たが、そのとき寝室からきこえてきた欣吾の声をきくと、思わずそこに立ちどまった。 「ああ、湯浅朱実の部屋……なんだ、早苗か……どうしたの? えっ、警察のひとがきてるって? な、なに、なんだって! 益枝がゆうべからかえらないんだって……?」  三太はそれだけ聞くと、廊下の外へとびだしていた。     第十六章 奇妙な取り合わせ      一  一年は三百六十五日ある。時間にすると八千七百六十時間だ。さらにこれを分になおすと、五十二万五千六百分。  犠牲者がいかに警戒するとしても、そのながいあいだを、絶えず緊張しつづけていることは不可能であろう。いつかは緊張の|弛《し》|緩《かん》するときがくる。油断をする瞬間がやってくるだろう。  この事件の犯人悪魔の寵児はそこを|狙《ねら》っているのである。犠牲者のほうではガラス張りのなかで生活しているのに、犯人は暗闇のなかにひそんでいるのである。そして|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|々《たん》と犠牲者の行動をうかがっているのである。これではたまったものではない。 「ええ、あたしゆうべたしかに益枝さんに会いましたよ。新宿のブルー・リボンというバアのスペシャル・ルームなんです」  カステロの城妙子の目は狐みたいにつりあがっている。頬が結核患者のように紅潮していて、唇がかさかさに乾いている。彼女は両手で椅子の腕木をひっつかんで、あやうく卒倒するのをまぬがれているのである。  九月四日の午後四時。  そこは芝公園わきにある風間邸の応接室で、早苗の電話で欣吾もかえっている。等々力警部に金田一耕助、坂崎警部補のほかに刑事もおおぜい詰めかけている。そのものものしい空気のなかに、城妙子の金切り声がひびきわたるのを、早苗は部屋のすみで肩をすくめて聞いている。 「あたしたちがブルー・リボンで落ちあったのは、ゆうべ七時ごろでした。ブルー・リボンのマダムというのがあたしの友達なんです。用件はそのひとと……」  と、マントル・ピースのそばに立っている風間欣吾を指さしながら、 「別れ話について相談するためでした。あたしたちはそのひとを恐れているのです。ひょっとするとこのひとは、じぶんの|弄《もてあそ》んだ女をかたっぱしから殺していくという殺人|淫《いん》|楽《らく》|者《しゃ》ではないかと……」 「いや、まあ、まあ、マダム」  と、等々力警部はおだやかにあいてをなだめながら、 「感想は感想として、ここではひとつ事実だけをきかせてください。ゆうベブルー・リボンのスペシャル・ルームで七時ごろ宮武益枝さんと落ちあって、それから……?」 「あたしどもは二時間ほどそこにいました。そのあいだ何度も何度もそのひとのことについて検討しました。あたしたちはふたりともそのひとを恐れているのですが、じぶんだけこのひとと手を切るのはいやだったんです」 「と、いうのは……?」 「もし、そのひとが殺人淫楽者でなかった場合、馬鹿をみるからです。益枝さんにこのひとをひとり占めにされるのがくやしいからです。益枝さんのほうでもおなじことでした。それがあたしたちふたりとも、このひとを恐れながらも、いままで別れられなかった理由なんです」  風間欣吾はマントル・ピースの棚に片手をおいて、奇妙な目つきで妙子をみている。そこにはべつに怒りもなければ軽蔑もない。なにかしら一個の商品でも見ているような、冷酷な非情さがそこにある。 「なるほど、それじゃ風間さんと手を切るならふたり同時に……つまり共同作戦を張ろうというわけですね」 「そうです、そうです、そうですの」  と、妙子は指にまいたハンケチで、額の生えぎわから吹き出してくる、ねっとりとした汗をぬぐいながら、ねつい、ヒステリックな金切り声をあげた。 「それで……?」 「それでいろいろ検討した結果、それではふたりでこのひとに電話をかけようということになったのです」 「それで、電話をかけたの?」 「はい、かけました。まずこの家へかけたんですけれど、まだかえっていないという挨拶だったので、会社のほうへかけたんです。そしたらそのひとが出てきました」 「風間さん、そのとおりでしょうねえ」  風間欣吾は無言のままうなずいた。あいかわらず瞳は冷酷な非情さをひめて、陶器の皿のかたさを思わせる。 「それでマダムは風間さんになんといったの?」 「別れてくださいといったんです」 「風間さんはなんと返事をしました」 「考えなおすようにといったんです」 「それで……」 「それでも別れてください。お暇を頂戴しますとつっぱって、そのまま電話を益枝さんにゆずったんです」 「それで、益枝さんは……?」 「益枝さんもおなじことをいってました。そしたら、やっぱり考えなおすようにといったらしく、益枝さんもかさねておなじことを主張しておりました。ところが……」 「ところが……?」 「このひとがいまどこにいるのかと聞いたらしいんです。そしたらよせばいいのに益枝さんが、正直に新宿のブルー・リボンにいるといってしまったんです。あたしはっと思ったんですが手おくれでした」 「風間さんはそのブルー・リボンというのをご存じですか」 「しっています。二、三度いっしょにいったことがあるんです。ブルー・リボンのスペシャル・ルームにはベッドがあるんです」  こういうことを|恬《てん》|然《ぜん》と語るところに、妙子の心理の異常さがある。彼女は恐怖と|貪《どん》|婪《らん》な物質欲のジレンマにおちいっているのである。まえにもいったように風間欣吾は筋さえ通れば、太っ腹なパトロンなのだから。 「それで……?」 「益枝さんもこちらのいどころをいってから、しまったと思ったんでしょ。すぐに電話をきったんです。そのときすぐふたりともブルー・リボンを出ればよかったんですけれど……」 「あとしばらくそこにいたのかね」 「ええ、一時間くらい……。そこのマダムがあそびにきたもんですから三人で飲んだんです。あたしはバアをやってるくせにあんまり飲めないんですけど、益枝さんはそうとう強いんです」 「何時ごろそこを出ました?」 「九時ごろでした」 「すると益枝さんはそうとう酔っ払っていたんだね」 「はい」 「それで、ふたりともすぐ自動車に乗ったの」 「あたしはすぐ乗りました。そうそう、ブルー・リボンのまえでは自動車がはいらないのです。それで大通りへパークさせてあったんですが、益枝さんの自動車はどこへいったのかそのへんに見えなかったんです。益枝さんはきょろきょろそれを探しているのをおきざりにして、あたしはかえってしまったんです。それがあたしの益枝さんを見たさいごです」      二 「ではこんどは風間さんにお話をうかがいましょう」  等々力警部が欣吾のほうへむきなおったとき、電話のベルが鳴りだした。早苗が受話器をとりあげてふたこと三こと聞いていたが、 「あの……警察のかたへ……」 「ああ、そう」  坂崎警部補が受話器をとって、しばらくあいてと話していたが、その顔ににわかに緊張の色がきざしたのは、なにが異常な報告があったせいだろう。 「ふむ、ふむ、それで水上三太がやってきたと? ……それ、何時ごろ……? いまから一時間半ほどまえだとすると、三時ごろのことだね。それで黒亀がいないとしるとすぐ立ち去ったんだね。それで、種子はどういう調子なんだい? ああ、ああ? そりゃあね、あのばばあの気持ちはだれにもわからないやね。ああ、そう、ともかくよく注意していてくれたまえ」  坂崎警部補は受話器をおくと、 「あの……」  と、早苗は気づかわしそうに、 「水上さんがどうかなすったんでしょうか」 「ああ、いや」  と、坂崎警部補はそのほうへふりむきもせず、広い応接室の一隅へいくと、 「ちょっと警部さん、金田一先生」 「ああ、そう」  ふたりがそのほうへいくと坂崎警部補が声をひそめて、 「黒亀がゆうべからかえらないそうです。種子はあいかわらずスフィンクスみたいな顔をしていて、なにを考えているのかわからないそうですが、三時ごろに水上三太がやってきて、黒亀がいないときくとそのままどこかへいってしまったそうです」 「東都日報の水上三太なら……」  と、むこうから風間欣吾が声をかけた。 「さっき白金会館へやってきたよ」 「えっ? 水上三太が……?」 「ああ、そう、早苗から電話がかかってきたとき、あの男、まだフラットのなかにいたんだ。だからわたしの声であの男は、当然、益枝がゆうべからかえらないことをしってるはずだ。電話をかけおわって部屋を出てきたら、あの男はフラットにいなかった」 「それ、何時ごろのこと……?」 「早苗が電話をかけてきたときだから、君たちのほうがよく時間をしってるはずだが……」 「すると、二時ちょっとまえだな」  と、坂崎警部補はちょっと舌打ちをして、 「そうすると、それからまっすぐにあっちのほうへいった勘定になりますが、するとやっこさん、やっぱり新井君がいってるとおり、なにが嗅ぎつけていやあがるんだな」 「風間さん」  等々力警部がきびしい目で風間欣吾を凝視しながら、 「水上は白金会館へなにしにいったんですか」 「いや、わたしを訪ねてきたんですがね」 「あなたにどういう用件で……?」 「いや、これはわたしから金田一先生にお訊ねしようと思ってるんですがね。金田一先生」 「はあ……?」 「あなた及川澄子という女のことを調査していらっしゃるそうですね」 「ええ?………ええ、まあ、ちょっとね」  金田一耕助は例によって例のごとく、|睡《ねむ》そうな目をショボショボさせながら、 「しかし、風間さん、わたしがそのひとのことを調査してるってこと、あなたどうしてご存じなんです?」 「いや、さっき水上からきいたんです」 「水上君が……?」  さすがに金田一耕助もおどろいたらしく、目を見張った。 「ええ、そう、あの男、ひそかにあなたを監視しているらしい。それで及川澄子とはどういう女かとわたしに聞きにきたんです」 「あっはっは、そいつは水上君、チャクイですね。それであなたはなんと答えたんです」 「なんと答えようにも及川澄子なんて、さっき水上君からいわれるまでぜんぜん忘れていた名前ですからね。まあ、じぶんの人生を影のようにかすめた女にすぎんといっときましたが……」 「ああ、そう」  金田一耕助はなぜかほっとした顔色でなにかいいかけたが、そのときまた、電話のベルが鳴りだした。  こんども早苗が受話器をとりあげたが、 「あら、水上さん?」  と、思わず|呼《い》|吸《き》をはずませて、 「あなたいま、どこにいらっしゃるんですの。ええ? はあ、はあ、ええ、それはここにいらっしゃいます。はあ、でも……ああ、そう、それじゃそう申し上げます」  早苗は受話器を耳からとると、 「金田一先生、水上さんからあなたへ……」 「ああそう」  金田一耕助は受話器をとってふたこと三言聞いていたが、とつぜん、 「あっ!」  と、小さく叫んで電話器にしがみつくと、 「それで場所はどこ……? ああ、ああ、そう、なに? 奇妙な取り合わせって……? ああ、そう、それじゃすぐにいきます」  金田一耕助は注意ぶかく受話器をおくと、もの悲しげな目をして一同を見渡した。 「水上三太君が宮武益枝女史の死体を発見したそうです」 「ひーいっ!」  と、こわれた笛のような声を咽喉のおくからしぼりだしたのは、カステロのマダムの城妙子である。 「|成城《せいじょう》のあるアトリエのなかだそうです。ところが……」 「ところが……」 「こんども奇妙な相棒があるそうです。とにかくすぐに出掛けましょう。小田急の踏切のところで、水上君が待っていてくれるそうですから」 「畜生ッ!」  それから一時間ののち、金田一耕助と等々力警部、坂崎警部補の一行は成城の北のはずれの寂しい一画の、なかばこわれて廃墟のようなアトリエのまえで車をとめた。 「ここです。このアトリエのなかなんです」  途中まで迎えにきた水上三太は金田一耕助を出しぬいたという優越感で、少なからず興奮して、浅黒い頬を紅潮させている。  一同はふたたびそこに見たのである。世にも浅ましい見世物を……。アトリエの一隅にしつらえた小房のなかで全裸の男と女が抱きあったまま死んでいる。下のはいうまでもなく宮武益枝なのだが、その益枝を抱いたまま死んでいるのは、なんと人形つくりの黒亀ではないか。  なるほどこれは奇妙な取り合わせというべきである。      三  そこは小田急沿線成城の町の北はずれに当たっており、そこから地盤が大きな落差をなして断層をつくっている。  アトリエはその斜面のてっぺんに建っており、西の窓から外をながめると、はるか眼下にどこかのグラウンドがみえ、そこからはるかかなたに鈍い光をはなって横たわっている多摩川の流れまで、見渡すかぎり畑と水田と人家の|小聚落《しょうしゅうらく》が織りなす|縞《しま》|模《も》|様《よう》である。お天気のよい日だと、その多摩川のむこうに富士山がみえるはずなのだが……  アトリエの北側も断層をつくっていて、坂の下は|蘆《ろ》|荻《てき》のおいしげる沢である。その沢をいだいてむこうにも丘がそびえている。丘のうえはいちめんの赤松林だ。  アトリエの東と南は平地つづきだが、南側はひろびろとした芋畑と|陸稲畑《おかぼばたけ》がひろがっていて、そのむこうに点々として草葺き農家がみえる。その畑のはしにひとむらの木立ちがそびえているのは墓地である。東側にはいじけたような赤松の林がつづいているが、それが三百メートルほどむこうで、沢をへだてると北側の丘と抱きあっている。  つまり、そこは急速に発展していく郊外都市の触手から、ほんのすこしばかりはずれた地点にあたっており、周囲にはまだ多分に武蔵野の面影をとどめている。  アトリエの建っている屋敷の敷地は六百坪くらい、周囲には|大《おお》|谷《や》|石《いし》で土盛りがしてあって、まえにはそこに垣根をめぐらせ、アトリエのほかに住居も建っていたらしいのだが、垣根はくさり、住居のほうも取りこわして、どこかへもっていったらしく、いまでは|蓬《ほう》|々《ほう》たる草にうずもれて、土台石だけがのこっているばかり。  のちに警察の手で調べたところによると、こうである。  このアトリエの持ち主はもと相当富裕なお坊っちゃんで、六百坪ほどの敷地はもとより、隣接の赤松林から付近いったいの丘を所有していて、道楽に絵をかいていたが、戦後はおさだまりの斜陽族。絵が売れるような人物ではなかったとみえ、ひところは六百坪の敷地を利用して、山羊を飼ったり、豚を飼ったり、七面鳥まで飼育してみたが、武士の商法でうまくいこう道理がない。  さんざん失敗したあげく、細君がほかに男をこさえて逃げてしまったので、この物好きな素人画家も、とうとう東京住居をあきらめた。郷里の田舎へひきこもることになり、持ち地所いっさいをさる土地会社に譲り渡した。  そのとき住居のほうだけはこわして田舎へもっていったが、もう絵をかく興味も余裕もうしなっており、アトリエはそのまま放ったらかしていったのである。  だから土地会社ではさいきんこのアトリエの一部を現場事務所として、赤松林を切りひらいて、丘全体を階段式の住宅地として、一般に分譲する予定になっている。だからこのアトリエにはいま無人ながらも電気がきており、そこへ出入りする人影を見かけても、付近ではべつに怪しまなかったのである。  そこを悪魔の申し子のような雨男が、このいまわしい殺人の場として、たくみに利用したらしい。  アトリエは畳じきにして四十畳くらいもあろうか、相当手広いものだが、戦争中から戦後へかけて、おそらく修理されたことがなかったであろう。いや、修理されなかったばかりでなく、使用されたこともなかったかもしれぬ。  アトリエのことだから屋根にも側面にも窓が大きくとってあるが、屋根のスレートはとび、壁は落ち、|南《なん》|京《きん》じとみも半分くさって、おりからの雨催いの|黄《たそ》|昏《がれ》の空のもと、蕭条たる廃墟の様相を示している。  さて、アトリエのなかへはいると、雨漏りのために床がボロボロにくさっていて、ところどころ白いキノコがひょろひょろと生えている。プーンと鼻をつくのは、ものの|腐朽《ふきゅう》していく匂いである。  このアトリエの一隅に、おそらく素人画家が制作につかれたとき、身をよこたえるのに使用したであろう、六畳ほどの小房がしつらえられてあり、ここだけは天井が張ってあるので、雨漏りの跡もみられない。この小房のなかに木製のベッドがひとつ。ベッドのわら布団はもちろんボロボロになっていて、ところどころ中身がはみだしているが、そのうえに毛布がしいてあって、その毛布のうえで黒亀と宮武益枝が抱きあったまま死んでいるのである。  時刻はかれこれ夕方の六時。  じっさい、おりからの雨催いの黄昏どきの薄明かりのなかにうきあがっている、このふたつの死体のしめす構図には、見るひとの背筋を凍らせるようなあさましさと無気味さがある。白い豊満な宮武益枝のからだを抱いているのは、全身をくろぐろと密毛でおおわれたゴリラのような男なのだ。からみあった白と黒のふたつの姿態が、世にもおぞましいコントラストを見せている。  むろんふたつの体がある一点で、ふかく結合していることはいうまでもない。  しかも、黒亀の背中といわず臀部といわず、まるで網の目のように走っているのは、ぞっとするような鞭の痕である。鞭の痕には古いものもあれば新しいものもある。新しいのはいたいたしいみみず腫れとなり、一部分化膿しているところさえもある。  これが望月種子と黒亀とのあいだに、夜毎繰り返されていた、いっぷうかわった悦楽のかたみなのだろう。  だが、それにしてもこれはいったいどうしたことなのだ。ひとめ見ればこのふたりの死因が、それぞれちがっていることがわかるのである。  宮武益枝はあきらかに男の指で絞め殺されている。そのことはのけぞった益枝の白い咽喉にのこっている、なまなましいふたつの指の跡でもわかるのである。それに反して黒亀は背後からふかぶかと左肺部をえぐられており、そこから流れだした血がゴリラのような毛を染めて、益枝の脇の下へ流れている。おそらくその傷は心臓部まで達していることだろう。  と、するとこれはいったい、どういうことになるのであろうか。  黒亀は益枝と抱擁しているうちに、興奮のあまりあいてを絞め殺したのであろうか。そして、そのあとでだれかべつの人間に刺し殺されたというのか。  それとも……?  ああ、それを考えることはこのうえもなくあさましく、おぞましいことなのだけれど、黒亀は、ひょっとすると、益枝の死体を愛撫していたのではないか。そして、そのことに熱中しているところ、益枝を死にいたらしめたとおなじ人間の手によって殺害されたのではないか……。     第十七章 狂ったバランス      一 「水上君、ひとつ説明してもらおうじゃないか。君はどうしてあれを発見したんだね。いや、どういうわけでああいう場所をしっていたんだね」  たたみかけるように質問する等々力警部の瞳には、ふかい|猜《さい》|疑《ぎ》のいろが光っている。いや、これは等々力警部のみならず、金田一耕助などもふしぎそうな顔をして、この事件発見者の横顔を見まもっている。  そこは所轄成城署の一室である。  現場のアトリエをとりまいて、ひとしきりケンケンゴーゴーたる騒ぎがあったのち、いちおうここへひきあげてきた一同なのだ。時刻はもう九時になんなんとしている。 「はあ、それはもちろんお話するつもりでいました。じつは……」  と、三太はあとをつづけるまえに、ちらと金田一耕助のほうへ目を走らせる。  この男にとってはいつか金田一耕助に救われたということが、ひとつの大きな屈辱になっているのだ。望月種子の威嚇にあって、ふるえあがっているところ、ひともあろうに競争相手に見られたということが、水上三太にとっては耐えがたい苦痛となっているのである。それだけに、こんどこうしてまんまと金田一耕助を出し抜くことができたということが、かれを得意にさせているのである。  三太はしかし得意の色をできるだけおさえるように努めながら、 「じつは、ブーケ・ダムール会館でああいうことがあった晩、ぼく望月種子や黒亀よりひとあしさきに、望月蝋人形館へおもむいてひそかになかへ忍びこんでいたんです」  等々力警部はおもわず金田一耕助と顔見合わせて、 「すると、われわれがあの晩、望月種子や黒亀といっしょに蝋人形館へいったとき、君はあそこにいたのかね」 「そうです、そうです。だからあの晩あなたがたが、保坂君代をモデルにして黒亀がつくった人形を見にきたことも、また蝋人形館の中二階にある、風間欣吾の五人の愛人たちの人形を調べていったことも、ぼくはちゃんとしっていましたよ」  おさえようとしてもおさえきれぬ得意の色が、おのずから三太の顔にあらわれてくる。  かれは金田一耕助の面上にうかぶおどろきの色を見たいと思うのだが、あいては目をショボショボさせながら、ただまじまじと三太の顔を見守るばかり、まるっきり無表情なのがこのさい三太には物足りなかった。  等々力警部はいまいましそうに三太をにらみながら、 「それで、そのとき君はどこにかくれていたんだ」 「望月種子と黒亀のベッド・ルームの天井裏にかくれていたんですよ」  どうだといわぬばかりの顔色だが、これには金田一耕助もおどろいたらしく、思わず|眉《まゆ》をひそめたので、三太はやっと|溜飲《りゅういん》がさがった。 「ベッド・ルームの天井裏……? それじゃ、君はあのふたりの|閨《けい》|房《ぼう》をのぞいたのかい」 「はあ、いや、もうさんざんでした」  と、三太は得意そうににやにや笑っていたが、急にその顔をひきしめると、 「いや、失礼しました。それじゃそのときぼくが目撃した事実と、ふたりからえた印象についてお話しましょうか」 「ああ、話してくれたまえ。できるだけ詳細にな」 「はあ、承知しました」  と、水上三太はちょっと威儀をとりつくろうと、 「あの晩、ぼくは社へ記事を送ると、すぐその足で望月蝋人形館へおもむいたのです。だからぼくがあそこへ忍びこんだのは、種子や黒亀があなたがたといっしょにかえってくるより、四、五十分はやかったでしょう。ぼくはあちこち調べたのち、けっきょく閏房の天井裏がいちばんいいかくれ場所だと思ったんです。寝室は洋風になっていて、天井は|格天井《ごうてんじょう》になっているんですが、日本家屋とおなじように、押し入れの天井が一枚動くようになっているんです。ぼくはそこから天井裏へもぐりこんで、ちょうどベッドのうえあたりが見おろせるように、格天井の一枚にちょっとすき間をつくっておきました。種子が寝室へはいってきたのは、それから三十分ほどのちでした」  水上三太はそこで言葉をきったが、だれも口をはさむものはない。みないちように三太のこの異様な冒険談に耳をかたむけている。 「ぼくはさいしょ自動車の停まる音をきいたんです。自動車は二台のようでしたね。それからひとの話声がきこえましたが、望月種子はその話声にたいしてぜんぜん無関心なようすで、ベッド・ルームへはいってきました。そしてドアをしめると立ったきり、しばらくなにか考えこんでいるふうでしたが、それからまるで檻の中の猛獣のように部屋のなかを歩きまわりはじめたんです。そのときの彼女のようすからみると、種子はぜんぜんあの晩のことはしらなかったんじゃないかと思うんです。種子はむろん風間欣吾の愛人たちを憎んでいました。しかし彼女は保坂君代が殺害されて、あの晩ああいう状態のもとに公衆のまえにさらしものにされようとは、ぜんぜん予期していなかったんじゃないでしょうか。だから彼女が檻の中の猛獣みたいに、部屋のなかをいきつもどりつしていたのは、いったいだれがあんなことをやってのけたのか、それを考えようとしていたんじゃないかと思うんですよ。種子より三十分ほどおくれて黒亀がかえってきました」  三太はそこでちょっと呼吸をいれたが、すぐに言葉をつづけて、 「そのときの黒亀の話で、あなたがたが中二階の人形を調べていったことをしったんですが、しかし、部屋のなかへはいってきた黒亀の態度ときたら、まるで悪戯を見つかった生徒が先生のまえに出たときのようでしたよ。種子に叱られやしないかと、黒亀のやつ、ひどくびくびくしていました。そういうふたりのようすからみると、種子は黒亀がああいう人形をつくっていることすらしらなかったらしいんです」 「それで、黒亀は種子に叱られたのかい」 「いいえ、ぎゃくにご|褒《ほう》|美《び》をもらいましたよ」 「ご褒美って?」 「さっき警部さんもごらんになったでしょう。黒亀の背中からお|臀《しり》へかけていちめんにのこっていた鞭の痕……」  さすがに三太も顔をしかめる。 「ああ、あれが黒亀のご褒美か」 「どうもそうらしいんです。黒亀はあれがほしさに犬のように種子に|盲従《もうじゅう》していたんですね。種子は黒亀をゆるして素っ裸にすると、鞭をふるいはじめたんですが、いや、もうそのえげつないことといったら……」  と、三太はいよいよ顔をしかめた。  そのとき三太の見たものは、牡と牝との二匹の野獣のものくるおしい咬みあいだった。  種子は苦痛と快楽にのたうちまわる男の裸形を眼下に見ながら、|獰《どう》|猛《もう》な鞭をふるうのだが、そのうちに彼女じしん、しだいに興奮してくるらしく、みずから一枚一枚着ているものを剥いでいくのである。そして、最後に……。 「それで、君があのアトリエをしっていたのは……?」 「それはこうです。鞭をふるいながら種子がいろんなことを訊ねるんですね。それにたいして黒亀がこたえるんですが、なにしろ|俯《うつ》|伏《ぶ》せになっていることですし、それに苦痛と快感の呻き声のあいまあいまに、きれぎれにもらす言葉ですから、天井裏にいるぼくには完全にはききとれなかったんです。でも、だいたいこういうことはわかりました。黒亀は雨男がだれであるかはしらなかった。しかし、いちど雨男を尾行して、そのかくれ家はつきとめてあるというんです。ぼくの聞いたのはそこまででした。それからまもなくふたりが抱きあって……それから、まあ、いろいろあって寝てしまったもんですから」 「なるほど、それで君は黒亀をつけまわしていたんだね」 「そうです、そうです。そのことは刑事の新井さんからもお聞きになったことがあると思いますが……」 「それで、あなたは以前からあのアトリエに目をつけていらっしたんですか」  そのときはじめて金田一耕助が口をはさんだ。 「いや、あのアトリエに気がついたのはきょうなんです。しかし、まえにいちど黒亀を、この成城の駅の北側で見失ったことがあるんです。それ以来ひまなときにはちょくちょくこっちへやってきて、北側の町を調べていたんですが、きょう宮武益枝がゆうべからかえらないということを聞き、それからすぐ蝋人形館へいってみると、黒亀もゆうべからかえらないという。そこでもしやと思って、こっちへやってくると、いままでに調べのこした方面を探し歩いているうちに、あのアトリエが目についたんです。あれ、いかにも雨男のかくれ家にふさわしいじゃありませんか。そこでなにげなくのぞいてみると……」  三太は顔をしかめたが、そこへ警官がはいってきて、 「いま望月種子という婦人がきていますが……それから風間欣吾という人物も……」      二  あとから思えば種子のようすは、はじめからおかしかったのである。  彼女はその時、成城署員に付き添われて、あのアトリエでじぶんの愛人が、風間欣吾の愛人と抱きあったまま、殺されているところを見てきたばかりのところであったが、彼女がその浅ましい見世物から、いったいどのような感銘をうけとったか、そのとき立ち会った連中のだれの目にもわからなかった。  種子はもちまえの傲然たる態度をうしなわなかったし、男でも見るにたえないそのものを、鋼鉄のようにつめたい目で、正視してはばからなかったそうである。  だが、傲然とよそおうていた仮面の背後で、彼女は致命的なショックをかんじていたのではあるまいか。種子の神経や心理状態は、そうとう以前からバランスが狂っていたにちがいない。あのようなグロテスクな蝋人形館を経営するということが、すでに彼女の異常を物語っている。  そこへもってきて、黒亀とのあいだに夜毎くりひろげられる異様な情痴のあくどい刺激が、いよいよ彼女の精神状態から平衡をくるわせていったとはいえないだろうか。彼女はおそらくじぶんでは、そういうあくどい刺激にも、たえられるだけの強さをもっていると|己《うぬ》|惚《ぼ》れていたのであろう。そして、頼みとしていたおのれの神経が、いつのまにやら少しずつすりへらされ、|蝕《むしば》まれているということに気がつかなかったのであろう。  いつかはそれは大きくくずれる、非常に危険なバランスだったのだ。そして、その導火線になったのが黒亀の死らしいのだが、しかもさらに悪いことには、そのとき彼女に付き添っていた警官が、望月種子と風間欣吾の関係をまるでしらなかったことである。  風間欣吾もそのとき、あのアトリエにおけるあさましいふたつの屍体の結合物を見てきたばかりのところであった。そしてこの警察の一室で呼び出しを待っているところへ、望月種子がはいってきたというわけである。なんにもしらぬ警官は、この|深讐綿々《しんしゅうめんめん》たるふたりの男女を、おなじ部屋で待たせたまま立ち去った。  あとで風間欣吾が語るところによると、種子とふたりきりでその部屋にいたのは、十分ぐらいであったろうという。その間ふたりはぜんぜん口をきかなかった。したがって、種子の精神状態がおかしくなっていたか、いなかったか、じぶんはまったく気がつかなかったといっている。  もしかりにその部屋へはいってくるとき、種子の精神状態のバランスが、まだ辛うじて保たれていたとしても、そこに欣吾がいるのをみた瞬間、大きくくずれていったのではないか。かけがえのない愛人にして、しかも欣吾にたいする復讐の道具として利用していた、黒亀というものをうしなった種子は、欣吾の顔を見た瞬間、大きな敗北感を味わったのではないかといわれている。  水上三太といれちがいに、望月種子が部屋のなかへはいってきたとき、だれも彼女の精神状態がおかしくなっているとは気がつかなかった。いや、いや、そのときはまだ多少なりとも正気がのこっていたらしいのだが…… 「望月さん、どうぞ、そこへお掛けください」  と、等々力警部はできるだけ丁重に、デスクのまえの椅子を指さしながら、 「あなた今、アトリエへいってごらんになったでしょうねえ」 「はい」  素直にこっくりうなずきながら、そこへ腰をおろす種子の目つきをみて、等々力警部はおやとばかりに金田一耕助と顔を見合わせた。  それはいつものようにたけだけしい種子の目つきではなかった。妙に空虚で孤独な表情が、わびしくそこに|揺《よう》|曳《えい》していた。 「どうもとんだことでしたが、黒田亀吉氏はゆうべ何時ごろおたくを出られたのですか」 「いいえ、あれがうちを出たのはゆうべではございません。けさはやくでした」 「けさはやくとおっしゃると何時ごろ?」 「夜明けの五時ごろのことでした」 「そんなにはやく、なんだって黒田氏は、うちを出かけたんですか」 「お告げがあったからです。神のお告げがあったからでございます」 「奥さん……ああ、いや、望月さん」  いつに似合わぬ種子の神妙さを気にしながら、金田一耕助がそばから口をはさんだ。 「神のお告げというのは、いつもどういうかたちで現われるのですか。ひょっとすると、電話でもかかってくるのじゃないですか」 「はい」  と、種子は素直にうなずいたが、そのじぶんから彼女の目つきは、はっきりおかしくなってきたのである。 「けさの電話はなにをいってきたんですか。あそこにあの女が殺されているといってきたんですか」 「いいや、そうじゃなかった。それほどはっきりはいわなかった。ただ、成城のアトリエへいってみろ、おもしろいものがあるから……ただしおまえはいまいっちゃいけない。猿丸だけをやりなさいと……」  と、そこまでいってから、種子は急にすっくと椅子から立ち上がった。そのときの種子の|形相《ぎょうそう》は従来の彼女の傲慢さでもなければ、また、たったいままでの神妙さでもなかった。目がつりあがって、顔がいびつにけいれんして、はっきりとものに狂ったことを示していた。 「あいつはわたしの味方じゃなかった。わたしはあいつの命令を、いつも素直に守ってきたのに、あいつはわたしを裏切った。わたしのだいじな猿丸を殺してしまった……」 「望月さん、望月さん!」  と、金田一耕助はおもわず早口になり、 「あいつッてだれですか。あいつッてどういう人物ですか」 「しらない、しらない、わたしはいつも声しか聞いたことがない。電話の声しか聞いたことがない。あいつはわたしの復讐を手伝ってやるといっていた。風間欣吾に打撃をあたえて手ひどい復讐の手伝いをしてやるといっていた。しかし、そうじゃなかったのだ。あいつはわたしたちを道具に使っていただけなのだ。あいつは……あいつはしっていたのだ」 「望月さん、望月さん、あいつはなにをしっていたのです。そいつは、なにをしっていたというんです」 「猿丸にああいう好みがあるということを……しかも、しかも、それはわたしがあれにおしえたことなのだ!」 「も、望月さん」  そこに居合わせた一同はおもわず椅子から立ち上がった。  そのとき異様な|痙《けい》|攣《れん》がとつぜん種子の全身をおそいはじめたからである。彼女に特別な病気があったことはしられていない。しかし、そのとき彼女のみせたはげしい発作は、あきらかに病的だった。  そして、その発作から回復したとき、彼女の精神状態は完全にバランスが狂っていたのである。     第十八章 恐ろしき魔像      一  望月種子といれちがいに成城署を出た水上三太が、それからまっすぐにやってきたのは、鶯谷にある望月種子の蝋人形館である。  三太はいま功名心にもえている。きょう成城のアトリエで発見した事件は、金田一耕助に電話するまえに、社のほうへ通告しておいた。そのとき編集局長から激励と賞賛の言葉を贈られた三太は、いよいよ功名心の|権《ごん》|化《げ》となった。  いや、功名心も功名心だけれど、ひとつには金田一耕助にたいする競争心も手伝っているのだ。あのもじゃもじゃ頭で、よれよれの袴をはいている小男の鼻をあかしてやりたいという欲望が、三太をこの冒険にかりたてるのだ。  三太はきょうあのアトリエで、黒亀と宮武益枝の死の抱擁を見て、はたとばかりにある事実に思いあたったのである。  かれがはじめて望月蝋人形館へ忍びこんだ晩、寝室からもれてきた男の歓喜のうめき声、それはたしかに男と女のあいだにあのことが行なわれつつあることを示しながら、しかも、女は終始黙して声をもらすことがなかった。  それでもなおかつ水上三太はその男と女を望月種子と黒亀だとばかり信じていた。そう信じていたからこそ、かれはゆうゆうと蝋人形館を調査していて、まんまと種子にとっつかまるの醜態を演じたのである。  そのときも、それではさっきの男はいったいだれを相手にしていたのだろうかという疑いが、ちらと頭をかすめたことを、いまにして思いあたるのである。  あれは美樹子の死体が紛失したその翌晩のことではなかったか。しかもあの防空壕の地下道から、美樹子の死体をはこび出していったのは、たしかにふたりづれであったではないか。いまにして思えばそれは望月種子と黒亀だったにちがいない。  種子がどうしてあの地下道をしっていたのか、またなんのために死体をぬすみ出したのか、それはいずれ考えるとして、あの晩の黒亀のあいてが美樹子の死体ではなかったかということを、三太はきょうあのアトリエで、男と女の世にも異様な死の結合をみて、はたと思いあたった。  黒亀にはああいう異様な趣味があったのだ。そして、それは美樹子の死体によっておぼえた趣味ではなかったか。しかも、それはおそらく望月種子によって|教唆《きょうさ》された行為であろう。  望月種子はかつてじぶんから良人をうばった女を、おのれの目のまえで黒亀に犯させたのであろう。それはいかにも種子のような女のやりそうなことで、それによって種子は残忍な復讐のよろこびにもえていたのではないか。  だが、もし、じぶんの考えが当たっているとすれば、美樹子の死体はまだあの蝋人形館のどこかにあるはずなのだ。死体というものはそうたやすく運搬できるものではない。さんざん黒亀にきずつけられたあげく、美樹子の死体はどう処分されたのか。  それを発見することが、じぶんの新しい課題なのだと、三太は胸をわくわくさせるような功名心にもえている。  三太が鶯谷の望月蝋人形館についたのは、もう夜の十一時ごろのことだった。いちどやんでいた雨がまたベショベショと降りはじめて、三太がこれから試みようとするこの陰惨な冒険には、お|誂《あつら》えむきの晩だと思われた。  三太ははじめてこの家へ忍びこんだあの待合室の窓から、こんやもなかへはいりこんだ。  家のなかはもちろんまっ暗だが、そんなことには困らないだけの用意はある。この事件に首をつっこんでから、三太はいつも万年筆ほどの大きさで、しかもそうとう強力な懐中電灯を持っている。こんやはそれがものをいうのだ。  あの黒ずくめの待合室から玄関へ出るまえに、三太はしばらく|利《きき》|耳《みみ》を立てていた。いま無人の家としっていても、他人の家へ忍びこんだ以上、やはりいちおう警戒する必要はあるだろう。三太がこの蝋人形館へ忍びこむのは、こんやで三度目である。このまえ忍びこんだとき、内部のかってを調べておいた三太にとってはなじみの家だし、しかもかれには死体のかくし場所についても、だいたいの見当がついているのである。  待合室から玄関へ出ると、まっすぐにそこを横切って、ホールのドアに手をかけた。ドアにはもちろん|鍵《かぎ》がかかっていたが、そんなことは覚悟のまえである。ふたたびあたりのようすをうかがったのち、三太がポケットから取りだしたのは、ずっしり重い革のケースで、ケースのなかにはドライバーをはじめとして、七つ道具がはいっている。  十分ののち、錠ははずれた。おそるおそる三太はドアをひらいたが、そのとたんかれは不覚にも床のうえからとびあがった。どこかでドターンとなにかが倒れるような音がしたからである。地響きがするほど大きな音で、しかもそのとたん、呻き声と、ガチャガチャと金属のふれあうような音を聞いたと思ったのは、そら耳だったろうか。  三太の心臓は早鐘をうつようにガンガンおどっている。むろんそれはひとに見つけられたときの、じぶんの立場をおそれる意味もあったけれど、それ以上にかれの心臓をおどらせたのは、無人であるべきはずのこの家に、だれかがいるらしいということである。  三太はドアの|把《とっ》|手《て》をにぎったまま、化石したようにそこに立ちすくんでいる。むろん懐中電灯はいちはやく消してしまったので、かれのまわりを|囲繞《いにょう》するものは粘っこい闇である。  物音はそれきりしばらく途絶えていたが、やがてまたすすり泣くような声がきこえ、しかもこんどもガチャガチャと鎖のふれあうような音がした。はじめにもそう感じたのだが、その物音はたしかにかれの立っている床の下から聞こえるのである。  そうわかったとき三太の心はきまっていた。  この蝋人形館に地下室があることを、このまえの探検で三太はしっているのである。こわれた蝋人形や、がらくた道具などのいっぱいつまった、なんのへんてつもない地下室だったが、いまはそこにだれかいるらしい。  よし、そのほうから調べてみよう。      二  三太はいま真っ暗な地下室のドアのまえに立っている。  あまり大きな興奮のために、心臓が胸壁を破っておどり出るのではないかと思われるほど大きく揺れて、三太は呼吸がつまりそうである。たしかにだれかこの地下室にいる。しかも男だ!  それがだれであるかを想像したとき、三太の若い功名心はかれの体内ではちきれそうになり、希望と興奮のために全身ぐっしょり汗だった。 「もし、もし、そこにだれかいるんですか」  しかし、なかから返事はなくかすかな呻き声とともに、またガチャガチャと鎖のふれあう音である。  だれかがこの地下室のなかで、鎖でつながれているのではないか。そう考えたとき、三太は全身の毛穴という毛穴から、熱汗の吹きだすのをおぼえた。痛いような戦慄である。 「ようし、しばらく待っていたまえ。いまドアをひらいてあげる」  そのドアにもむろん鍵がかかっていた。しかしここのドアはホールのドアほど頑丈ではない。しかし三太はあまりの興奮に、わなわなと手がふるえて、作業が思うようにはかどらない。 「畜生ッ! 落ち着け、落ち着け!」  三太はまだ望月種子が発狂したことをしっていない。こんなところをあの悪婆あに見つかったら……いつかの夜の恐怖を思いだして、かれはいっそう気があせる。われとわが心にいって聞かせながら、三太が錠をはずすまでには、たっぷりと七分間はかかっていた。  ドアをひらくとき、三太の心臓はまたガンガンと鳴りだした。用心ぶかく身構えしながら、三太がドアのそばに立って懐中電灯の光をむけると、がらくた道具のなかにまじって、こわれた蝋人形の怪奇なすがたが、おどろおどろしく浮きあがってくる。  しかし、三太はもうそんなことに驚きはしない。もののけはいのするほうへ懐中電灯の|光《こう》|芒《ぼう》を移動させると、このまえ探検したときとちがって、部屋の一部が整理され、木製の粗末なベッドがそなえつけてあり、そのベッドの足下にだれかが倒れているのである。  三太はもういちど懐中電灯の光芒で、部屋のなかを撫でまわして、そこになんの危険もないことをたしかめたのち、ベッドのそばへちかよっていった。そして、そこに倒れている男のうえにかがみこみ、懐中電灯の光芒でその男の顔を見たとたん、三太は勝利のラッパがたからかに、頭のなかに鳴りわたるのを感じずにはいられなかった。  それはかれが予想したとおり、早苗の兄の石川宏である。宏はやはり望月種子と黒亀のコンビによって誘拐され、この地下室に幽閉されていたのだ。大きな絹のネッカチーフで宏は猿ぐつわをはめられている。 「おい、君、君、石川君……」  その猿ぐつわをはずしてやって、三太は宏に声をかけたが、あいては目をとじたまま、すすり泣くようなあらあらしい息づかいである。なにか強い薬で眠らされているらしく、上気したように真っ紅に|頬《ほお》をほてらせて、額にはぐっしょり汗である。  三太は二、三度宏の体をゆすぶって声をかけたが、あいての眠りが覚めそうにないのを見てとると、立ちあがって、改めてベッドの周囲を調べてみた。そして、いまさらのように望月種子という女の、鬼畜のようなふるまいに慄然たらざるをえなかった。  宏は両手に手錠をはめられている。そして、その手錠には鎖がつながっていて、それがベッドの脚にしっかりと結わえつけられているのである。  こうして宏の自由をうばったうえ、なおかつ声を立てないように猿ぐつわをかませてあるのだが、それでもなおかつ種子と黒亀のふたりがふたりとも外出の場合には、猿ぐつわの外れることをおそれて、強い薬で眠らせておくのであろう。  ベッドの脚下には便器がおいてあり、そこから異様な臭気を発しているところからみても、宏がそうとうながくここに幽閉されていたらしいことは疑う余地もない。  かれはもういちど身をかがめて、宏をゆすぶり、宏の名を呼んだが、あいての眠りがさめそうにないのを見てとると、あきらめたように立ちあがった。  宏の発見は三太にとって思いもうけぬ拾いものだが、かれにはまだしなければならぬことがある。しかしかれは急がねばならないのだ。宏を発見したということをしったら、おそらく種子はただではおくまい。  かれは地下室を出ると、ていねいにあとのドアをしめ、いそぎ足で階段をのぼっていた。  かれの目ざすところはあのサロンの中二階である。この蝋人形館の中二階に五つの|龕《がん》があって、そこに風間欣吾の五人の愛人たちの生き人形が安置してあることはまえにもいっておいた。三太はそのなかのひとつの人形に、いま強い誘惑をかんじているのだ。  かれの考えはあまりにもロマンチックであるかもしれないけれど、あの五つの人形はかつて等々力警部や金田一耕助によって調べられ、異状なしとの折り紙がついてあるのである。しかも、美樹子の死体が紛失してからすでに二か月の月日が経過している。死体が匂うようなこともあるまい。  かれのかざす懐中電灯の光芒のなかに、土色をした風間美樹子の生き人形が浮きあがっている。気のせいかこのまえ見たときと少し顔立ちがちがっているようだ。  三太は一呼吸、二呼吸、|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》に力をこめたのち、やがて七つの道具のひとつをふるって、はっしとばかりに生き人形のおもてをなぐった。生き人形はがらがらと音を立てて、その顔面から蝋のかけらを散らしたが、さてそのあとに三太がみたものは……。  覚悟をしていたこととはいえ、三太はその当座、飯も咽喉をとおりにくかったのである。  それがだれであるにもせよ、蝋人形のなかには、たしかに人間が封じこまれているのであった。     第十九章 オート・ミール      一  その日の夕刊から翌日の朝刊へかけて、たてつづけに報道された三つの奇怪な発見は、世間のひとびとを恐怖のどん底に叩きこむのに十分だった。  黒亀と宮武益枝の死の抱擁——望月蝋人形館の地下室から発見された石川宏——さらに蝋人形のなかから摘出された美樹子とおぼしい女の死体——どのひとつをとってみても、あまりにも陰惨であり、凄惨である。新聞を読むひとびとが、呼吸をのんで、ドスぐろい思いに胸をおののかせたのもむりはない。  石川宏はその翌朝の十時ごろ、かつて妹の早苗が収容されていたY病院の一室で覚醒したが、まだほんとうに気力が回復していないらしく、薄白く瞳が膜をかぶっていて、ベッドの周囲から心配そうにのぞきこんでいる等々力警部や金田一耕助、さては坂崎警部補の顔をみても、期待されたような反応は示さなかった。  ただ、ものうげに首をふっただけで、すぐまた大儀そうに目をとじるのである。目をとじると、黒い隈の陰影がくっきり深くて、|憔悴《しょうすい》のほどが思いやられる。 「まだ少しむりなようですね」  聴音器を耳からぶらさげたY先生が、患者の脈をとりながら、ささやくような声である。 「そうすると、もう何時間もすれば……?」  と、等々力警部のその声も、Y先生にまけず劣らず、ささやくように低かった。 「そうですね。もうひと眠りすれば……午後の二時ごろになれば、少しははっきりするんじゃないでしょうかね」 「ああ、そう。それじゃ、先生、そのあいだに、あちらのほうをお願いしたいんですが……」 「承知しました。しかし、警部さん」 「はあ……」 「ずいぶん陰惨な事件ですなあ。成城のほうといい、こちらといい……こんなことって聞いたことがない」 「いや、まったく」  看護婦にあとをまかせて病室から出ていくとき、だれの顔も暗くきびしくけわしかった。  四人づれが廊下のかどをまがろうとするとき、 「ああ、ちょっと警部さん」  と、うしろから声をかけたのは水上三太だ。見ると早苗が顔をひきつらせて、やっと三太の腕にとりすがっている。瞳がうわずっているのもむりはない。 「ああ、水上君か、ご苦労さん」 「いや、それより早苗さんの兄さんはどうなんです。まだ目が覚めませんか」 「いや、いまちょっと覚醒したんだが、まだ質問はむりらしい。そのあいだにもうひとつのものを調べてみようと思っているんだが……」  と、等々力警部は目で水上三太や早苗の背後をさがしながら、 「ときに風間氏や女中は……」 「いや、いずれあとからくるでしょう。ぼくはとりあえず早苗さんをつれてきたんですが……」 「ああ、そう」 「警部さん、早苗さんを兄さんの部屋へつれていっちゃいけませんか。なんだかあんまりふたりが可哀そうで……」  等々力警部が振り返ると、Y先生もうなずいて、 「いや、それはいいでしょう。但し目がさめてもあまり話しかけたりしないように。つまり精神的に安静を必要とする状態だから、そのつもりで……」 「はあ」  早苗は言葉少なにうなずいて、涙に目をうるませている。 「それで、水上君、君は……? 早苗君に付き添っているの」 「いいえ、ぼくは患者さんの部屋までこのひとを送っていったら、あなたがたのあとを追います。いいでしょう」 「あっはっは、いやに権利を主張するね。まあ、いいだろう。君が発見者なんだから。じゃ、先生、どうぞ」  三太と早苗をそこに残して一同がはいっていったのは、フォルマリンの匂いのツーンと鼻をつく部屋である。そこは死体の|仮《かり》|置《おき》|場《ば》らしく、コンクリートで固めた床にコツコツとひびく靴の音が、つめたく脳髄を刺すようだ。  この殺風景な部屋の隅に、移動寝台が一台すえてあって、白い作業着を着たふたりの医者と、ひとりの看護婦がその寝台にむかって黙々と手を働かせている。三人とも顔半分がかくれそうな、白い、大きなマスクをかけて、ゴムの手袋をはめているのが、ものものしい。 「どう?」  Y先生がちかづいて声をかけると、 「はあ、だいたい……それにしてもひどいことをしたものですね」  ひとりの医者が顔もあげずにマスクのなかの声で答えた。看護婦はちょっと一同に黙礼したが、その額の生えぎわにはいっぱい汗が吹きだしている。  この移動寝台のうえにあるものを、あまりくだくだしく描写することはひかえよう。もしこれをあまり精細に描出すれば、読者諸賢の食欲をうばうばかりか、嘔吐を促進することになるだろうことを|懼《おそ》れるからである。  簡単にいってそれは望月蝋人形館から運ばれてきた、あの美樹子の生き人形のなかみなのである。いま三人の作業員はふらんした女の死体の全身から、できるだけの慎重さで付着した蝋を落としているところなのだ。 「これじゃ……」  と、金田一耕助は顔をしかめて、 「風間氏にだって人相の識別は困難ですね」 「しかし、だいたい見当がつくんじゃないか。|背《せ》|恰《かっ》|好《こう》や肉づぎの加減、それに髪の色やなんかからね」  等々力警部も渋面をつくって、不機嫌そうな声である。  そこへ廊下に足音がして、ドアにノックの音がきこえた。はいってきたのは風間欣吾と女中であった。背後に水上三太の姿もみえる。  欣吾は一瞬ドアのそばに立ちどまって、移動寝台をとりまく人影を、睨むような目で見まわしていたが、無言のままつかつかとそばへよってきた。女中はもうその場の雰囲気にのまれたのか、|藍《あい》をなすったような顔をこわばらせて、おずおずと欣吾の背後からついて 金田一耕助と等々力警部が体を左右にひらくと、欣吾は物怖じをしない目でその凄惨なものを直視した。 「風間さん、奥さんなにか体に特徴がありませんでしたか。|傷痕《しょうこん》があるとか、手術の|痕《こん》|跡《せき》があるとか……」  風間欣吾は、しかし等々力警部のその質問を黙殺して、死体のほうへ手をのばそうとする。 「あっ、直接手をふれちゃいけない。そこにゴム手袋がありましょう」  欣吾はゴム手袋を両手にはめると、死体の|太《ふと》|股《もも》をひきさくように左右にひらいた。ふらん死体とはいえ死体のぬしは女なのだ。感傷のひとかけらでもあったら、たやすくできる業ではない。  欣吾は太股のうちがわを舐めんばかりに顔をよせて覗いたが、やがて無言のまま体を起こすと、手袋をはめた手の人さし指で左の内股を指さした。  一同が額をよせてそこを覗くと、くろずんだ皮膚のうえに、まるでオリオンの三姉妹のようにほくろが三つ並んでいるのが印象的だ。 「奥さんですか」 「ええ、そう。ここにいる女中の|茂《しげ》やにうしろのほうを見せてやってください。左の臀たぼにやはりちょっと特徴のあるほくろがあるはずで、茂やは風呂で背中をながすとき、ちょくちょく見ていたそうですから」  茂やは慎重に死体がうつぶせにされてから、やっと顔からハンケチをはなした。そして、左の臀たぼにほくろがふたつ並んでいるのを、浴場でちょくちょく見かけた奥様のものと、おなじ位置であり、おなじ排列であるように思うと、いまにもヘドを吐きそうな声で答えた。  これでどうやらこの死体は美樹子のものと確認されたようだ。水上三太がいそぎあしで部屋を出ていったのは、新聞社へ電話をかけるためであろう。      二  午後二時。  石川宏はベッドのうえにきちんと正座している。  目のくぼみ、とげとげしくとがった頬骨、えぐったようにげっそり肉の落ちた頬は、色白の顔に蒼ざめた陰影をつくって、いかにも受難のひとという印象である。まだふらつきそうな体を、それで支えようとするかのように、両の|拳《こぶし》を握りしめて、肉のうすい|膝《ひざ》においている。 「それで……?」  と、等々力警部のかわいた声にうながされて、 「はあ」  と、宏はけさほどからみると、いくらか薄い膜のとれた目で、うわめづかいの視線を警部の顔に走らせると、 「早苗が失神したあとで、ぼくは目かくしをされました。……ぼくは、注射をされませんでしたが、声を立てるとピストルをぶっぱなすぞとおどかすものですから……自動車は失神した早苗と、あとから現われたレーン・コートの男をのせて、そのまま五分ほど走りましたが、まもなく停ると、あとから乗った男が早苗を抱いて自動車を出ていったようでした。……」  宏はときどき言葉を切り、薄い|胸郭《きょうかく》のなかに空気をためようとするかのように息を吸っては、またゆっくりと話すのである。|抑《よく》|揚《よう》のない、|暗誦《あんしょう》するような調子である。 「三分ほどしてまたさっきの男が自動車へかえってきました。……ぼく目かくしをされていましたけれど、体臭でさっきの男だとわかったのです。……目かくしをされているので、かえって|嗅覚《きゅうかく》が発達していたのでしょうか、むっとヘットのようなかんじのする体臭が強烈だったのです」  ベッドのそばで宏の供述を速記している水上三太は、それは黒亀にちがいないと思った。いつか望月蝋人形館で黒亀に抱きすくめられたとき、三太もそれを感じたのである。ヘットのような強烈な男の体臭を……。 「ふむ、ふむ、それで……」 「自動車はまた走りだしました……」  と、石川宏のにぶい視線は、こんどは金田一耕助のほうへと走った。ぼんやりと、しかしいくらかいぶかしそうな目で、金田一耕助のもじゃもじゃとした頭髪を見つめながら、また抑揚のない、暗誦するような調子で語るのである。 「自動車はそれから三十分あまり走っていたでしょうか。……そのあいだ、男も女もひとことも口をききませんでした」 「男も女も……?」  と、坂崎警部補が聞きとがめて、 「それじゃ、ふたりのうちのひとりは女だったというのかね」 「はあ……ぼく、いつか運転しているのが女だと気がついたのです。……なんで気がついたのかわかりません。声でわかったのではありません。運転手の声はマスクに|濾《ろ》|過《か》されてくるのですから、声の質はわからなかったのです。ただ……」  と、宏は小首をかしげて、 「ただ、なんとなくそう感じたのです。体臭……? いや、体臭でもありません。その女のもつ雰囲気……? ただ、なんとなく感じたのです。ただ……そうなのです。やっぱり目かくしをされていたせいかもしれません」  早苗は部屋の隅に腰を落として、両手に顔を埋めている。早苗の耳には宏の声が、あの世とやらから聞こえるとしか思えないのかもしれない。ときおりなにかにおそわれたように肩が痙攣する。  金田一耕助の疲れきって表情のない目が、ぼんやりそれを見つめている。 「ふむ、ふむ、それで……?」  この男の供述には、いつもてこずらされるといわぬばかりに、等々力警部は顔をしかめて、しかし、あまりあいてをいらだたさぬような慎重さで、宏の供述の進展を促した。 「男と女はひとことも口をきかなかったって……? それから……?」 「はあ」  と、また宏は薄い胸に空気をいっぱい吸いためると、 「自動車は半時間くらいで目的の場所に着いたようです。……ヘットのような体臭の男がぼくの腕をつかんで自動車から降りるように促しました。……むろん、ぼくの脇腹にはしじゅうピストルの筒口がぴったりと当てがわれていたことはいうまでもありません」 「ふむ、ふむ、それから?………」 「自動車のついたのはその家の玄関さきだったようです。……それより少しまえに門をはいったようにも思います。……ヘットの体臭の男はぼくの右腕をかかえて、玄関まえの階段をのぼりました。階段はたしか三段だったと思います。玄関へはいるとぼくに靴をぬがせました。女の運転手はついてきませんでした。自動車をどこかへ持っていくのでしょう。エンジンの音が遠ざかっていきましたから……」 「ふむ、ふむ、それで……」 「玄関からぼくたちはせまい廊下へはいりました。廊下はふたり腕を組んで歩くのはむりなので、ふたりとも少し体をななめにしました。まもなく廊下を右へまがりました。それからすぐに左へまがりました。こんどの廊下はまえより少しひろかったので、ふたり並んで歩きました。……」  水上三太は|頭脳《あ た ま》のなかで、望月蝋人形館の見取り図を組み立てている。宏の話はどうやらそれに符合しているようだ。金田一耕助が目をつむっているのも、水上三太とおなじことを考えているのであろうか。早苗はあいかわらず両手のなかに顔を埋めている。 「ふむ、ふむ、それから……?」  いちど口を閉じると宏の言葉はなかなかあとがつづかないのだ。いきおいだれかが相槌をうって、ためらいがちな供述を促進してやらなければならないのである。 「こんどの廊下はちょっと長かったように思います。それからまた右へまがりましたが、ぼくたちはふたたび体をななめに開かねばなりませんでした。でも、すぐ廊下がつきて土間へおりました。靴下のうちの感触や冷たさから、板の間ではなく土間だったと思います。その土間を出るときぼくは敷居につまずきました。土間を出ると堅い冷たい感触の階段をおりました。なんだか空気がこもっていたように思います。それに肌ざわりもひんやりしてきました……」  宏はまた長いこと|呼《い》|吸《き》を人れたのち、 「階段の下にはドアがあったのです。ぼくたちはドアのなかへはいりました。空気がいよいよこもって、肌ざわりもいっそうひんやりしてきました。ぼくはなんどもつまずきました。さいごにはひどく向こう脛をうったのです。ぼくの向こう脛をうったのがベッドだったのです」  とつぜん、宏の目から涙が溢れてきた。じぶんでじぶんがいじらしくなってきたのであろうか。宏はその涙をぬぐおうともせず、 「それから……それから……」  早苗は兄の涙声に気がついたのか顔をあげると、ベッドのそばへ駆けよってハンケチを宏の手に握らせた。その早苗も目にいっぱい涙をにじませている。宏はハンケチをわしづかみにしたまま、また握りこぶしを膝においた。涙はあとからあとからと頬をつとうて流れるのである。 「ヘットの体臭の男はぼくのレーン・コートと上衣をぬがせ、目かくしをしたままベッドのうえに仰向けに寝るように命じました。それから鎖でぼくの体をしばったのです。鎖がぼくの体にくいこんで、骨が砕けるほど痛かったのです。そのあとで、男はぼくの左のワイシャツをまくりあげ、腕に注射をしました。ぼくは……ぼくは……目かくしをしたまま眠ってしまったのです」  涙はいよいよ|滂《ぼう》|沱《だ》と溢れる。鼻をつまらせ|歔《きょ》|欷《き》する声は警察の無能をうったえているかのようである。 「きょうは、これくらいで……」  Y先生がこの供述のうちきりを宣言するように呟いた。陰気な声であった。      三  望月種子の発狂は、いよいよ本物になってきた。  R大の付属病院の精神病棟の一室にひとまず収容された望月種子は、たえずなにか呟きながら、のろりのろりと部屋のなかを歩きまわるのである。  そこにはベッドもあり椅子もあった。しかし、彼女はそれらに見向きもせずに、ただひたすらにのろりのろりと歩きまわるのである。  昨夜彼女はベッドに眠らず椅子で眠った。歩いて、歩いて、歩きまわったあげくのはてに、精も根もつきはてて彼女は椅子で眠ったのである。そして、けさ目がさめるとまたこうして歩きまわっている。なにかひとところにじっとしているのが不安なのだろうか。  午後六時。看護婦が食事をはこんできた。オート・ミールにハム・エッグ。  種子は朝も昼も食事を|摂《と》らなかった。朝はパンとゆで卵、野菜サラダ、それに牛乳が添えてあったが、彼女はそれに見向きもしなかった。昼はご飯に味噌汁、魚の焼き物、それに野菜の煮つけに香の物が添えてあったが、彼女はそれもすっぽかしてしまった。 「奥さま、ほんとになにか召し上がらなければいけませんわ。それでは体に毒でございますわ。さあ、そこへお掛けになって」  看護婦が手をとって椅子に掛けさせると、彼女は素直に掛けるのである。だが、看護婦がお膳をのせた小卓を、彼女のまえにはこぼうとするとき、彼女はもう椅子から立ち上がって、のろりのろりと歩きだしていた。  看護婦は溜め息をついた。 「困りましたわねえ。それでは……」  看護婦がまた手をとって椅子に坐らせると、種子は素直にそれにしたがった。だが、看護婦が小卓のはしに手をかけたとき、彼女はもう立ちあがっていた。なんどやってもおなじことなのである。  看護婦はまた溜め息をついた。 「それでは奥さま、お膳はここへ置いておきますから、お好きなときにお召し上がりになって……」  看護婦は廊下へ出た。外から鍵をかける音がした。  しかし、望月種子はわれ関せずえんと、のろりのろりと部屋のなかを歩きまわる。およそ十分くらいも歩きまわったすえ、彼女はとつぜん、小卓のまえに立ちどまった。なにか不思議なものでも見るような目つきをして、お膳のうえをながめていたが、やがてハム・エッグの皿をもちあげた。皿を左手にもったまま、望月種子はまたゆっくりと歩きはじめる。歩きながら食べるのである。  さすがに腹がへっているのか、食べる速度ははやかった。食べおわると皿をもとの膳にもどして、またのろりのろりと歩きはじめる。小卓のまえへさしかかったとき、また彼女は立ちどまった。ふたたび不思議そうな目をして、お膳のうえを見ていたが、こんどはオート・ミールの皿をとりあげて、またのろりのろりと歩きはじめる。  こんども歩きながら食べるのである。左手に皿をもって、右手でスプーンを口へはこんだ。のろりのろりと歩きながら、やつぎばやにスプーンを口へはこぶのである。  ちょうどそのころ、おなじR大の|解《かい》|剖《ぼう》|学《がく》教室へ、金田一耕助と等々力警部がきていて、法医学の権威者前田博士と対談していた。その隣室の解剖室では、黒亀と宮武益枝の死体の解剖の準備がすすめられているらしく、少し開いたドアのすきから、いそがしそうにいききする白い手術着の姿がちらちらしてみえる。強い消毒液の匂いである。  安楽椅子にふかぶかと腰を落とした前田博士は、デスクのうえの書類を手にとると、 「婦人の被害者……宮武益枝というのですか……その被害者の|膣《ちっ》|口《こう》から採取された精液は、男の被害者……黒田亀吉のものではありませんでした」  前田博士はゴム風船に目鼻をつけたようなボチャボチャと血色のよい童顔である。全身が弾力にとんだ肥満型で、皮膚が赤ん坊のようにすべすべとして清潔である。声も細くて|甲《かん》|高《だか》かったが、テキパキと歯切れがよかった。 「血液型は……?」 「採取された精液はO型でしたが、黒田亀吉はB型ですね」 「そうするとO型の男に犯されて絞殺されたあと、黒田亀吉が……」 「さあ、それはあなたがたの判断にまかせましょう。わたしはただ血液型鑑定の結果を申し上げたまでのことで……」 「それで、先生」  と、金田一耕助は前田博士と熟知の仲なのである。 「宮武益枝はなにか薬をのまされているような気配はありませんか」 「金田一先生」  と、前田博士は目尻にしわをたたえながら、 「それは解剖の結果をお待ちになってください。その疑いはたぶんにあるようですがね。そうそう等々力君」 「はあ」 「黒田亀吉という男ですがね、そうとうひどい梅毒に犯されておりますよ」  金田一耕助は思わずはっと等々力警部をふりかえった。警部は大きく目を見張っている。  ふたりの|頭脳《あ た ま》にそのとき同時にひらめいたのは、望月種子のとつぜんの発狂である。彼女の発狂の原因はそこにあるのではないか。 「それで、先生、感染したのはいつごろかわかりませんか。そうとう古くから……?」 「とも思えないんですがね。ここ二、三年、あるいは四、五年というところじゃありませんかね。しかし、いっこう治療しようとしたようにも思えないのですがね」  ここ二、三年、あるいは四、五年といえば望月種子と関係ができてからということになる。種子の発狂の原因がそれにあるとしても、黒亀から感染したのだとしたら、病歴はそう古くないはずである。そんなに速く病毒が種子の脳細胞を食いあらしたのであろうか。  それとも……と、考えた金田一耕助は身ぶるいをした。  ひょっとすると病毒は種子のほうから黒亀へと、感染したのではあるまいか。  それからあと二三、あまり重要でない質問をしたのち、ふたりはその教室を辞去した。 「金田一先生、ちょっと望月種子を見舞っていこうじゃありませんか」 「ええ、そうしましょう」  玄関のところでふたりは水上三太にぶつかった。 「ああ、警部さん、解剖は……?」 「ああ、これから着手するところだ」 「なあんだ、スローなんだなあ」 「水上君、早苗は……?」 「はあ、いまかえってきたので交代したんです」  石川宏も以前の関係で、この病院へ入院するときまったので、早苗は芝へ必要な品を取りにもどったのだが、その留守中水上三太がいままで宏につきそっていたのである。 「ところで、あなたがたはこれからどちらへ……?」 「いや、ちょっと望月種子を見舞ってやろうと思ってな」 「ああ、そう、じゃ、ぼくもお供しましょう」  水上三太はしゃあしゃあとふたりのあとについてきながら、 「ねえ、金田一先生、教えてくださいよ、ねえ」 「教えろってなにを……?」 「しらばくれないでくださいよ。及川澄子という女のことでさあ。いったい及川澄子って風間欣吾とどういう関係があるんです。昔の|情《い》|人《ろ》なんですか」  金田一耕助はだまっている。警部とならんで黙々として地面を見ながら歩いている。 「そう意地悪をしないでさあ。ぽくが出し抜いたのが悪ければ謝まります。ねえ、金田一先生」  しかし、金田一耕助は依然として無言のままである。 「なんだ、金田一先生はケチンボなんだなあ。警部さん、あなたはご存じなんでしょう」 「ところがぼくもしらないんだ」 「ほんと?」 「このひとはね、ギリギリの確信までこなければ打ちあけないひとなんだ。それがこのひとの流儀なんだ」 「水上君」  と、そのときやっと金田一耕助が重い口をひらいた。 「ぽくはこれからそのことについて、望月種子にきいてみようと思っているんです。なんなら君もきたまえ」 「だって、あんな気が狂った女」 「いや、ところがあのひと、風間氏に関係のあることなら、不思議にはっきりわかるんです。風間氏に対する執念でこりかたまっているんですね」  それからあとはなんと聞かれても、金田一耕助は返事をしなかった。  精神病棟の受付から、望月種子付きの看護婦に電話をかけて、これからいくから部屋のまえで待っていてくれるように通じておいて、三人が廊下を奥へ進んでいくと、看護婦はすでにドアのまえに立っていた。  三人の姿を見ると看護婦はドアに鍵をさしこみながら、 「さきほどこちらの患者さんに、風間欣吾さんというかたが会いたいといってお見えになりました」 「風間欣吾があ……?」  と、等々力警部は、はっとしたように、 「まさか会わしゃしなかったろうねえ」 「もちろん、お断わりしました。そしたら妙なことをいいおいておかえりになりました」 「妙なことって?」 「こちらの患者さんの病原はジフィリスじゃないか、よく調べてほしいって……」  等々力警部と金田一耕助は、またはっとしたように顔を見合わせた。風間欣吾がそういう疑いをもっているということは、とりもなおさず望月種子が古くから、あの忌まわしい病気を持っていたという、疑いのあることを示すのではあるまいか。 「ああ、そう、それでこちらの先生はなんといってらっしゃるんだね」 「それがまだ精密検査するひまがないものですから、……患者さんがもう少し落ち着いてから……」 「ああそう、それじゃとにかくドアを開いてくれたまえ」 「失礼いたしました」  看護婦がドアを開いたせつな、一同はおもわず大きく目を見張った。  だが、つぎの瞬間、等々力警部は看護婦の手から鍵をひったくると、金田一耕助の腕をつかんで部屋のなかへひきずりこんだ。そして、つづいてはいってこようとする水上三太を押しもどすと、いそいでドアをしめてなかから鍵をかけてしまった。  部屋のなかには望月種子が倒れていた。種子のそばにオート・ミールの皿がひっくりかえっていて、|糊状《のりじょう》のオート・ミールが床のうえに散乱し、あちこちにベトベトとした汚点をつくっている。  種子の唇のまわりにも白いオート・ミールがくっついていて、それに血がまじっている。種子はオート・ミールを食べているうちに死んだものらしい。     第二十章 狙撃手      一  悪魔の寵児のやつぎばやの殺人攻勢は、すっかり捜査当局を混乱させてしまったようだ。  世間はもうこれ以上がまんがなりかねるというふうに、金切り声を張りあげて捜査の手ぬるさを非難しはじめる。ここ数日、新聞という新聞は筆をそろえて、ヒステリックな論陣をはっている。等々力警部の両の|小《こ》|鬢《びん》に、白いものがちらほらしはじめたのもむりはないであろう。  宮武益枝の肉体の一部から摘出された精液によって、犯人をわりだそうという|企《くわだ》ても、いまのところそれほど効果がないようである。  O型の男はいくらでもいる。この事件の関係者のなかでもO型の人間は三人あった。風間欣吾がO型であった。有島忠弘がO型であった。水上三太がO型であった。皮肉なことには金田一耕助もO型であったのには、悪魔の寵児も笑ったことだろう。ただひとり石川宏だけがちがっていて、かれは黒亀とおなじB型であった。  さて、それではO型の三人のアリバイだが、殺害の時刻の午前四時から五時までとあっては、アリバイを立証するほうも困難ならば、と、いって反証を挙げることもむつかしい。四時から五時までといえばたいていの人間はまだ寝床にいる時刻で、アリバイがないのがふつうである。  しかも、いま挙げた三人が三人とも、目下のところやもめ暮らし。  風間欣吾は美樹子をうばわれ、保坂君代と宮武益枝を殺されて、残る一人の城妙子にそむかれた。まだかれのふところにとどまっているのは湯浅朱実ただひとりだが、朱実のところへ泊まるわけにはいかなかった。彼女はまだ正式には有島忠弘の妻なのである。だから欣吾は四日の未明は芝の自宅でひとりでベッドにいたという。  有島忠弘は道楽者である。湯浅朱実からまきあげた金で、かれはいろんな女と遊ぶのが、ちかごろの日課のようになっている。泊まることだって珍しくない。ところが三日の夜から四日にかけては、珍しくかれは品行方正であった。自宅でひとりで寝たというのである。  水上三太は独身だから、ひとりで寝るのが当然である。  だが、この三人が三人とも、申し立てにあるように、おとなしく自宅で寝ていたという証拠はどこにもない。さりとて、ひそかに家を抜けだしたという証人もない。  さらに奇怪なのは望月種子殺しである。種子を殺した毒はオート・ミールのなかにはいっていた。それは瞬時にひとの生命を奪うという、ききめのはやい薬である。だが、その薬はいつオート・ミールのなかに投入されたのか。  まず、自殺の場合を考えてみよう。病室のドアには外から鍵がかかっていたのだから、いちおうこの説は成り立つのだ。しかし、それには薬の出所に難点があった。  望月種子はそこへ連れてこられたとき、いちおう身体検査をされたのである。精神異常者の発作的自殺や凶行を警戒するために、これは当然の処置であろう。だが、彼女は薬らしきものは身につけていなかった。  看護婦は部屋を出るときたしかにドアに鍵をかけていった。その鍵は受持ち看護婦と婦長がひとつずつ持っているきりである。ふたりともあの時刻にはその鍵を、|手《て》|許《もと》から放さなかったという。  と、すれば毒薬が投入されたチャンスはただひとつしかない。台所の配膳棚のうえである。そして、そこから犯人の乗ずる可能性がなくはなかったのだ。  望月種子は朝食のパンに手をつけなかった。昼食の日本食もすっぽかしたのである。だから夜はオート・ミールにしてみようということになり、したがって他の患者のお膳とはただひとつだけちがっていた。しかもそこへは看護婦や付き添いたちが、入れかわり立ちかわり出はいりをしていた。ほかの病棟の患者とちがって、この病棟の患者たちは、旺盛な食欲をもっているものが多く、しかもかれらはおとなしく辛抱しているということをしらないのだ。  いきおい食事時といえば配膳棚の周囲は戦場のような騒ぎになる。付き添いにまじって犯人がその|虚《きょ》に乗じなかったとはいえないのである。だが、それがだれであるかわからなかった。  望月種子は猛烈な病毒をもっていた。しかもそうとう病歴の古いもので、なおかつ旺盛な伝染力をもっていた。 「種子がだれからあの病気をもらったのか、わたしにもわからない」  等々力警部の質問にたいして、欣吾は顔をくもらせた。 「わたしは前線にいることが多かったし、したがってあれは|空《くう》|閨《けい》を守る日々がつづいた。いや、わたしがこちらにいるときでも、わたしはあれに手を出すことはなかった。あの女のえたいのしれぬ閨房の生態には、嫌悪をかんじずにはいられなかった。嫌悪と同時に薄気味悪さをおぼえたのだ。わたしはたくさんの女を持ったが、わたしの閨房の|嗜《し》|好《こう》はしごくノルマルで健康だと思う。あの女の嗜好はアブノルマルで不健康で鼻持ちがならなかった。わたしはもっとはやく別れたかったのだが、あれの|親《おや》|爺《じ》に遠慮があった。だから離婚を終戦後までのばしたのだ」  そのとき、あの病気に気がついていたのかという質問にたいして、 「うすうすそうではないかと思った。いろんな点を|勘《かん》|考《こう》して……わたしは別れるまえ数年間、あれと夫婦関係をたっていた。あれはとうてい空閨を守りきれる体質ではなかったのだ。わたしは別れるとき一言もその問題には触れなかった。しかも、過分の手切れ金を渡したのだ。こんなに深く|怨《うら》まれる手はないと思う」  及川澄子という女について質問されると、 「その女ならじぶんが少尉時代に関係があった女だが……|玄《くろ》|人《うと》ではなかった。素人だった。じぶんが下宿していた家の女中をしていた女で、はじめから結婚の意志などなかったうえに、種子の親爺から種子をもらってほしいという話があったので、その女とはそれきりになってしまった。わたしは出世がしたかったのでね」  風間欣吾はほろ苦くわらって、 「しかし、金田一先生がなぜあんな昔の女に興味をもつのかわたしにはわからない。毒にも薬にもならないような平凡な女だったし、それにわたしに捨てられてから半年ほどして死んだと聞いている」  等々力警部もまだ金田一耕助が、なぜその女に興味をよせているのかしらないのである。  その金田一耕助はいま小石川の小日向台町を、|蹌《そう》|踉《ろう》として歩いている。  九月十日午後十時。  等々力警部の|小《こ》|鬢《びん》に白いものがふえたように、金田一耕助もちかごろ|憔悴《しょうすい》が目立っている。かれもいまだかつてこのように悪どい、陰惨で、執念ぶかい犯人にぶつかったことはない。  頭が痛い。ズキズキと頭のしんが脈打って痛む。なんだかめまいがするようだ。体が少しふらふらするのは、熱でもあるのではないか。  金田一耕助はいま小日向台町に住んでいる風間欣吾の旧友を訪れてきたのである。及川澄子のことを聞きにきたのだが、そのひとは及川澄子という名前さえしらなかった。  ああ、頭が痛い。頭のしんで金属製の歯車でもまわっているようだ。めまいがする。耳の底で|地《じ》|虫《むし》が鳴いているようだ。ひどい耳鳴りである。  とつぜん、金田一耕助は横っとびに五、六歩ふっとんだ。うしろから音もなく坂をすべりおりてきた自動車が、猛烈な勢いでかれの背後から迫ってきたのだ。  金田一耕助は横っとびにふっとんだ|拍子《ひょうし》に、道端の溝に足をとられて、思わずそこへつんのめった。  だが、そのことがかれに幸いしたのかもしれない。とつぜんかれは左の肩に灼けつくような|疼《とう》|痛《つう》をかんじた。じいんとそこから腕がしびれた。  本能的に頭を伏せた瞬間のかれの目にうつったのは、自動車の客席からわずかにのぞいている雨男の姿であった。  もう一発自動車の窓から消音ピストルが発射されたが、それはかれの背後にあるどこかの家の|練《ねり》|塀《べい》にあたって、パッと砂が八方へとんだ。  おそるおそる金田一耕助が頭をあげたとき、自動車はフル・スピードで水道端のほうへ曲がるところであった。  左の肩をおさえた金田一耕助の右のてのひらが、ヌルヌルとした生温かいものに濡れてきて、かれはまたはげしいめまいをかんじた。  風間欣吾の愛人のひとり、城妙子が全裸の姿で椅子にしばりつけられたまま死んでいるのが発見されたのは、その翌日のことだった。鉄の鎖がむざんに肉に食いいっていた。      二  私立探偵金田一耕助氏が正体不明の怪人物に射撃されて、目下重態であるということが新聞に出たのは、その翌日、即ち九月十一日の朝のことである。  各紙に出たその記事をここに要約すると——  金田一耕助氏は咋十日午後十時ごろ、文京区小日向台町にある某氏邸を訪問の帰途、|大《だい》|日《にち》|坂《ざか》付近を通行中、背後から疾走してきた自動車の窓から狙撃された。さいわい弾丸は急所を外れたが、金田一氏はそのまま路傍に昏倒してしまった。  それから約二十分ののち通行人によって発見された金田一耕助氏は、ただちに水道端のO病院に収容されたが、多量の出血のためにその容態が憂慮されている。  なお金田一耕助氏を狙撃した犯人は、目下世間を騒がせている悪魔の寵児、あるいはその一味のものではないかとみられている。|云《うん》|々《ぬん》——  この事件は各紙とも大々的な見出しのもとに取り扱っていたが、記事の内容はどの新聞もだいたい以上の域を出ず、重態といい、その容態が憂慮されているとはいうものの、どのていどの負傷なのか、また生命の危険があるのかないのか、これらの記事だけではいっぱんのひとたちにはわからなかった。  いや、いっぱんのひとたちにわからないのみならず、報道関係の連中にも詳しいことはまだわからないのである。  水道端のO病院へ収容された金田一耕助は、絶対安静を要する状態とあって、その病室付近には医者と看護婦以外には、ぜったいひとをちかづけなかったし、だいいちO病院全体が、警官や私服たちによって、げんじゅうな監視下におかれていた。  凶報をきいて水上三太がO病院へ駆けつけてきたのは、九月十一日の午前十時ごろのことであった。かれが駆けつけてきたのは新聞記者としてではなく、個人的な見舞いのためである。  水上三太はかつて金田一耕助によって命を救われたことがある。それに三太は金田一耕助の血液型が、じぶんとおなじO型であることをしっていた。  O病院の一室で等々力警部に面会すると、水上三太は輸血を申し出た。  等々力警部はびっくりしたように、水上三太の顔を見ていたが、やがて無言のまま肉のあつい|掌《てのひら》をさしのべて三太の手を握りしめた。 「ありがとう、水上君、金田一先生もそれをお聞きになったら、どんなによろこばれるかしれないよ。しかし、いまのところ君をわずらわすまでのことはあるまいよ。手近なところに適当な供血者があったのでね」 「手近なところとおっしゃると……」 「わからないかね」 「だれですか、それ……」 「風間欣吾氏さ」 「風間氏……?」  水上三太は思わず呼吸を弾ませた。 「ああ、そう、あのひとが金田一さんとおなじO型だとわかっていたのは、金田一さんにとって仕合わせだったね。ゆうべ電話をかけてこちらへきていただいたのだ」 「それであのひと快く輸血を承諾したんですか」 「ああ、そう、だって金田一さんをこの事件にひっぱりこんだのはあのひとだからね」 「それで、輸血はすでにおこなわれたのですか」 「ああ、けさはやく第一回の輸血がね」 「それで風間氏は……」 「まだこO病院にいるよ。輸血のあとすこしふらふらするというので、別室で静養してもらっているんだ。そうそう早苗君もきているよ」 「えっ、早苗ちゃんが……?」 「ああ、そう、風間氏が電話で呼びよせたんだ。身のまわりの世話をたのむためにね」  水上三太は食いいるように、等々力警部の横顔を凝視しながら、波立つ胸をできるだけ鎮めようと努力している。  身のまわりの世話をたのむなら、なにも早苗でなくともよいはずである。風間家にはおおぜい女中や奉公人がいるのである。それらの女中や奉公人を度外視して、早苗を招きよせたというのには、なにかとくべつの意味があるのだろうか。  水上三太はぐわんと一撃、脳天をくらわされたようなショックをかんじて、思わず両手を握りしめた。  あの男……風間欣吾というあの精力絶倫の怪物は、いま女に飢えているのである。正妻の美樹子をうばわれ、三人の愛人たちに敬遠された風間欣吾に、いま残っている女といえば湯浅朱実だけである。思えばあの|貪食家《どんしょくか》の風間欣吾が朱実ひとりで満足できるはずはない。そういう男の鼻さきへ早苗のような若くて綺麗な娘をおいておくということは、猫に鰹節もおなじことではなかったのか。そして、いまの警部の奥歯にもののはさまったような|口《くち》|吻《ぶり》は、それをじぶんにサゼストしているのではないか。 「け、警部さん!」  と、思わずせきこむ三太の出鼻をくじくように、 「ときに、水上君」  と、等々力警部は冷静そのものである。 「ちょっと君に訊ねたいことがあるんだがね」 「はあ」  熱くなりかけていた水上三太は、それで頭を冷やされたように、やっとわれを忘れる醜態から気を取り直した。 「君、ひょっとすると有島忠弘氏の消息をしらんかね」 「有島忠弘がどうかしたんですか」 「いやね」  と、等々力警部はいよいよ冷静に、 「風間欣吾氏はこのあいだから、有島氏に会見を申し込まれていたんだそうな。それも極秘裡のね。なんでも有島氏のほうから風間氏にたいして、売りつけたいなにものかがあったらしい。それがあんまり執拗なもんだから、風間氏も承諾して、九日の晩の八時を指定したんだそうな。場所は赤坂のQホテルの二階七号室。風間氏はあのQホテルの大株主……というより、株の過半数をもっていて、事実上Qホテルの持ち主といってもいいくらいなんだね。それで約束は風間氏が八時以前に七号室へいって待っている。そして、かっきり八時にノックをすればドアをひらいて、有島氏を部屋のなかへ招じ入れるということになっていたそうな。風間氏は約束どおり実行した。しかし、有島氏はとうとう約束の時間をすぎてもやってこなかった。いや、Qホテルへやってこなかったのみならず、どうやらそれきりゆくえをくらましているらしいんだがね」      三  そのことがこんどの事件と、どういう関係があるのだろうかと、三太はせわしく思いめぐらせてみるのだが、これという意味もつかめなかった。 「風間氏は九日の晩……即ち一昨日の晩、約束の時間に有島氏がこないとみるや、これは一大事とそのことを、警察へとどけてでたというんですか」  水上三太は冷嘲するような調子である。  いちじ薄れていた風間欣吾にたいする反感が、以前に倍してこみあげてくるのは、これが嫉妬というものだろうか。 「まさか」  と、等々力警部は苦笑して、 「けさ輸血にとりかかるまえにその話が出たんだ。そこでさっそくあちこちに手配をしてみたんだが、いまのところいどころがわからない。有島氏は一昨日の夜六時ごろ、自宅を出たきり消息をたっているらしいんだ」 「それでなにか有島氏の身にも、まちがいがあるんじゃないかとおっしゃるんですか。それとも有島忠弘がこんどの事件の犯人だとでも……?」 「さあ、どうだかね。そうむやみに結論をいそいじゃ困るが、なにしろこの際のことだからね。この事件に関係のありそうな人物の足取りは、はっきりつかんでおかなくちゃ……そこでちょっと君に訊ねてみたんだが……」 「ところで、有島忠弘は風間氏に、いったいなにを売りつけようとしていたんです」 「さあ、それだがね」  と、等々力警部は言葉を濁すつもりだったらしいのだが、急に思い出したように、三太の顔を見なおすと、 「そうそう、今月の四日、君が成城のアトリエで宮武益枝と黒亀の死体を発見した日だが……あの日の午後、君は白金会館の湯浅朱実の部屋へ、風間氏を訪ねていったろう」 「ええ、いきましたよ」 「そのときだれか……カメラをもった男だが、そういう男が朱実の部屋からとびだしてくるのにぶつからなかった」  三太はだまって等々力警部の顔を見ていたが、やがてたゆとうような微笑がその口もとにひろがってくると、 「いいえ、だれにもぶつかりませんでしたよ。しかし、おなじような質問をそのとき風間氏からうけたんです。そのときあのひとの狼狽ぶりたらなかったですね。裸でいたところを大急ぎでパジャマをひっかけたというかっこうでね。あっはっは」 「じゃ、その話はほんとうなんだね」 「ええ、そう、でもぼくにはカメラのことはいいませんでしたよ。ただ、階段のとちゅうでだれかに会やあしなかったかと……」 「しかし、君は応接室で待っているあいだに白金会館の横の出口から、レーン・コートにフードをかぶった男が、カメラを肩にとび出していくのを見たそうじゃないか」 「ええ、そう、だからぼくはそのことを風間氏にいったんですが、風間氏はてんで信用しないふうでしたよ」 「そりゃそうだ」 「そりゃそうだとおっしゃると……?」 「いやさ、朱実の部屋からとび出した人物を、君じゃないかとあのひとは疑っていたんだそうだ。だから君がわざとそんな作り話をしているんじゃないかと……なにしろ時間的にいって、君が階段の途中で出会わなかったのがおかしいと思ったんだがね」 「しかし、それゃどこかへ待避していて……たとえば朱実の部屋は三階ですが、四階へのぼる階段へでもかくれていて、ぼくをやり過ごすということもできるでしょう」 「ああ、だから風間氏もあとでそのことに気がついたといっている」 「それで、いったいその男は朱実の部屋でなにをしていたんです?」  等々力警部は無言のまま、三太の顔を見まもっていたが、 「君、当分秘密は守ってもらえるだろうね。新聞に書かないという約束なら……」 「承知しました。|箝《かん》|口《こう》|令《れい》がとけるまで秘密厳守をちかいます」 「ああ、そう、いや、そいつはね、閨房の生態を盗み撮りしていったんだそうだ。風間氏と湯浅朱実の……」  三太は棒をのんだように上体をしゃっきりさせたが、その|双頬《そうきょう》にはみるみる血の気がのぼってきた。 「それはひどい、そいつはひどい! 風間氏はそれをぼくだと思ったんですか。そんな|破《は》|廉《れん》|恥《ち》な真似をする男を……」 「いや、まあまあ、こうなるとかたっぱしから疑いたくなるんだね。だけど朱実ははじめから、有島忠弘じゃないかと疑っていたそうだよ」  水上三太はしばらく等々力警部の顔を見すえていたが、急に双頬の血色が退潮していくと、声を落として、 「そ、それじゃ雨男は有島忠弘だと……」 「いや、そうかもしれんし、また、そうとばかりいえんとも思うんだ」 「と、おっしゃると……?」 「いや、これはさっき風間氏がいいだしたことなんだが、世の中には連鎖反応というものがあるというんだ。保坂君代の裸体写真を撮影したのは雨男だろうが、それを聞いた有島忠弘が模倣を思いついたんじゃないか。そこでじぶんと朱実の閨房の生態を写真にとって、それを高価に売りつけようとしたんじゃないかって……」 「なるほど。もし、そうだとすると一昨夜の会見の約束を、スッポかしたのはおかしいですね」 「それなんだ。風間氏もそれを気にしていたらしいんだ。有島忠弘氏もここんところご|乱行《らんぎょう》がすぎて、だいぶ金に困っていたらしいだけにね。そこへもってきて金田一さんのこんどの災難だろう。ひょっとすると有島氏も……と、いうわけで、輪血のまえに話してくれたんだが……」  水上三太は急に思い出したように、 「そうそう、かんじんのことをお訊ねするのを忘れていましたが、金田一先生はどうなんです。まさか命は……」 「ありがとう。その心配はもうなさそうなんだ。しかし、もとの健康体に回復するまでには、相当時日を要するようだね。なにしろ出血がひどかったから」 「それで意識は……?」 「一度はっきりしていたことがあるんだ。おれが駆けつけてきたときがそうだったがね。しかし、ひととおり遭難当時の模様を語ると、それきりまた意識をうしなってしまってね。そこでなにをおいても輸血をしなきゃということになって、風間氏に電話をかけたんだ」 「そこで、撃たれたのはどこ……?」  だが、等々力警部がそれに答えるまえに、そそくさとはいってきたのは、新井刑事である。 「ああ、警部さん、ちょっと……」  新井刑事の顔がこわばっているのをみて、 「え、なに?」  と、等々力警部の態度もかわった。 「いま本庁から連絡があったんですが……」 「ああ、そう」  部屋の隅へいって、新井刑事のささやきに耳をかたむけていた等々力警部の面上に、大きな驚愕が波紋のようにひろがっていくのを見て、水上三太もキーンと緊張する。  新井刑事の話をききおわると、等々力警部はギロリと三太をふりかえって、 「水上君、さっき話していた有島忠弘のいどころがわかったそうだ」 「いどころがわかったって……?」 「ああ、そう、ただし死体となってな。あっはっは」  と、等々力警部はかわいたような笑い声を立てると、 「しかも、いつぞやの君の言葉をかりれば、こんどもまた奇妙な取り合わせになってるそうだぜ」 「奇妙な取り合わせというと……?」 「いや、それよりも……」  と、等々力警部は歯をむきだして、わざと意地悪そうににやにやしながら、 「君はどうするんだ。早苗君にあわなくてもいいのかい」  一瞬、三太は屈辱のために血の気が頬にのぼるのをおぼえた。わざと意地悪そうにいう等々力警部の語気のそのうらに、男らしいいたわりを感じとった水上三太は、それではこのひとたちはずっとせんから、欣吾と早苗の関係をしっていたのかと、いまさらのようにおのれの愚かさが恥じられた。 「ぼく……ぼく……いまあの|娘《こ》にあいたくありません」 「ああ、そう、じゃわれわれといっしょにくるか」 「どこです? 有島忠弘の死体が見つかったのは……?」 「赤坂のQホテル!」  等々力警部はあしばやに、病院のその一室を出ていった。三太があとを追っていったことはいうまでもない。     第二十一章 女狩り第三号      一  等々力警部も新井刑事も、いっしょについてきた水上三太も、凍りついたような顔をして、写真班の活躍を見まもっている。等々力警部の渋面はいよいよきびしく、三太ももううんざりという顔である。  そこは赤坂のQホテル。このQホテルは各階ごとに一号室からはじまっているから、二階にも三階にも七号室があるわけである。  いま警察の写真班が活躍しているのは三階の七号室の寝室で、ベッドのそばにある大きな革の安楽椅子に、全裸の女が鉄の鎖で縛られたまま死んでいる。  もちろん男の手で|扼《やく》|殺《さつ》されたらしいことは一目瞭然だが、それ以前にさんざんおもちゃにされたらしいことも保坂君代や宮武益枝と同様で、三人目の犠牲者……いや、正確にいえば美樹子からかぞえて四人目の犠牲者は、カステロのマダムの城妙子である。  それにしてもこの事件の犯人は、おのれの犠牲者に、パートナーをあてがうことに興味をもっているらしい。  美樹子のパートナーは石川宏であった。保坂君代のパートナーが風間欣吾の生き人形であり、宮武益枝の相棒が黒亀であったことは、諸君もすでにご承知のとおりである。さて、こんどの城妙子のパートナーとして選択されたのが一代の|蕩《とう》|児《じ》有島忠弘なのである。  それにしても、有島忠弘のパートナーぶりの、なんと珍妙|奇《き》|天《て》|烈《れつ》であることよ。  忠弘も一糸まとわぬ全裸であるが、かれは女王様のまえにぬかずく奴隷のごとく、城妙子の脚下にひれふしているのだが、全裸のかれがただひとつ身につけているものというのが、首にぶらさげているカメラなのである。  まるでかれはこのあえかな女王様のポーズを、撮影したてまつろうとして、うやうやしくぬかずいているかのごとき姿態をしめしているが、この情緒てんめんたる光景のなかで、鼻眼鏡とカメラだけがいやに機械的なかんじなのが、またいっそうこの場のえげつなさを効果づけているようにもみえて、それがおそらく演出者のねらいであったのだろう。 「いったい、これはなんのざまです」  三太は腹の底から怒りの|塊《かたまり》を吐きすてるように、 「これらのポーズになにかとくべつの暗示でもあるというんですか」 「いやいや、おそらく……」  と、等々力警部はけだるそうに首をふって、 「なんの意味もないのだろうよ。この事件の犯人の魂を形成しているのは人間憎悪、人間侮辱の精神なんだな。男にも女にも可能なかぎりの憎悪と侮辱を加えたいというのが、この事件の犯人の異常さなのだ。あの鉄の鎖だってとくべつの意味があるわけじゃないだろう。|残虐性《ざんぎゃくせい》を強調するための小道具にすぎんのだろうし、カメラはゆがんだエロチシズムを誇張したかったのだろう。見たまえ、カメラのレンズがどこをねらっているのかを……」  むろん水上三太もそれに気がついていた。  等々力警部は先着していた所轄警察の捜査主任、田所警部補をよんで事件発見のてんまつを|訊《ただ》したがそれは次のとおりで、かくべつ変わったこともなかった。  この三階の七号室の客は八日の晩からここに投宿していたそうである。そして、九日、十日とこの部屋を占有していたが、けさはやく清算してホテルを出ていったので、ボーイがあとの掃除にはいったところが、このてんまつだったというわけである。  ホテルの帳簿には名前も住所も記載されているが、そんなことはでたらめであろうことはいうまでもない。しかも名前も住所もあいてがいうままに、ホテルがわで記載したというのだから、犯人の用心に抜け目はなかった。  人相をきくと長い白髪をうしろになでつけていて、あざらしのような|口《くち》|髭《ひげ》も白く、大きなべっ甲ぶちの眼鏡は遠視用のレンズがついて二重になっていたというから、おそらく目つきをごま化すためだったろう。  帳簿の職業欄には著述業となっているが、いかにもそういう|風《ふう》|貌《ぼう》にみえたそうである。  ただし|白《しら》|崎《さき》|信《しん》|吾《ご》と帳簿に記載されているその男が、八日の晩からひきつづき、けさまでここに寝泊まりしていたかどうかははっきりしないし、またその間、三階の七号室を訪ねてきた客はひとりもないという。しかし、九日の晩も十日の晩も、ここのホールでかなり多人数の会があったので、それらの客にまじってまぎれこもうと思えば、まぎれこめないこともなかったろうという。 「それじゃ、警部さん、有島忠弘は九日の晩八時に約束どおりここへやってきたんですぜ」 「ああ、ぼくもそう思うんだが、しかし、風間氏の言によると会見の場所として指定したのは、二階の七号室だというんだがね」 「風間氏はそんなことをいってますか……」  と、いいかけて三太はそのまま口をつぐんだ。それ以上言葉をつづけることは、自尊心が許さなかったのである。 「警部さん、妙なものが出てきましたよ」  そのとき所轄警察の刑事のひとりが、へんなにやにや笑いをしながらそばへやってきた。 「これはそこに殺されている男のらしい洋服の、上衣のポケットにあったんですが……」  刑事がくすぐったそうな笑いかたをしているのもむりはない。それは風間欣吾と湯浅朱実の閨房の生態をぬすみ撮りした写真で、ほかにフィルムの一巻もある。      二  現場写真の撮影がおわって医者の検屍がはじまろうとするところへ、風間欣吾がやってきた。  輸血のあととはいえ血色は悪くなかった。むろん供血者の健康をそこなうほども、医者が輸血するはずはないが、いつ見ても五十を越えた男とも思えぬみずみずしい健康な精力が、三太のような若者をさえ圧倒するようである。  三太は少なからぬいまいましさをかんじながら、それとなく早苗のすがたを求めたが、欣吾はひとりで駆けつけてきたらしい。三太はいくらかほっとした。かれはいまのような気持ちで早苗と顔を合わせたくない。  風間欣吾は例によって陶器の皿をおもわせるような目で、まじまじとこの醜怪な見世物を見ていたが、やがてふたつの裸体がダブル・ベッドのうえに抱きあげられるのを見て、等々力警部のほうをふりかえった。 「等々力君、いったい、いつまでこんなことがつづけられるんだね」  と、その顔にもその声にも大した感情の動きはかんじられなかった。もう慢性になっているのかもしれない。 「いや、どうも、……それについてあなたにお訊きしたいことがあるんですが……」 「ああ、なんでも」 「どこか静かな部屋はありませんか」 「それじゃ|階《し》|下《た》へいこう。階下にわたしの部屋があるから」 「そう、それじゃそちらへ……」 「ああ、そう」  と、いきかけてから欣吾は三太を振り返った。 「水上君、君もきたまえ。君にはいっさいの情報を提供するという約束だったからね。等々力君、いいだろう」 「ええ、結構ですとも。水上君はたんなる新聞記者じゃなく、この事件の関係者ですからね」  三太はむっつりと口をつぐんだまま、ふたりのあとからついていった。新井刑事もいっしょだった。  階下にある風間欣吾の部屋というのは、相当ぜいたくな飾りつけがしてあり、オフィスというより客間である。マントルピースのうえに飾ってある壺もなにか|由《ゆい》|緒《しょ》のあるものらしく、壁にかかっている油絵も一流の画家の筆によるものであった。  席がきまると等々力警部は死体発見のてんまつを語ってきかせたのち、さて、改めて質問を切りだした。 「ところで、風間さん、あなたが有島氏にたいして会見の場所として指定なすったのは、たしか二階の七号室だとおっしゃいましたね」 「ああ、そう」 「しかし、有島氏が死体となって発見されたのは、いまごらんになったとおり三階の七号室なんですが、ひょっとすると有島氏が二階と三階を聞きちがえたんじゃ……」 「いや、そんなはずはないと思う。忠弘君は二階の七号室ですねと念をおしていたからね」 「しかし風間さん」  と、そばから口を出したのは新井刑事だ。 「あなたはこんな立派な部屋をもっているのに、なぜここを会見の場所として指定しなかったんです」 「新井君、それじゃ忠弘君の要請にそわないわけだ。極秘裡の会見という要請にね」 「なるほど、それで……」  と、等々力警部がふたたび質問を引き取って、 「それらの応対はいっさい電話でなされたということでしたね」 「それじゃここでもういちど、そのときのいきさつを詳しく話そう。まさかこんなことになっていようとは思わないから、けさはごくかんたんにしか話さなかったからね」  風間欣吾はシガレット・ケースのなかから、ゆっくりたばこを一本抜き取りながら、 「この件について忠弘君から電話がかかってきたのは、七日の午後のことなんだ。じつは四日の件があったもんだから……そうそう、四日のぬすみ撮りの件についちゃ水上君はしってるかしら」 「ええ、さっき話しました。じつは問題の写真もフィルムもここにあるんです。あとでお目にかけましょう」 「ああ、そう」  と、欣吾は|眉《まゆ》ひとすじも動かさず、 「で、そのことがあったもんだから、もしあの件の犯人が忠弘君だったとしたら、いずれ早晩意志表示があるだろうと思っていたんだ。そしたらはたして七日の午後二時ごろ、丸の内のオフィスのほうへ忠弘君から電話がかかってきた。用件はなにか買ってもらいたいものがあるというんだね。ぼくはすぐピンとくるものがあったが、わざとしらばくれてそのしろもんについて質問していると、忠弘君がこういうことをいいだした。われわれは昭和二十二年にも、ある重大な取り引きをしたが、もういちどおなじ取り引きをしようじゃないかってね。この意味わかるだろうね」 「昭和二十二年の取り引きというのは亡くなられた奥さんのことですね」 「おそらくそうだろう」 「それじゃ、もういちどおなじ取り引きをしようというのは、朱実さんを売りつけようという肚だったんですね」 「だろうと思う。それについて証拠物件として、ああいう写真がほしかったのだろう」 「それを承知であなたは会見を承諾なすったんですね」 「ああ、そう、ぼくとしてはもっとはやくからそうであるべきことを願っていたんだ。あの男なら金でカタがつく男だってことを、美樹子のケース以来しってたからね」 「それではそのときの電話の応答を、もう少しくわしくどうぞ」 「むこうから会見の場所と時日を指定してほしいという要求なのだ。それもさすがに恥をしっているとみえて、極秘裡にという要請がついてるんだね。ぽくはすぐこのホテルを思いついたが、この部屋じゃ極秘という線にそぐわない。で、時日は九日の夜八時ということにきめたが、場所はいちおうホテルのほうへ問い合わせてから、こちらから電話するといったんだ。ところが忠弘君のほうでは、じぶんがいまいるところの電話番号をしられたくなかったらしい。それで、こんやもういちどじぶんのほうから電話をするといって、そのときはそれで電話をきったんだ」 「それで、その晩、また電話がかかってきたんですね。お宅のほうへ……?」 「ああ、そう、そのまえにここの支配人に電話をかけて、九日の晩二階の七号室を開けておくようにいっといたんだ。そのとき、おなじ晩にここの二階のホールで、N新聞社の創立記念のカクテル・パーティーがあり、五、六百人の客があるときいたもんだから、そのことを忠弘君にいって、その客にまぎれて二階の七号室へくるようにいったんだ」 「風間さん」  と、等々力警部はきびしい顔をして、 「忠弘氏からかかってきた二度の電話ですがね、それをだれかに|盗聴《とうちょう》されたというようなご記憶はありませんか」 「覚えがないね。オフィスへかかってきたときは、秘書がそばにいたんだが、忠弘君の要請で、すぐ室外へ去らせたし、自宅へかかってきた電話というのは、じつは寝室へかかってきたんだ。ご存じのとおりここんところこのおれは、うちでは男やもめだからね」 「しかし風間さん」  と、等々力警部はテーブルのうえに身を乗りだして、 「だれかがそれをしっていたにちがいありませんよ。そして、八日か九日の夕方までに、会見の場所は三階の七号室に変更したことを忠弘氏にいつわって通告し、みずから白崎信吾と名乗ってここに投宿していて、忠弘氏のやってくるのを網を張って待っていた……」  ……か、それともその白崎信吾と名乗った怪人物は、あるいは風間欣吾じしんではなかったかといいかけて、水上三太はみずからを制した。それくらいのことに気づかぬ等々力警部ではないと思ったからである。     第二十二章 |卍《まんじ》      一  凶悪犯罪には麻痺している戦後の社会だけれど、悪魔の寵児のあいつぐ犯罪には鼻持ちのならぬものがあった。  それは等々力警部がいみじくも指摘したとおり、人間憎悪、人間蔑視、人間侮辱以外のなにものでもない。戦後は枚挙にいとまないほども、凶悪犯罪が|頻《ひん》|発《ぱつ》しているが、これだけ極端に人間性をふみにじった事件はほかにない。等々力警部の|白《しら》|髪《が》のふえるのが目にみえるようだ。  それはさておき、検屍その他の結果、いままでに判明しているところによると、ホテルの事件は、だいたいつぎのような経過をたどっているようである。  有島忠弘は約束どおり九日の夜八時に、ホテルへ訪問してきたらしい。さいわい忠弘とおぼしい人物が、三階七号室のドアをノックしているところを、目撃している人物があるところからみると、かれは二階の七号室で殺害されてしかるのちに三階へ運ばれたのではないらしい。  さて、検屍の結果判明したところによると、かれの死因は意外にも青酸加里の中毒によるものであった。しかも、推定死亡時刻が九日の夜となっているところをみると、かれは三階七号室でなにかを口にしたものらしいが、どうやらそれはウイスキーらしかった。  それからみると、白崎信吾と名乗ってその部屋へ投宿していた人物は、忠弘と面識のある男か、それとも忠弘が心を許すような相手だったにちがいない。  もしその人物が風間欣吾だったとすれば、話はいちばんかんたんである。  欣吾はいちおう二階七号室を予約しておきながら、三階七号室があいていることをしると、白崎信吾と名乗る怪人物に変装してそこに投宿し、改めて部屋の変更を有島忠弘に通告した。そして、約束どおりやってきた忠弘に、青酸加里のはいったウイスキーをすすめた。むろんそのときは変装をといていただろう。  こう解釈すると話はいたってかんたんなのだが、それでは風間欣吾はなぜあのいかがわしい写真を、もち去らなかったのであろうという疑問が生じてくる。  じっさい、その写真はいかがわしい場面の証拠物件としては、非常にうまく撮影されていて、物音におどろいてそちらをふりかえった瞬間に、シャッターが切られたものとみえ、裸のままで抱きあった男女の顔が、おどろきの表情とともにはっきりとらえられている。そういう重大な証拠物件を、風間がそのままにしていったということはうなずけない。  それでは白崎信吾なる人物が、風間以外の男である場合はどうであろうか。しかしその場合でも忠弘に気を許させるということは必ずしも不可能ではないようである。  こういうケースに弁護士が介在するということは当然である。げんに、美樹子との別れ話のさいにも、弁護士がなかにはいったのである。ことに風間は九月の決算期でいそがしかった。そのためにかれは会見を九日の晩まで延期しているのだし、その理由を風間は忠弘につげたという。  だから、その男はみずから弁護士と名乗り、風間が約束の時刻より少しおくれる旨をのべたとしたら、忠弘を安心させることもそうむつかしくなかったのではないか。  ただそのばあいその男は、風間と忠弘の会見のいきさつを相当くわしくしっていたことになるが、風間はまだそのことを朱実にさえ打ち明けてなかったという。それにもかかわらずそれが他へ|漏《ろう》|洩《えい》したルートとして、ふたつの場合が考えられた。  ひとつは電話が盗聴されたばあいだが、もうひとつは皮肉にも、そしてまた意外にも、城妙子の口からもれたのではないかという考えである。  妙子が生きているあいだ、ぜったい口をわらなかったカステロの連中も妙子の死後、ちかごろ彼女が有島忠弘となみなみならぬ関係にあったらしいことを証言して、係官一同を唖然とさせた。  思うに有島忠弘は朱実をうばわれた|腹《はら》|癒《い》せに、妙子をくどいて手に入れたものらしい。美貌で、しかも旧華族という身分は、妙子のような虚栄心の強い女にとって、ひとつの大きな魅力だったのではないか。それに風間から巻きあげるであろう莫大な|身《みの》|代《しろ》|金《きん》も、欲の皮のつっぱった妙子にとって、これまた大きな魅力だったにちがいない。  さらに捜査が進展していくにしたがって、またまた係官を唖然とさせたのは、風間に電話をかけてきた七日の午後の忠弘の行動である。そのときかれは下谷のみすず館という旅館にいたのだが、そのとき妙子がいっしょだったのである。世の中万事色と金、人間の愛欲と金銭欲はじつに|卍《まんじ》ともえである。  しかし、忠弘と妙子のあいだに関係があったとすれば、あれほど悪魔の寵児を恐れていた妙子が、ああもやすやすと、罠におちていった理由もうなずけるだろう。  九日の晩、妙子はいつものようにカステロへ出ていた。すると七時ごろ男から電話がかかってきて、それからまもなく彼女は、おそくとも九時までにはかえるといって出ていったという。そのとき彼女は自家用車をさけ、どこかでタクシーを拾ったらしい。電話を取り次いだのは早苗であった。彼女はあいての男のことを、名前を名乗らなかったので、はっきりしたことはいえないものの、忠弘ではないかと思ったといっている。  Qホテルではだれも妙子に気づいたものはいないようだが、その晩、二階のホールでは、ある男性人気映画スターと、これまた人気ならぶものなしといわれる、女性歌謡曲歌手との結婚披露宴がおこなわれていたので、ホテルの廊下はごったがえしていたそうである。  綿密な検査の結果、妙子の犯されたのは死後らしいということだから、彼女はあの部屋へはいってきた直後に扼殺されたものらしい。彼女の肉体の一部分から検出された男のあれの血液型は、宮武益枝のばあいとおなじくO型であった  こうして有島忠弘と城妙子殺害前後の事情は判明したが、肝心の犯人については、いまだに雲をつかむような状態である。それはまるで厳重に密封されたうえに真っ黒に塗りつぶされた瓶の外側を撫でているようなもので、瓶の形状や性質は判明したものの、さてその内側に密封されているものはなんであるのか——それを透視することのできぬもどかしさ——  そのもどかしさに胸をやきただらせているひとりに、水上三太がいることはいうまでもない。  きょうこのごろの水上三太は、なにかしら咽喉がひりつくようないらだたしさに胸をかまれているのだが、その原因が早苗にあることは、これまたつけ加えるまでもないだろう。      二  九月十八日の晩、水上三太はとうとう意を決して、芝公園のそばにある風間欣吾の邸宅へ忍びこんだ。等々力警部の|口《くち》|吻《ぶり》から、早苗と欣吾とのあいだに関係があるのではないかと気づいたとき、正直なところ、かれはそれほど失恋の思いはふかくなかった。  三太はもちろん早苗が嫌いではない。いや、大いに好もしい感じを抱いている。好きだったからこそ唇を重ねたのだが、さてそれ以上のものを要求しようとしなかったのは、かれにはどこか古風なところがあって、結婚ということを考えるとき、かれの脳裡からはどうしても、九州にいる母の面影が消えなかった。  もちろんかれは、母の希望に盲従しようという気持ちはさらさらない。おそらく郷里にいる母も、かれに嫁を押しつけようとは思っていないだろう。しかし、できたらじぶんも好きになれ、母の気にもかないそうなあいてと結婚したかった。母もそれを望んでいることはいうまでもない。  さて、そうなってくると早苗はかれにとって、適当な配偶者とはいいかねる。かりに早苗の人柄が気に入るとしても、げんざいの彼女の身分職業が、母の希望に添うだろうとは思えなかった。それが唇を重ねながらも、それ以上の要求を、もちだすことをひかえている大きな原因でもあり、理由でもあった。  三太もむろん童貞ではない。学生時代からアソビの味は知っている。しかし、いっときの|気《き》|紛《まぐ》れなアソビの対象として考えるには、早苗はいささか可憐すぎた。いや、少なくとも三太の目にはそううつっていたのだ。  ああいう店ではたらいている女には珍しく品行方正である、と、三太はいままで買いかぶっていた。唇を重ねるようになる以前、三太も二、三度冗談半分に誘ってみたことがあるが、早苗はいつも取りあわなかった。これは三太にたいしてだけではなく、どの客にむかってもそうであるらしかった。  お高くとまっているのよとか、狙いが大きくていらっしゃるとか、仲間うちでは評判がよくなかったが、ひょっとするとまだ男をしらないのではないかとまで、三太は買いかぶっていたものである。その早苗が風間欣吾と関係がある。——と、いう事実は三太にとってひとつの大きなショックであった。さっきもいったとおり、ふしぎなくらい失恋の想いはなかったのだが、|欺《あざむ》かれていたという不快感は払拭できなかった。  ひょっとするとじぶんの態度が煮えきらないので、しぜん風間の誘惑にのったのではないか。もしそうだとするとじぶんにも責任がある。——と、そこはまだ若いだけにうぬぼれがある。どちらにしても三太はそれを、はっきりと突きとめないではいられない衝動をかんじはじめた。といって、口が裂けても質問できるべき問題ではない。そこで思い立ったのが風間邸へ潜入ということである。  もちろん一どや二ど忍びこんだところで、ふたりの情事の実証がつかめようとは思っていない。しかし、そうしなけれぱいられぬ何物かがかれの衝動を刺激するのだ。それを嫉妬ではないと、三太はじぶんでじぶんにいってきかせるのだが。……  九月十八日の夜十一時、三太は芝公園わきにある、風間邸の裏門付近の塀を乗り越えた。六月下旬、望月蝋人形館へ忍びこんで以来、じぶんの|梁上《りょうじょう》の君子ぶりもだんだん板についてくると、三太はわれながらおかしくなる。  早苗と兄の宏がいま住んでいる、もと執事邸であったその小さな住居は、裏門をはいってすぐ左側にある。その住居はいましんと寝しずまっているかのように、|灯《あかり》を消してちんまりと薄曇りの空の下に居かがまっている。  付き添いの川崎もと子は通いだから、夜は兄と妹のふたりである。 「早苗ちゃん……早苗ちゃん……」  三太は玄関に立って|訪《おとの》うてみた。早苗がでてきたらなんとか口実をもうけるつもりであった。 「早苗ちゃん……早苗ちゃん……」  こんどは少し声を大きくして、玄関の|格《こう》|子《し》をゆすぶってみたが、依然として返事はない。  宏ももう退院して、とっくにこの家へかえっているはずなのだが、ふたりともいま寝入り端なのかしら……  三太は玄関をはなれて家の側面へまわってみたが、そこで思わず呼吸をのんだ。雨戸が一枚、ぴったりしまっていないで、少しすきまができている。手をかけてみると果たして開いた。 「早苗ちゃん、宏君、雨戸が開いているよ。物騒じゃないか」  声をかけながら三太は靴をぬいであがりこんだ。なかは真っ暗だが、かってのわかった間取りである。  懐中電灯を照らしながら早苗の部屋へはいってみると、寝床はとってあるが早苗はいない。身をよこたえたようすすらない。三太はつぎに襖をひらいて宏の寝間をのぞいてみた。宏は少し荒い息使いをきかせながらそこに寝ている。その顔を懐中電灯で照らしてみて、三太は限りない憤激が肚の底からこみあげてきた。  うちつづく打撃に|憔悴《しょうすい》し、|枯《こ》|痩《そう》しきった宏の寝顔は、なにかしら凄惨な印象を見るひとに与えるが、いま三太を襲った憤激はただそれだけにあるのではない。  宏はあきらかに睡眠剤をのんでいるのである。じぶんでのんだのか早苗にのまされたのか。……三太はすぐに襖をしめ、早苗の部屋から縁側へ出た。雨戸をしめるときかれは、もとどおり細目に開けておくことを忘れなかった。  三太のいくさきはきまっている。それはいつか風間欣吾に案内された昔の防空壕である。その防空壕の鉄の揚げぶたは、果して錠が|外《はず》れていた。三太はなんの|躊躇《ちゅうちょ》もなく、その鉄板をあげてなかへもぐりこんだ。  階段をおりるとそこにサンダルがぬぎ捨ててあり、床にまだ新しいスリッパの跡がついている。早苗がいまこの地下道をとおって情人のもとへ通っていったのだ。  三太の憤激はしだいにおさまり、一種の滑稽感が腹の底をくすぐるようだ。あのオールド・ドン・ファンの愛撫の手をもとめて、深夜ひそかに地下道を抜けて通っていく女。それをまた鼻ひょこつかせて嗅ぎまわっている男。……  しかし、これは笑いごとではない。三太はしっかりふたりの情事の実証をつかまなければならないのだ。三太は靴の紐をむすびあわせて腰にぶらさげると、靴下はだしのまま躊躇なく地下道へもぐりこんだ。  それから三分ののち水上三太ははっきりと、欣吾と早苗の情事の現場を目撃したのだ。  そのときかれは風間邸がわの階段をのぼりかけていたのだが、頭上の廊下を歩く足音をきいて、懐中電灯の灯を消した。足音のぬしはふたりであった。なにがひそひそささやく声とともに、観音開きの扉がひらく気配がして、やがて頭上があかるくなった。押し人れの床が揚げられたのだ。  早苗は素肌に絹のネグリジェを着てうえからガウンをはおっていた。早苗をそこまで送ってきた風間欣吾も、あらい堅縞のパジャマにガウンをひっかけていて、ふたりともいまおわったばかりの情事の移り|香《が》にぬれているのである、早苗は階段のうえまできたところで、 「パパ……」  と、甘ったれた声でふりかえった。 「うう、よし」  ふたりが抱きあいはげしく唇を吸いあう音をあとに聞いて、三太は地下道の闇をひきかえした。  三太の憤激はもうとっくの昔にあとかたもなく消えていて、それから半時間ののち目黒のアパートへかえってきたとき、かれはむしろ重荷をおろしたような気持ちであった。  アパートの玄関からそのまま階段をあがろうとすると、管理人の部屋の窓がひらいて、 「ああ、水上さん、ちょっと」 「なに、おじさん」 「さっきから二度電話がかかりましたよ。二度とも等々力さんというかたからです。おかえりになったら、すぐここへ駆けつけてくるようにって……所をここへひかえておきましたが……ああ、そうそう、だれにも内緒で……」  管理人のおじさんから渡された所書きは|渋谷松濤《しぶやしょうとう》にある派出所を指定してある。それを手にしたまま、三太はしばらく突っ立っていたが、 「いや、おじさん、ありがとう」  かれはその足で、ふたたびアパートをとびだした。     第二十三章 |罠《わな》  そこは渋谷松濤の一角にあるかなり広い建物の、妙にがらんとした部屋のなかである。この部屋の妙にがらんとして殺風景なのもむりはない。この建物はまだすっかり|竣成《しゅんせい》していないのである。いや、建築業者の手ははなれ、電気もきているのだけれど、まだ内部の飾りつけができていないので建築主はまだ移り住んでいないのである。  白ペンキを塗った表の立て札によると、建物主の名前は山本ウメ子となっているが、この平凡な名前の持ち主が、いまをときめくミュージカルの女王、湯浅朱実であることをしっているものはあまりにたくさんはいない。げんにいまこの建物の一部にひそんでいる水上三太でさえが、まだそのことに気がついていなかった。  それはそうであろう。渋谷松濤といえば東京都のなかでも一等地である。そこに千坪あまりの敷地を擁し、しかも樹木も多いこの場所を手に入れるだけでもたいへんな出費である。おまけに洋風三階建ての建物は、近代建築の|粋《すい》をきわめており、庭にはプールもつくるつもりらしい。湯浅朱実いかに人気スターとはいえ、とてもこれだけの豪勢な邸宅をかまえるだけの収入があろうとは思えない。  松濤の派出所で等々力警部と落ち合った水上三太は、理由もしらされずに、この建物の一階広間とおぼしい部屋へつれこまれて、真っ暗な部屋の一隅にひそんでいるのである。いや、いま、真っ暗といったけれど、それは文字の誇張であった。まだカーテンのおりていない一枚ガラスの窓からは、くもり空のほのかな外光がしのびこんでいて、黒白も弁じかねるというほどではない。  それはおそらくサロンとか、ホールというような部屋になるらしく、広さは日本のたたみにして、二十枚以上は敷けるだろう。さっきもいったようにまだ内部の飾りつけが完了していないので、部屋の隅には大きな木製の箱がふたつ三つ。梯子や|脚《きゃ》|榻《たつ》やバケツなどがごたごたとおいてあり、身をひそめるには|究竟《くっきょう》の場所である。  三太が等々力警部とともに、ここに身をひそませてからすでに三十分。もうかれこれ一時である。  どうやら表にベショベショと陰気な雨が降りだしたらしいと気がついたとき、三太は背筋をつらぬいて走る|戦《せん》|慄《りつ》をおさえることができなかった。  雨男出現にとっては、もってこいの舞台装置になったようだ。警部はなにも語らないけれど、かれらが待ちもうけているものが雨男であろうことを水上三太はしっている。  それにしても三太は不思議でたまらない。かれのひそんでいるところから、廊下をとおって三つめあたりの部屋のなかに、だれかがいるらしいのである。ときおり物のきしる音、切なそうな息使いが、あたりがしずまりかえっているだけに、手にとるように聞こえるのである。  等々力警部にもその気配はきこえているにちがいない。それでいて警部はいっこうにそのほうへ関心を示そうとはしない。しかも三太は警部の許可がでるまでは、一切の発言を封じられているのである。  三太の腕時計がきっちり一時を示したとき、かれはふとひそかな足音を建物の外にきいた。足音はベショベショと降りしきる雨のなかを、用心ぶかくこちらのほうへちかづいてくる。  足音が玄関からなかへはいってくると気がついたとき、三太の心臓はいまにも|咽《の》|喉《ど》からとびだすのではないかと思われるほど、すさまじい|乱拍子《らんびょうし》を打ちはじめる。  等々力警部がそばから強く三太の|手《て》|頸《くび》を握りしめた。警部のてのひらも、べっとり汗にぬれている。  足音がホールのまえを通りかかった。ホールにはまだドアが取りつけてないので、足音のぬしは通りがかりに懐中電灯の光でホールのなかを撫でていったが、むろん箱のかげにかくれているふたりには気がつかなかった。  足音がホールのまえを通りすぎると、さっきから三太が気にしている部屋へはいっていくようすである。  箱のかげから身を起こした水上三太は、全身ぐっしょり汗にぬれている。  三太はちらと見たのである。長いレーン・コートに長靴をはき、フードをかぶったうしろ姿を……。 「かかった、罠に、……」  耳もとでささやく警部の声も、おさえがたい興奮にふるえている。警部の手はまだ三太の手頸を握っていた。 「だれ……? いまのは……?」  三太はふるえる声で聞きかえしたが、等々力警部は答えない。  砕けるばかりの強い力で三太の腕を握りしめた等々力警部は、いま雨男がはいっていった部屋の気配に全身の神経を集中している。顔がべっとり汗に濡れているのが薄闇のなかでもはっきりわかった。  一瞬、二瞬。……この未完成の建築物のなかは、一種異様な静寂につつまれていた。それは鬼気という言葉がいちばんぴったりあてはまりそうな、それこそ骨の髄まで凍りつきそうな静寂だった。  とつぜん、その静寂をやぶっていりみだれた足音がきこえてきた。たしかにさっき雨男がはいった部屋からだ。しかも、そのいりみだれた足音にまじってきこえてきた、怒りにみちた鋭い悲鳴が、女のものであるとしったとき、三太の心臓は胸のなかで凍りつくかと思われた。  三太はその悲鳴のぬしがだれであるかに気がついたからである。……  それからあとの悪夢のような情景は、おそらく三太の網膜に生涯こびりついて消えることはないであろう。  等々力警部とともに駆けつけたとき、そこにはあかあかと電灯がついており、 「医者を! 医者を!」  と、叫びながら、いそいでベッドのうえに縛りつけられた女の裸身を毛布でおおうたのは、金田一耕助であった。  金田一耕助は左手を肩からつっているけれど、ついこのあいだ輸血をうけたばかりの患者とは思えなかった。  三太がベッドの女に目を転じると、猿ぐつわをかまされた犠牲者は、風間欣吾のさいごの愛人朱実であった。  朱実はおそらく金田一耕助の要請をいれ、悪魔の寵児をおびきよせるための|囮《おとり》となることを承諾したのだろう。したがってそうとうの打撃は覚悟していたのだろうけれど、なおかつその顔は極度の恐怖にひきつって、金田一耕助が猿ぐつわをはずしてやってもただわなわなと唇が痙攣するばかりで、言葉は咽喉から出なかった。  それにしても、金田一耕助が毛布をかける瞬間に、水上三太は見てしまったのである。朱実が妊娠しているらしいことを……  さいごに水上三太はいちばんいやなものに目をやった。それは部屋の一隅の床に倒れて男の腕のなかですさまじいのたうちをつづけている雨男である。  雨男を膝のうえに抱いているのは風間欣吾であった。風間欣吾がぬがせたのか、それともしぜんにふっとんだのか、雨男のフードもタングも黒めがねも外されていて、いましも欣吾の腕のなかで断末魔の痙攣をつづけているのが早苗であるとしったとき、三太ははげしいめまいと|嘔《おう》|吐《と》をおぼえずにはいられなかった。  かれの嘔吐をいっそう強く促進したのは、旱苗のそばにころがっている妙なしろものである。それは太い注射器のようであったが、注射針はついていなかった。その太いガラス管のなかには、なにやら乳白色の液体がいっぱいつまっていたが、それがなにであるか、床のうえにこぼれ散ったおなじものの匂いでわかった。  それは早苗がさっき風間欣吾の体内からしぼりとってきた、男の情欲の噴出物であり、これこそ女がいかにえげつない悪魔になりうるかという、もっともたしかな物証であったろう。  早苗の痙攣がまだおさまらぬうちに、風間欣吾はつめたくその体をつきはなすと、等々力警部の手にひきわたした。そして、ベッドのそばへちかよると毛布のうえからつよく朱実を抱きしめた。 「パパ……」  朱実の頬にやっと血の気がさしてきて、 「ごめんなさいね。こんなあさましいところをお目にかけて……でも、金田一先生がこれしかパパを救うみちはないとおっしゃるもんだから……」 「ああ、いいんだよ。いずれこの説明は金田一先生から伺おう。それより、朱実。おまえ妊娠してるんじゃないか」 「ええ、パパ」  と、朱実は下から欣吾の首に両手をまきつけると、 「パパのタネだってこと信じてくだすって?」 「おまえ、なぜ」  と、欣吾はちょっと絶句して、 「もっとはやくそのことをおれにいってくれなかったんだね」  欣吾はもういちど朱実の体を抱きしめると、つよくはげしく唇を吸った。  金田一耕助とともに張りこんでいた新井刑事が医者をつれてきたとき、早苗はもう絶息していた。死因は青酸加里であった。     第二十四章 嵐の後      一  はげしく凶暴な嵐は去った。  七月下旬からはじまって、九月十八日の晩大団円をつげるまで、足かけ三か月にわたって、凶悪無残な猛威をふるった悪魔の寵児のカップルのうち、早苗はみずから生命をたち、早苗の従兄にして情夫であった石川宏は、精神病院へ収容された。  精神状態がおかしくなるまえ、宏は取り調べの警部にむかっていったという。 「早苗はバカだ。金田一耕助に気をつけろとあんなに強くいっておいたのに。あいつの怪我だってひょっとするとわれわれを|欺《あざむ》く罠かもしれねえから、もう少し負傷の状態がハッキリするまで、つぎの行動はひかえようといっておいたんだ。だけど朱実が妊娠しているだけに、早苗としては落ち着いていられなかったんだな。馬鹿なやつさ。だけどあの輸血が嘘だったとは驚いた。これにゃまんまとオヤジにしてやられたよ。やっぱりオヤジにゃかなわねえのかな。あっはっは」  強い麻薬をつかいわけることによって、まんまと専門家さえ欺いたつもりの宏であったが、じっさいにかれは専門家の鑑定どおりの精神異常者だったのだろう。それが先天的なものであったか、麻薬の刺激による後天的なものであったか……おそらくその両方だったのだろう。  水上三太はこの事件でかなりひどいショックをうけたが、さいわいかれはそれほどセンシブルではなかった。肉体的にも精神的にもそうとうタフにうまれついているかれは、まもなくみずから努めて、忌まわしいショックの記憶をふるい落とすと、毎日の勤めにいそがしい。おりあたかも海外からぞくぞくとやってくる音楽家攻勢に、もとの文化部へ席をもどした水上三太は、このところ|寧《ねい》|日《じつ》なしというありさまである。  十月の下旬、三太は風間欣吾からQホテルへ招待された。この事件の捜査に関係した連中を招いて、一夕労をねぎらおうという主旨なのである。  三太はまだこの事件について金田一耕助とゆっくり話しあう機会がなかったので、このさいいろいろ聞いてみようと、その晩早目にQホテルへ出向いていった。  三太が到着したときにはまだ主人公はきておらず、金田一耕助と等々力警部のふたりがロビーの隅でのんびりと話しあっていた。三太がそのなかへわりこむと、ふたりが快く席をあけた。 「さっそくですがねえ、金田一先生」  あたりにひともいなかったので、三太はひととおりの挨拶ののち、さっそくあの問題について切りだした。 「こんやひとつ先生に、いろいろお話をうかがいたいと思ってやってきたんです。それゃあなたがたがぼくの気持ちを尊重して、あの話を避けたがっていらっしゃることはわかります。しかし、もう大丈夫です。ぼくのショックも|平《へい》|癒《ゆ》いたしましたからね」 「あなた、ほんとにショックだったんですか」  と、金田一耕助はれいによって、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、三太の顔をのぞきこむようにしてにこにこしている。ひとなつっこい笑顔である。 「いやあ、大したショックでもなかったなんていうと負け惜しみになりますからね。いちじはあの事件が片づいたら、結婚しようかとまで考えたくらいですから」 「危ないところだったね」  と、等々力警部がつぶやいた。 「まったくそうです。その点、お|二《ふ》た方にたいしてなんとお礼を申し上げてよいかわからぬくらいです」  と、三太は謙虚な気持ちでペコリと頭をさげると、 「ところで、金田一先生」 「はあ」 「あなたはいつごろからあのカップルが怪しいと、気がおつきになったのですか」 「それはねえ」  と、金田一耕助は照れくさそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしていたが、あいての真剣な目つきに気がつくと、 「いや、失礼しました」  と、ペコリと頭をひとつさげると開きなおって、 「それはやっぱり風間氏の過去を調査していくうちに、及川澄子という女にぶつかったからですよ。その女は風間氏が望月種子と結婚するために、|弊《へい》|履《り》のごとく捨てた女で、それからまもなく自殺している。自殺したのが昭和七年の十二月七日のことなんですが、それより約半年以前、即ちその年の四月下旬に風間氏は望月種子と結婚式をあげている。それがおかしいと思ったんです」 「おかしいとおっしゃるのは……?」 「いや、及川澄子の自殺の原因が風間氏に捨てられたところにあるとすれば、風間氏の結婚直後に自殺すべきだと思うんです。それを七か月以上ものばしたというのは、そこになにか自殺できない理由があったのではないかと、そこで及川澄子のことを調査していったのです」 「はあ、はあ、なるほど」 「そうすると、及川澄子に|房《ふさ》|子《こ》という姉がひとりあり、その房子が|石川亘《いしかわわたる》なる男と結婚して、当時横浜に住んでいたが、夫婦のあいだに宏という倅があるということがわかりました。しかも、宏の誕生日というのが昭和七年の十二月一日となっており、その月の五日、即ち澄子の自殺する二日まえに正式に入籍されているのです」 「ああ、なるほど」 「しかも、さらに興味ふかいことには、宏の父なる亘という人物は、昭和六年十二月に悪質の詐欺横領の罪にとわれて刑務所入りをしており、昭和七年の十一月に出所しているんです。と、すると石川宏なる人物はいったいだれの子かというわけですね」 「なるほど」 「もちろん良人の服役中房子が他の男と通じて、子供をうんだとも考えられます。しかし、宏が入籍されたころには、亘はもう出所しているんですから、宏の入籍は亘も同意のうえで行なわれたと思われます。しかし、房子はしじゅう良人に面会にいっていますし、出所後も夫婦仲は悪くなく、昭和九年には早苗がうまれています。だから宏は亘夫婦の子供ではなく、澄子の腹にうまれたのではないか。澄子はその子がうまれるまで自殺をのばし、その子が姉夫婦の子として入籍されるのを待って自殺したのではないか。しかも、そのこと……じぶんに子供があるということを、風間氏は気がついていないのではないか。……と、こう考えると、悪魔の寵児のあのえげつない人間侮辱、人間憎悪、人間蔑視の心理も理解できるような気がしたのです」 「つまり、母とともに父から弊履のごとく捨てられた男の子の、父にたいする一種のエディプス・コムプレックスなんですね」 「そういっていえないことはないでしょう。おのれの立身出世のために母を捨てた男、そしてその母を死にいたらしめた憎むべき父……その父からことごとく女をうばって、いったんじぶんのものにして殺害する……エディプス・コムプレックスのもうひとつの複雑なやつですね」 「それにはもうひとつ、宏と早苗の育った環境も影響しているんだね」  と、そばから等々力警部が補足する。 「石川亘という男は昭和十七年に戦死しているんだ。そこで房子という女は、横浜港の水先案内をしていた男とくっついた。むろん戦争中のことだから正式な結婚じゃなく、|妾《めかけ》みたいなもんで、くっついた男にゃ妻もあれば子もあった。宏と早苗は妾の連れ子のようなかたちで育てられたが、戦後旦那というのが麻薬の密輸かなんかやっており、房子もそれを手伝わされていた。その房子が昭和二十三年に死亡して、そこで宏と早苗は完全にみなし児になったんだが、それ以前に宏は房子の口からおのれの|素性《すじょう》をきいていたにちがいないね」 「昭和二十三年といえばその時分に、風間欣吾氏のスキャンダルが、新聞紙上をにぎわせたわけですね」 「そうだ、そうだ。だからそれ以前に房子はすでに宏にむかって、その素姓を打ちあけていたかもしれないが、もしまだ打ちあけていなかったとしても、そのとききっと話をしたことだろうと思う」      二  しばらく三人は黙りこくっていた。三人のふかすたばこの煙が、なにか奇妙なパズルのような線をえがいて、ロビーの高い天井に舞いあがる。  きょうはここのホールになんの会合もないのか、ホテルのなかはいやにひっそりしている。ときおりロビーを横切るひともあったが、客種のよいのをもってしられているこのQホテルでは、けたたましい足音を立てるひともいなかった。 「風間氏が……」  と、しばらくして金田一耕助がポソリと口を切った。 「あのような莫大な財産をつくらなかったら、宏の発作もこうまで凶暴なかたちとなって、現われなかったんじゃないかと思うんですがね」 「それは、どういう意味ですか、金田一先生」  水上三太の質問にたいして、金田一耕助は暗い渋面をつくってみせると、 「いや、風間氏は戦後あのような莫大な財産をつくった。本来ならば、血統のうえからいえば、宏こそその唯一の相続人であるべきです。風間氏にはひとりも子供がないのですからね。いや、なかったのですからね」  と、金田一耕助はあわてて前言を訂正すると、ホロ苦い微笑をうかべて、 「しかし、宏にはその請求権がなかったし、またじぶんを風間氏の子供であると認知させる手段もなかった。当時の証人はすべて死にたえているのですからね。そのことがいっそう宏の|忿《ふん》|懣《まん》をあおり、かれをデスペレートな凶暴さに駆りたてたのではないかと思うのです」 「その宏の凶暴さに……」  と、さすがに三太は|咽《の》|喉《ど》のおくに魚の骨でもひっかかったような声で、 「早苗が油をそそいだというわけですか」  三太の目にはいまでもあの忌まわしい注射器がのこっている。それを思いうかべるたびに、かれは背筋をつらぬいて走る|悪《お》|寒《かん》を禁ずることができないのである。 「ええ、そう、そういうことはいえるでしょうねえ」  と、金田一耕助は三太の顔から目をそむけて、 「しかし、早苗には早苗で彼女じしんの目的があったのではないでしょうかねえ。つまり競争者を全部倒して、じぶんが美樹子のあとがまになろうというノ……それだけに朱実が妊娠しているとしったとき、ことを急いで破滅を招いたともいえなくないと思うんです」 「しかし、金田一先生、そのことは早苗じしんが思いついたというよりは、宏が|教唆《きょうさ》したのではないでしょうか」  そういってから水上三太はおもわず顔があからむのをおぼえた。かばう必要もない女をこうしてかばっているじぶんを、誤解されはしまいかと思ったからである。  しかし、金田一耕助は言下に答えた。 「もちろんそれはそうですよ。水上君、それを|好《こう》|餌《じ》に宏が早苗を説きふせたのでしょう。宏はいかなる手段を|弄《ろう》してでも、風間氏の財産をじぶんの情婦に相続させようと思っていたんでしょうし、あの男はまたじぶんにそれだけの権利があると考えていたんじゃないですか」 「そうすると、究極の目的は風間氏の殺害にあったわけですか」 「……でしょうねえ。エディプス・コムプレックスの変型だったとしたら……」  しばらくあいだをおいたのち、また水上三太が切り出した。 「それはそうと金田一先生、早苗はいつごろから風間氏と関係があったんですか」  金田一耕助はにっこり三太の顔を見て、 「水上さん、その真相にいちばんはやく接近したのはあなただったんですよ」 「と、おっしゃると?」 「だって、心中の挨拶状が五枚しか使用されていないのを、さいしょに問題になすったのはあなただそうじゃありませんか」 「あっ!」  と、三太は口のうちで叫んで、 「それじゃ、早苗も受け取ったひとりなんですか」 「そりゃ、ほかの四人……三人のマダムと朱実ちゃんが受け取っているのに、早苗だけが受け取らなければ風間氏に怪しまれますからね。ところが、早苗のことはカステロのマダムのてまえかくしてあった。そこへあなたがあの女に心をひかれていらっしゃるらしいので、その気持ちをうまく利用しようというわけで、風間氏も早苗のことだけはあなたにかくした。あなたにかくした以上、わたしにも秘密にしていたわけで、そこがまんまと犯人たちの思うつぼにはまってしまったわけですね」  水上三太はちょっと気持ちの整理をするのに、困難をかんじなければならなかった。かれは早苗と風間欣吾のあいだに関係ができたのは、早苗たちふたりが風間邸へうつってからのことだとばかり思っていたからである。 「そうすると、望月種子も早苗のことだけはしらなかったんですね」  水上三太の質問にたいして、しばらくあいだをおいたのち、金田一耕助はまた暗い渋面をつくって答えた。 「ここで望月種子の役回りを考えてみましょう。宏は風間氏にたいする復讐を考えたとき、おそらく風間氏の過去を詳細に調査したにちがいありませんね。と、すれば第一にうかびあがってくるのは望月種子です。しかも、種子はいまだに風間氏にたいして、深讐綿々たる未練をもちつづけている。これをなんらかの形で利用しようということは、宏ならずとも思いつくことでしょう。あの婆あさんの異常なほどの未練をしればね。しかし、宏も早苗もぜったいに種子のまえへ姿をあらわさなかった。ただ電話の声として種子に万事指令を発していた。それが種子のいわゆるご神託なんですね。だからふたりがじぶんたちにつごうの悪いことを、種子にしらせるはずがありませんよ」 「そうすると……」  と、三太はいまさらのように咽喉のおくがひりつくようなのを、内心の憤りとともにのみくだして、 「美樹子の死体が盗まれた晩は、宏は昏睡していたのですから、早苗が電話をかけたということになりますか」 「そういうことになりましょう。あなたと宏を部屋へのこして、医者を呼びにいったとき公衆電話を利用したんでしょう。そのときの宏と早苗の計画では、種子がその手にのって屍体を盗みだしてくれればよし、そうならなくとも、なんとか取りつくろう口実は考えてあったのでしょう、美樹子は死んでいるのだし、風間氏は敵の多い人物ですからね。ところがまんまと種子がふたりの手にのって屍体を盗み出してくれたので、このふたりの悪の天才は、完全に煙幕のかげにかくれることができたわけですね」 「そういえば……」  と、しばらくして三太がまた溜め息とともに呟いた。 「保坂君代が明治記念館から雨男に誘拐された晩、ぼくはおなじ時刻に、宏が風間邸の付近をふらついているのを見たんですよ。そうすると君代を連れ去った雨男は早苗だったわけですね」 「ええ、そう、あなたも早苗が死んだ晩ごらんになったでしょう。あの雨男の扮装というのは、まことにうまくできていて、長靴に細工をすれば身長の二寸や三寸、高くみせかけることはぞうさなかったんです。男と女の二人一役の扮装としては、まったくうまく考えたものですよ」 「それにしても、早苗はどういう口実で君代をああもうまく誘拐できたんでしょう」 「美樹子の名前が利用されたんじゃないですか。あのじぶん美樹子はまだはっきり死亡したとは、断定しにくい状態にあったし、そのことが君代にとっては大きな関心事だったでしょうからねえ」  三太はまたあの忌まわしい注射器を脳裡にうかべたが、すぐまたそれをもみ消すと、 「そうしておいて、悪魔の寵児のふたりは種子に命じて宏を誘拐させたんですね」 「ええ、そう、おそらく世間注視のなかにあっては、その後の活動にさしつかえるからでしょうねえ。それですからねえ、水上さん」 「はあ」 「あなたが発見したときのあの望月蝋人形館の地下室における宏の状態は、宏じしんがつくりあげたもので、宏はなるほどあそこに幽閉されていたけれど、もっと自由な状態にあったと思うのです。つまりそういうふうにご神託がくだされていたのだろうと思うんですよ」 「わかりました。そして、望月種子のオート・ミールに毒を盛ったのも早苗だったわけですね。早苗はあのとき宏の身のまわりのものを取りにいくと、病室をはなれていて、自由行動をとっていましたからね」  それからまたしばらく無言でいたのちに、とうとう思い切って三太が口をひらいた。 「それにしてもO型のあれ、ずいぶん思い切ったトリックを考えだしたものですね」 「なにしろ人工授精がさかんに行なわれる時代ですからね。犯人……あるいは犯人たちの思いつくトリックも、科学的といえば科学的、えげつないといえばえげつなくなってくるんですね」 「わかりました」  と、三太は脳裡にこびりついている悪夢を、払い落とそうとでもするかのように、ペコリと頭をさげたのち、しみじみと溜め息をつくような調子でつぶやいた。 「それにしてもねえ、金田一先生、警部さん」 「はあ」 「ぼくはつくづくと風間欣吾という人物の、なんといっていいのか……怪物ぶりには敬服しましたよ。あのひとには凶悪無残な犯人が、じぶんの倅であったとわかっても、大してショックじゃなかったんですね。少なくともぼくほどにはね」 「そこが悪魔の寵児のおやじたるゆえんかもしれんな。あっはっは。ああ、あそこへやってきましたよ。やっこさん、得意満面というふうじゃありませんか」  期せずして三人が立ち上がったとき、悪魔の寵児のうみの親、偉大なる怪物風間欣吾が新夫人ウメ子の手をとって、晴れやかな顔でちかづいてきた。新夫人ウメ子の腹はそろそろひとめにつきそうになっている。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。 (平成八年九月) 金田一耕助ファイル15 |悪《あく》|魔《ま》の|寵児《ちょうじ》  |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成14年1月11日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『悪魔の寵児』昭和49年3月10日初版発行             平成8年9月25日改版初版発行 200行 挨拶状[#電子書籍版では挨拶状画像] 挨拶状は画像のようですが、htmlコメントとして挨拶文の文章が書かれていたため、それを使用しました。